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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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笑えなかったコメディアン 4


相談室には、静かな時間が流れていた。コーヒーの湯気は少しずつ薄れ、それでも香りだけは変わらず二人の間に残っている。コウはその湯気を見つめながら、小さく息をついた。


「忙しい毎日でした。ありがたいくらい仕事があって、劇場も満席、テレビにも呼んでいただいて、街を歩けば『ひだまりだ』って声を掛けてもらえるようになりました」


少しだけ笑う。


「本当に幸せでした。昔は三人しかお客さんがいなかった劇場が、気付けば立ち見のお客さんでいっぱいになっていたんです」


その笑顔は、ゆっくりと寂しさへ変わっていく。


「でもそんな毎日が、ずっと続くわけじゃありませんでした」


窓の外では、紅葉が一枚、池へ落ちた。水面に小さな波紋が広がる。


「ある日…亮が倒れました」


相談室が静かになる。


「収録の途中でした。急に言葉が止まって、そのまま倒れてしまった」


コウは目を閉じる。


「病院で聞かされた病名は、正直よく覚えていません。頭が真っ白になってしまって、医師が何を説明してくださったのか…何一つ入ってきませんでした」


長い沈黙。尊は焦らす事なく、静かに座って続きを待った。


「ただ一つだけ覚えています。『しばらく仕事は難しいでしょう』…その言葉だけでした」


コウはカップに視線を落とした。


「私は、すぐに活動休止を申し出ました。二人で『ひだまり』なんです。亮がいないなら、舞台に立つ理由なんてありませんでした」


少しだけ笑う。


「でも、亮に怒られました。『何言ってる。舞台へ行け。お前が休んだら、お客さんは誰が笑わせるんだ』って…私は納得できませんでした。『お前がいないのに、一人で舞台なんて立てるか』そう言い返しました」


コウは、当時を思い出すように静かに微笑む。


「すると亮は、病室で笑ったんです。『コウ…お前さ、芸人辞めたのか?笑わせるのが仕事だろ。だったら行け、俺の分まで笑わせてこい』……ひどいですよね。そんなこと笑いながら言うんですから」


コウは苦笑した。その目は少し赤かった。


「私は結局、一人で舞台へ立ちました。照明が当たり、拍手が聞こえる。いつもなら隣に亮が立っていました。でも…その日は、隣に誰もいませんでした」


静かな声が続く。


「舞台袖で思わず『亮』って呼んでしまったんです。もちろん返事なんてありません」


相談室に沈黙が落ちる。


「舞台へ出ると、お客さんは笑ってくれました。私も笑いました。いつも通り何事もないように、必死に笑わせ続けました」


少しだけ俯く。


「終演後に病院へ向かいました。亮は『今日はどうだった?』って聞くんです。だから私は『大ウケだった』そう答えました。すると。『そうか、ならよかった』それだけ言って、安心したように眠るんです」


コウは拳をそっと握った。


「そんな日々が何か月も続きました。昼は病院、夜は舞台。終われば、また病院。私は舞台で笑って、病室で泣いていました」


長い沈黙。


「ある朝でした。病院から電話が掛かってきました。私は…すぐに分かりました。でも分からないふりをして、劇場へ向かったんです。その日の舞台を休みたくなかった。……いや、休めなかった」


コウは静かに首を振る。


「亮なら『行け』って言うと思ったから」


コウは目を閉じる。


「舞台へ立ちました。いつも通り笑いました。お客さんも笑いました。最後に私は言ったんです。『今日は相方の分まで笑わせました』その瞬間、客席から大きな拍手が響きました。私は笑顔のまま頭を下げました。最後まで、涙だけは見せませんでした。でも…」


コウは震える声で続ける。


「舞台袖へ戻った瞬間…もう立っていられませんでした。誰もいない楽屋で、子どもみたいに泣きました」


相談室には、風鈴の音だけが静かに響く。ちりんー…尊は何も言わない。ただ、コウの言葉が静かに落ち着くのを待つように、穏やかな眼差しを向けていた。


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