白衣を脱げなかった医師 6
相談室には、言葉の落ちたあとの静けさが満ちていた。尊は救命医を見つめたまま、急かすこともなく、ただ穏やかに口を開く。
「君の人生は、最後まで聞かせてもらった。だから今度は僕から、三つの選択肢を贈るね」
救命医は、ゆっくりと頷いた。尊は指を一本立てる。
「一つ、このまま受け入れて進む。君が歩んできた人生も、後悔も、全部抱えたまま、その先へ進む道」
少しだけ間を置いて、尊は二本目の指を立てた。
「二つ、輪廻の輪へ還る。すべてを手放し、新しい命として生まれ変わる道」
相談室は静まり返っていた。四季庭では、風鈴がひとつ、かすかに揺れている。ちりん…その音だけが、遠くから届いた。尊は三本目の指を立てる。
「三つ…少しだけ時を遡り、人生をやり直す」
救命医の瞳が、わずかに揺れた。尊は静かに続ける。
「ただし、やり直したことで変わってしまう未来については、僕は責任を取れない。救える命もあれば、救えなくなる命もある。そのすべてを受け入れる覚悟が必要になる」
その言葉が落ちたあと、相談室には深い沈黙が降りた。救命医は俯いたまま、動かない。娘の笑顔、病院の廊下、救えた命、救えなかった命。胸の奥に積もった年月が、ひとつずつ静かに浮かび上がっては沈んでいく。やがて、救命医は小さく息を吐いた。
「……先生…神様……何と呼べば?」
尊は、すぐに首を横に振る。
「尊でいいよ」
救命医は、ほんの少しだけ笑った。
「では、尊さん。もし娘を救えるなら…私は迷わず、やり直しを選んでいたと思います。何度でも、何十回でも、父親ですから」
尊は何も言わない。ただ、その言葉の重さを受け止めるように、静かに見つめていた。救命医は続ける。
「でも私がやり直せば…あの日、私が救った命は……きっと変わってしまう。私が担当した患者さんも、出会った仲間も、生き延びた誰かも……違う未来になるかもしれない」
救命医の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。それは諦めではなく、ようやく辿り着いた理解のようだった。
「私は救命医でした。命に優先順位はない、そう教えてきました。なら娘だけを選ぶことは、きっと娘も望まない」
その言葉を口にしたあと、救命医はゆっくりと顔を上げた。瞳の奥にあった迷いは、もうなかった。
「私は、この人生を受け入れて進みます。救えなかった命も、救えた命も、全部抱えて。もう一度胸を張って、娘に会える日まで、医師として生きた人生を誇れるように」
尊は、ほんの少しだけ目を細めた。その笑みは、慰めでも祝福でもなく、ただ静かな肯定だった。
「その選択、受け取った」
尊はそう言って、静かに両手を合わせる。
ーパンッー
澄んだ柏手の音が、相談室の空気をやわらかく震わせた。その瞬間。何もなかった空間に、一枚の古い木の扉が現れる。木目には長い年月が刻まれ、取っ手だけが淡い光を帯びていた。扉の向こうは、白い光しか見えない。その先を、尊も知らない。救命医は、しばらくその扉を見つめていた。まるで、そこに娘の姿を探すように…それから、静かに立ち上がる。椅子が床を擦る音さえ、やけに大きく聞こえた。救命医は尊へ深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
尊は穏やかに笑う。
「こちらこそ。人生を聞かせてくれて、ありがとう」
救命医は一度だけ、相談室を見渡した。窓の外に広がる四季庭。湯気の残る二つのコーヒーカップ。そして、変わらぬ表情でそこにいる尊。その景色を胸に刻むように、救命医は静かに目を閉じた。やがて、扉へ向かって歩き出す。一歩、また一歩。その背中は、来た時より少しだけ軽く見えた。扉の前で、救命医はもう一度だけ振り返った。尊は何も言わない。ただ、穏やかに見送っている。救命医は小さく息を吸い、白い光の中へ足を踏み入れた。
