帰る場所を探して 5
白い道の先に、小さな光があった。尊と松平は、その光へ向かってゆっくり歩いていた。
ーコツ、コツー
二人の足音だけが、白い空間へ吸い込まれていく。風はない、鈴もない、時計もない。それなのに尊には、なぜか時間が流れているように感じられた。
「松ちゃん」
「はい」
「この場所、何もないのに変だね」
「何がでしょうか?」
「静かすぎる」
尊は少し考える。
「相談所って、いつも何か音がするでしょう。鈴とか、風とか、時計とか。でもここには、何もない」
松平は静かに答える。
「ここは記憶が、音を失う場所なのです」
尊は足を止めた。
「記憶が?」
「はい。誰かに忘れられた記憶。誰にも語られなかった人生。約束されながら、果たされなかった言葉」
松平の声は、いつもより低かった。尊はその言葉を聞きながら、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
「じゃあらここには忘れられたものが集まってるの?」
「はい」
「だから一柱は、ここへ来た?」
松平は、すぐには答えなかった。けれどやがて、小さく答えた。
「はい」
尊の表情が変わる。
「どうして?一柱が忘れられたの?」
「違います。一柱は、忘れられたのではありません」
「……じゃあ」
「自ら忘れられることを、選ばれたのです」
尊は息を呑んだ。
「自分から?」
「はい」
「なぜ…」
松平は白い道の先を見る。
「誰かを、守るために」
尊の胸が強く鳴った。
「僕を?」
松平は一度だけ目を伏せた。
「………はい。正確には尊様だけではありません。この相談所に来る…すべての“迷い”を抱えた人々をです」
尊の呼吸が止まる。
「相談所の人たちを?」
「はい。一柱は“迷い”そのものを引き受ける器として、この場所に残られました。もし一柱が存在したままなら、相談所に集まる迷いは全て一柱へ流れ込み…やがてこの庭も、人の心も壊れてしまう」
尊は、ゆっくりと目を見開く。
「だから、自分を消した?」
松平は静かに頷く。
「はい。“一柱”という存在そのものを記憶からも、記録からも、人の認識からも消すことで、迷いの受け皿だけを残されたのです」
尊の声が震える。
「じゃあ、僕の記憶からも?」
松平は一瞬だけ沈黙した。
「はい。尊様の中からも、一柱は消えました。それは、一柱ご自身の願いでした」
尊は胸を押さえる。
「どうしてそこまで…」
松平は初めて、はっきりと答えた。
「尊様が“迷いを抱えたままでも生きていける人間”になるためです。一柱は尊様が、誰かを救う側に立てるように、自分が“支えられる記憶”になることを選ばれました」
尊の目が揺れる。
「僕のために……?」
「はい。そしてもう一つ………」
松平は続ける。
「一柱には、守りたかった“具体的な対象”がありました」
尊は息を呑む。
「それは…?」
「この相談所に来る人々の中でも特に、“帰る場所を失った子どもたち”です」
尊の記憶が一瞬揺れる。たしかに相談所に来た。泣いていた子どもたち、帰れないと言った人たち、その全ての“痛み”が一柱に流れ込む構造。
「その人たちの迷いを、一柱は一人で受け止め続けていました。そして尊様がそれを知れば、必ず止めようとする。だから尊様の記憶からも、自分を消す必要があったのです」
尊は小さく笑った。けれど、それは笑いではなかった。
「…ひどいな」
「え?」
「一柱……全部一人で背負って、僕に何も言わないで、勝手に消えて」
松平は何も言えない。尊は白い道の先を見る。
「でも…それでも僕を守ったんだね」
松平は静かに頷く。
「はい」
光の前まで二人は辿り着いた。そこには一冊の本があった。机もない、棚もない。ただ白い空間の中に、一冊だけ置かれている。白い本に、尊はゆっくり近づいた。
「これ、僕の本?」
松平は答えない。尊は本へ手を伸ばす。触れる…その瞬間、白い光が一気に広がった。少年の尊、小さな庭、一柱、そしてもう一人…てまだ顔の見えない誰か三人で、縁側に座っている。一柱が静かに言う。
「この世界には、帰れない人が多すぎます」
もう一人が泣く。
「じゃあ誰が助けるの」
一柱は少しだけ笑う。
「私が」
少年の尊が言う。
「一柱がいなくなったら?」
一柱は尊を見る。
「その時は、あなたが助けてください」
「でも忘れてしまったら?僕も、迷ってしまう?」
一柱はほんの少しだけ沈黙する。そして優しく言う。
「なら私が忘れられます。あなたが迷わないように。あなたが誰かを救えるように。私という記憶は、消えてもいい」
景色が崩れる。尊は白い本から手を離す。呼吸が乱れる。
「……今の記憶。一柱、僕のために消えたんだ。迷わないように」
松平は静かに頷く。
「はい。そして相談所に来る“帰れない人たち”を、一人で受け止め続けるために…存在そのものを消されました」
尊は目を閉じる。
「そっか、僕は守られてたんだ」
長い沈黙が空間に広がる。やがて尊は、小さく笑った。
「じゃあ今度は、僕が守る番だね」
松平は静かに目を見開く。尊は白い本を見つめる。
「一柱、今度は忘れない。絶対に」
その瞬間、白い空間がわずかに揺れた。背後でーカチー時計の音。尊が振り返る。懐中時計の針が、確かに一歩進んでいた。松平は静かに言う。
「一柱はまだ、ここにいます」
尊は時計を握る。
「じゃあ、迎えに行く。今度は僕が」
白い道の先には、まだ誰も知らない夜が静かに待っていた。




