笑えなかったコメディアン 2
コーヒーから立ち上る湯気が、ゆっくりと二人の間を漂っていた。相談室には、静かな時間が流れている。
尊は何も急かさない。コウもまた、すぐには口を開かなかった。両手でカップを包み込み、しばらくその温もりを確かめるようにしてから、一口だけコーヒーを飲む。
「ああ……」
思わず、小さく息が漏れた。
「この味……」
懐かしむように目を細める。
「昔、劇場の近くにあった喫茶店を思い出します」
尊は穏やかに微笑んだ。
「そうなんだ」
それだけだった。それ以上は聞かない。語るべき人生は、相談者自身の言葉で紡がれるものだから。コウはゆっくりと息を吐いた。
「私は、小さい頃から、人を笑わせるのが好きでした。特別なことは何もできませんでしたけど、変な顔をしたり、先生のものまねをしたり、わざと転んでみせたり。そんなことだけで、みんな笑ってくれたんです」
自然と、口元が緩む。
「笑う顔を見るのが好きでした。父も、母も、妹も、友達も、笑っている時だけは、嫌なことを忘れられるでしょう?」
少し照れくさそうに肩をすくめた。
「だから笑わせることが、私の仕事になるなんて、思ってもいませんでした」
窓の外では、桜の花びらが風に乗って舞っている。雪は静かに降り続け、鹿威しが澄んだ音を響かせた。
「高校の文化祭でした」
コウは、少しだけ遠くを見るような目をした。
「友達に無理やり舞台へ引っ張り出されまして『何かやれ』って。仕方なく、先生のものまねをしたんです」
その時のことを思い出したのか、コウは小さく笑った。
「大爆笑でした。体育館中が笑って、先生まで笑っていました」
その瞬間を思い返すように、コウは静かに目を閉じる。
「その時、初めて思ったんです」
少し間を置く。
「人を笑わせるって……こんなに幸せなんだって」
その一言を口にした時の表情は、とても穏やかだった。
「卒業して、私は芸人を目指しました。もちろん、父には反対されました。『ちゃんと働け。芸人なんて、一握りしか売れない』そう言われました。……その通りだと思います」
一度、視線を落とす。
「でも一度だけ…人生で、本当にやりたいことをやってみたかった」
コウはゆっくりと息を吸った。
「だから家を出ました。小さなアパートを借りて、昼はアルバイト、夜は劇場。そんな毎日でした」
尊は静かに耳を傾けている。コウは続けた。
「生活は苦しかったですよ。コンビニのおにぎり一つを半分にして食べたり、劇場まで歩いて交通費を節約したり、冬は暖房も付けられなくて…コートを着たまま寝たこともあります」
苦笑がこぼれる。
「でも不思議と、楽しかった。あの頃は売れなくても、明日は笑ってもらえるかもしれない。そんな希望だけで、生きていました」
相談室には、静かな空気が流れていた。コウはコーヒーをもう一口飲む。そして、少しだけ声を落とした。
「あの日…私は、一人の男と出会いました」
尊のまなざしが、わずかに動く。コウは、懐かしそうに目を細めた。
「劇場の隅に一人だけ、全然笑っていない人がいたんです」
その時の違和感を思い出すように、コウは小さく首を傾げる。
「なんだ、この人って…そう思いました」
終演後、勇気を出して声を掛ける。すると、その男は真顔のまま、こう言った。
『ツッコミが下手』
コウは、思わず吹き出しそうになって、すぐに顔をしかめた。
「……初対面ですよ?なのに、開口一番それです」
尊の口元に、小さな笑みが浮かぶ。コウも、つられるように少し笑った。
「腹が立ちました。でも、悔しかったんです。だから、毎日その人のところへ通いました。何度ネタを見せても『まだ下手』『間が長い』『今のボケは死んでる』…褒められたことなんて、一度もありません」
そこまで言って、コウはふっと息を漏らした。
「……本当に、ひどい人でしたよ」
けれど、その声には、もう怒りはなかった。むしろ、懐かしさが滲んでいる。
「それでも、私は通い続けました。気づいたら…その人に認められたかったんでしょうね」
相談室に、静かな沈黙が落ちる。コウは、カップを両手で包み直した。
「ある日でした」
その声が、少しだけ変わる。
「いつものようにネタを見せたあと…その人が、ぽつりと言ったんです」
コウは、そこで一度言葉を切った。まるで、その一言を口にするために、ここまで話してきたかのように。
「……お前、一人でやるより二人の方が面白い」
その瞬間。相談室の空気が、静かに変わった。尊も、何も言わない。ただ、まっすぐにコウを見ている。コウは、ゆっくりと息を吐いた。
「それが、藤堂亮との出会いでした」
長い沈黙。けれど、それは重苦しいものではなかった。何かが始まる前の、静かな余白だった。コウは、懐かしそうに微笑む。
「あの日から…私たちは、コンビになりました」
少しだけ間を置いて、続ける。
「コンビ名は『ひだまり』」
その名前を口にした瞬間、コウの表情がやわらかくほどけた。これまでのどの笑顔よりも、優しかった。
「誰かの心が少しでも温かくなりますように、そんな願いを込めて……二人で付けた名前でした」
コウはそこで言葉を止めた。相談室には、もう誰も何も言わない。ただ、静かな余韻だけが、湯気のようにゆっくりと満ちていく。尊は何も急かさず、ただ穏やかにその名を受け止めていた。




