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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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20/23

笑えなかったコメディアン 3

相談室には、コーヒーの香りが静かに漂っていた。コウはカップを見つめながら、小さく笑う。


「『ひだまり』を結成したからって、すぐに売れたわけじゃありません。むしろ、一人でやっていた頃より苦しかったですね」


少し肩をすくめる。


「生活費は二人ともアルバイトで、昼は働いて、夜は劇場。ネタを書いて、朝まで練習。眠る時間なんて、ほとんどありませんでした」


懐かしそうに笑う。


「それでも亮は、文句を言わない人でした。『もう一回』『今の間、半拍早い』『そこは笑いを待て』…厳しい人でした。でも舞台のことになると、本当に真剣だった」


コウは窓の外へ目を向ける。桜の花びらが舞い、その向こうでは雪が静かに降っている。


「劇場には、お客さんが三人しかいない日もありました。最前列に一組の夫婦、後ろに眠っているおじいさん…それだけ」


苦笑する。


「それでも、亮は言うんです。『三人いる。満席だと思え』だから私たちは、いつだって全力でした。笑ってくれる人が一人でもいるなら、その人のために舞台へ立つ。それだけは、二人で決めていた約束でした」


少し間が空く。


「ある日のことです。舞台が終わって楽屋へ戻ると小学生くらいの女の子が、手紙を持って待っていました。」


コウの表情が、ふっとやわらぐ。


「その子は病院の匂いがまだ残っているような、少し大きめのカーディガンを着ていました。頬は少しこけていて、でも目だけはまっすぐで。私たちを見上げる顔が、すごく小さくて、すごく一生懸命だったんです」


コウは、当時の光景を思い出すように視線を落とした。


「その子は恥ずかしそうに…でも、ちゃんと私の目を見て言ったんです。『今日、初めて笑いました。』」


その瞬間の空気を、コウは今も覚えていた。楽屋のざわめきが、すっと遠のいた気がした。蛍光灯の白い光、壁に貼られた古いポスター、舞台袖からまだ残っていた汗と化粧の匂い…その全部が、あの小さな声を中心に静まり返った。


「お母さんが続けました。『この子、入院してからずっと笑わなかったんです。』…私は返事ができませんでした。亮も何も言いませんでした。ただ二人で頭を下げました」


コウの喉が、わずかに鳴る。


「その子は、手紙をぎゅっと胸に抱えていました。笑ったあとも、まだ少し照れていて。でも、さっきまで固く結ばれていた口元が、ふわっとほどけていて…頬には、ほんの少しだけ赤みが差していました。その笑顔が本当に、きれいだったんです」


コウはそこで一度、言葉を切った。


「病院のベッドの上で毎日、痛い思いをして…きっと我慢ばかりして、それでも、あの子は笑ってくれた。私たちの舞台で、たった一度でも……その事実が、胸に落ちた瞬間、私は息ができなくなりました」


声は静かなままだったが、その奥には確かな震えがあった。


「嬉しかったんです、本当に。でも同時に、こんな小さな子が…笑うことを忘れるほど苦しかったんだと思ったら……胸の奥が、ぎゅっと掴まれたみたいで、笑わせられたことが誇らしかったのに、その笑顔があまりにも切なくて、私はうまく笑えませんでした」


コウは少し目を潤ませながら続ける。


「劇場を出たあと、亮が歩きながら言いました。『俺たち続けよう。売れなくてもいい。一人でも笑ってくれるなら、それでいい』その言葉で私は、この人となら一生舞台に立てる…そう思いました」


相談室は静かなままだった。尊は、穏やかな笑みを浮かべて耳を傾けている。コウはコーヒーを一口飲み、続けた。


「それから数年後でした。一本の電話が掛かってきたんです。『テレビに出ませんか』って。最初は信じられませんでした。何かの間違いだと思いました。でも本当でした。あの日、私たちは初めてテレビ局へ入りました。あまりに緊張して、控室で二人とも無言。すると亮が『コウ…お前、顔が青いぞ。笑え』そう言った本人が、一番緊張していました」


思わず吹き出す。


「だから私も言い返しました。『お前の方が真っ青だ』その瞬間、二人とも大笑いしました。スタッフさんに『本番ですよ』って呼ばれるまで」


穏やかな笑いが相談室に広がる。


「テレビは怖いくらい反応が早かった。一本出ただけで劇場に人が増え、次の仕事、また次の仕事。気が付けば毎日、全国を飛び回る生活でした」


コウは少し遠くを見る。


「忙しかったですね。朝は情報番組、昼はロケ、夜は劇場、帰るのは深夜、寝るのは移動中。そんな毎日でした。それでも舞台だけは、絶対に手を抜きませんでした。テレビで知ってくれた人も、何年も応援してくれている人も、同じように笑って帰ってほしかったから」


ゆっくりと息を吐く。


「ファンの方から、よく言われました。『コウさんは、いつも笑顔ですね』って。私はそのたびに『ありがとうございます』…そう答えていました」


少しだけ沈黙が流れる。コウは静かに微笑む。


「でも本当は、笑顔だったのは…舞台の上だけだったんです」


その一言だけが、静かな相談室に残った。尊は何も言わない。ただ、コウの次の言葉を待つように、静かにコーヒーカップへ手を添えた。四季庭では、風鈴が優しく鳴っていた。ちりんー…その音だけが、二人の間を静かに通り過ぎていった。


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