その瞬間だった。右手に、ふわりと小さな感触がした。まるで、誰かがそっと手を握っているような、あたたかくて小さな感触。救命医は、導かれるように右手を見た。そこには、小さな女の子が立っていた。七歳ほどの、あどけない笑顔。赤い運動靴、見覚えのある髪留め。そして、何よりもよく知っている、愛しい瞳。女の子は救命医を見上げながら、満面の笑みを浮かべていた。
『待ってたよ! 一緒にいこう、お父さん』
その声を聞いた瞬間、救命医の呼吸が止まる。目の奥が熱くなり、胸の奥に押し込めていたものが、一気に溢れ出した。
「……ああ……ああ、本当に待たせたね。ごめん……本当に、ごめん」
娘は首を横に振る。
『違うよ、お父さん。ずっと頑張ってたもん。だから、待ってた。お父さんが、自分を許せる日を…』
小さな手が、ぎゅっと握り返す。
『一緒に帰ろ』
救命医は泣きながら何度も頷いた。
『ああ、帰ろう』
震える声だった。けれど、その声には、長い年月の後悔も、苦しみも、すべてが溶けていた。救命医は、そっと膝をつく。そして、目の前の小さな娘を、今度こそ離さないように、しっかりと抱きしめた。細い肩、小さな背中。確かにそこにある温もり。失ったはずのものが、ようやく腕の中に戻ってきた。娘は嬉しそうに笑い、救命医の胸に顔をうずめる。そのまま、二人は白い光の中へゆっくりと包まれていった。尊は何も言わない。ただ静かに、その背中を見送っていた。
扉は音もなく閉じる。そして次の瞬間には、そこに何もなかった。木の扉も、白い光も、最初から存在しなかったかのように、静かに消えていた。相談室には、ただ空気だけが残る。さっきまで誰かが座っていた椅子。まだ湯気の立つコーヒー。けれど、その場にあったはずの温度だけが、もうどこにもない。尊はしばらく扉があった場所を見つめていた。やがて、小さく微笑む。
「……きっと、もう大丈夫だね」
その言葉に、松平は何も答えない。ただ静かに一礼すると、空になったコーヒーカップを下げていく。尊も立ち上がった。
「じゃあ、最後の仕事をしようかな」
そう言って相談室を出る。廊下を歩き、四季庭を横切る。桜の花びらが肩に落ちる。雪がそっと溶ける。竹林を抜ける風が優しく頬を撫でた。相談所の一番奥。唯一、姿を変えない部屋、尊の執務室。畳の香り、障子から差し込む柔らかな光。文机、硯、筆、壁一面の本棚。尊はいつもの席へ座ると、机の上に置かれていた一冊の本を静かに開いた。真っ白だった背表紙には、いつの間にか金色の文字が浮かんでいる。
『白衣を脱げなかった医師』
尊は優しく微笑み、筆を取った。墨をすり、静かに最後の一頁を書き始める。
『人は、救えなかった命ばかりを抱えて生きてしまう』
筆先が静かに紙を滑る。
『けれど、その手は確かに、数え切れない命を支えてきた』
尊は一度だけ筆を止める。四季庭から風鈴の音が届く。
ちりん…再び筆を走らせる。
『誰かを救い続けた人生は、たとえ大切な人を救えなかったとしても、決して間違いではない』
尊は本を閉じる。すると淡い金色の光が、本全体を優しく包み込んだ。まるで役目を終えたことを喜ぶように、本は静かに浮かび上がる。ふわり…そのまま壁一面の本棚へと導かれ、一冊分だけ空いていた場所へ吸い込まれるように収まった。光はゆっくりと消えていく。本棚には、また一冊…新たな人生が刻まれた。尊は満足そうに微笑んだ。
その時だった。視線が、本棚の隅で止まる。そこには、一冊だけ何年も変わらない本が置かれていた。真っ白な背表紙、題名もない、名前もない、光ることもない。尊はその本を手に取る。不思議そうに首をかしげた。
「……これ、誰の本なんだろう」
しばらく眺めてみる。思い出そうとしても、何も思い出せない。やがて苦笑すると、元の場所へそっと戻した。その様子を見ていた松平は、何も言わない。何も聞かない。ただ静かに、その本を見つめていた。相談所には、再び穏やかな静寂が戻る。そして、どこか遠くで…。
ーカランー
新しい鈴が鳴った。尊はゆっくりと顔を上げる。穏やかな笑みを浮かべながら、立ち上がった。
「松ちゃん、次の相談者みたいだ」
松平は静かに頷く。
「はい、尊様」
止まった時計は、今日も動かない。けれど異世界相談所には今日もまた、新しい人生が訪れる。




