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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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笑えなかったコメディアン 1


四季が一つの庭で静かに息づいていた。桜の花びらが風に乗って舞い、その足元には雪が淡く積もっている。青々とした竹林を風が抜け、紅葉が池へと落ちる。鹿威しが澄んだ音を響かせ、風鈴が小さく揺れた。時間という概念から切り離された、世界と世界の狭間。異世界相談所…その縁側では、一人の青年が寝転がっていた。畳に片肘をつき、湯のみを片手に庭を眺めていたはずが、いつの間にか小さな寝息を立てている。


「……すぅ」


穏やかな寝顔だった。その隣では、少女のような面立ちの青年が静かに書類を整理している。整った黒髪、感情をほとんど表に出さない穏やかな表情。受付を任されている松平だった。ふと、尊の方を見る。


「尊様」


返事はない。


「尊様」


やはり返事はない。松平は小さく息をつくと、そっと湯のみを机へ戻した。


「……また寝ておられます」


その時だった。廊下の奥から…。


ーカランー


澄んだ鈴の音が、静かに相談所へ響いた。尊はゆっくりと目を開ける。眠そうに空を見上げ、小さく笑った。


「来たね」


松平は静かに一礼する。


「新しい相談者様です」


尊は大きく伸びをした。


「お願いしてもいい?」

「かしこまりました」


松平は受付へ向かう。尊は再び四季庭へ視線を戻した。


「今日は、どんな人生なんだろう」


小さく呟き、お茶を一口飲む。それ以上は何も言わない。相談者の人生は、相談者自身が語るものだから。


受付の奥。一つの扉が静かに開いていた。その先にある部屋は、今回も相談所が選んだ「一番安心できる場所」…木目の美しい床、壁には古いポスターが何枚も飾られている。小さなソファ、台本が積み重なった机、丸い照明が、部屋全体を温かく照らしていた。楽屋だった。舞台へ上がる前に何度も何度も過ごした、小さな楽屋。そこに、一人の男性が静かに横たわっていた。ゆっくりと瞼が開く。


「……あれ」


身体を起こし、部屋を見回す。見覚えがある。いや正確には、よく似ていた。若い頃から使い続けた劇場の楽屋。緊張して、笑って、相方とネタ合わせをした場所。自然と口元が緩む。


「……落ち着くな」


理由は分からない。知らない場所のはずなのに。胸の奥にあった張りつめた何かが、少しだけほどけていく。この空気は、舞台袖に立つ直前の静けさに似ていた。客席のざわめきが遠くにあって、相方の「いくぞ」という小さな声だけが聞こえる、あの感じ。失敗しても、笑われても、ここならまた立ち上がれる気がした。そんな記憶が、身体の奥からそっと顔を出す。その時、襖が静かに開いた。松平が一礼する。


「お目覚めですか」


男性は少し驚きながら立ち上がった。


「あの……」


松平は穏やかに言う。


「私は松平と申します。異世界相談所へようこそ」


異世界相談所…初めて聞く名前だった。だが、不思議と恐怖はなかった。


「こちらへどうぞ」


松平が静かに歩き始める。男性も後に続いた。廊下へ出ると、柔らかな風が頬を撫でた。歩みを進めるたび、視界が開けていく。そこには桜と雪、紅葉と青葉。すべての季節が同時に存在する、美しい庭が広がっていた。男性は思わず足を止める。


「……すごい」


松平は振り返る。


「相談所の四季庭です。ここには時間がありません。そのため、四季も一緒に息づいています」


男性は庭を見つめたまま、小さく笑った。


「芸人を長くやってると…いろんな景色を見てきたけど、これは初めてだな」


その言葉には、少しだけ懐かしさが滲んでいた。売れない頃、地方の小さな劇場を回った日々。狭い楽屋で、古い鏡に向かって何度も表情を作ったこと。客席が三人しかいなかった夜も、袖で相方と肩を叩き合って笑ったこと。あの頃の自分なら、きっとこの庭を見て「ネタのセットみたいだ」と言っただろう。松平は何も言わず、静かに歩き出す。やがて、一枚の障子戸の前で足を止めた。


ーコン、コンー


「尊様、相談者様をお連れいたしました」


部屋の中から、穏やかな声が返る。


「どうぞ」


松平は静かに障子を開ける。


「失礼いたします」


部屋の中には、文机ではなく、木の丸テーブルと二脚の椅子が置かれていた。テーブルには、湯気の立つコーヒー。そして、小さな焼き菓子。向かいには、一人の青年が柔らかな笑顔で座っている。


「いらっしゃい」


その笑顔には、不思議な安心感があった。男性は自然と頭を下げる。


「……朝倉恒一あさくらこういちです」


少し間を置いて、照れくさそうに笑う。


「でも、みんなには『コウ』って呼ばれてました」


尊は微笑みながら頷いた。


「じゃあ、僕もコウさんって呼ばせてもらうね」


コウは少しだけ笑った。その笑顔は、どこか寂しかった。椅子へ腰を下ろす。コーヒーから立ち上る香りが、懐かしい劇場の休憩時間を思い出させた。出番前、相方と缶コーヒーを分け合いながら、くだらない話で緊張を紛らわせた時間。あの頃は、笑うことが仕事で、笑えない夜ほど長かった。それでも舞台に立てば、照明の熱と拍手が、ほんの少しだけ自分を救ってくれた。しばらく沈黙が続く。やがて、コウは尊を見つめる。


「話、聞いてもらえますか」


尊はいつものように、穏やかに微笑んだ。


「もちろん」


その一言だけが、静かな相談室に優しく響いた。


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