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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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帰る場所を探して 6

鈴のない場所から戻ると、異世界相談所は何事もなかったように静かだった。四季庭では桜が舞っていた。その花びらは空中で溶けるように散り、同じ枝には若葉が同時に芽吹いている。さらにその足元では、紅葉が風に揺れながら池へ落ち、波紋の上には雪が静かに降り積もっていた。春と夏と秋と冬が、時間ではなく“層”として重なり合っている。風が吹くたびに、桜の花びらが雪片と混ざり、紅葉の葉が若葉の緑に触れて色を変える。視界そのものが、季節の境界を失っていた。


ーコンー


鹿威しの音は確かに“今”を刻んでいるのに、その響きの奥では別の季節の水音が重なっている。


ーちりんー


その音は夏のはずなのに、同時に凍った空気のような冷たさを含んでいた。いつもの音、いつもの景色、いつもの相談所。けれど尊はその瞬間、「ここは変わっていない」のではなく「自分の見え方が変わったのだ」と気づいた。


(同じ場所なのに、全部が“重なって見える”)


ただの風景ではない。何かが“同時に存在している場所”に見える。


「……天帰ってきた」


縁側に立ったまま、尊が小さく呟く。その声には安心ではなく、『確認』の響きがあった。松平は少し後ろで静かに頭を下げる。


「お帰りなさいませ」


その言葉に、尊は振り返る。


「松ちゃん」

「はい」


「今の言葉、なんか……初めて聞いた気がしない」


ここで尊は初めて気づく。


(初めてじゃないんじゃない。“思い出せないだけ”だ)


松平の表情が一瞬だけ揺れる。だがすぐに戻る。


「そうかもしれません。この場所では同じ言葉が、何度も繰り返されますから」

「そっか」


尊は小さく笑う。しかしその笑顔は以前の軽さではない。『違和感を受け入れた上での笑顔』だった。


(ここは“繰り返す場所”なんだ)


尊はこの時、初めて理解する。縁側を歩き、執務室へ戻る。執務室で、尊は机の上へ一冊の本を置いた。白い本、まだ名前はない。けれどその表紙には、淡い金色の文字が二つ浮かんでいる。


『帰』

『約』


尊は指先でその文字をなぞる。その感触は、ただの紙ではなく“記憶の表面”のようにわずかに温かい。


(これは偶然じゃない。誰かが残した“意図”だ)


「帰る。約束」


小さく読み上げる。そして尊は気づく。


(帰るのは場所じゃない。約束は言葉じゃない…これは“関係そのもの”だ)


「あと一つ。最後の言葉がある」


松平は答えない。その沈黙を見て、尊は理解する。


(知らないんじゃない。“言えない”んだ)


「松ちゃん」

「はい」

「知ってるんでしょう」

「……」

「最後の一文字………何なの?」


長い沈黙。松平は白い本から視線を外さない。


「申し訳ございません。まだ、お伝えすることはできません」


この瞬間、尊の中で感情が変わる。以前なら不安だった…だが今は違う。


(隠してるんじゃない…守ってる)


尊はしばらく松平を見つめたあと、ふっと笑う。


「そっか。じゃあ、僕が見つける」


その言葉は勢いではない。『理解の上での選択』だった。松平の瞳がわずかに揺れる。


「……はい。その時まで、お供いたします」

「うん」


尊は本をそっと閉じる。


(待つ側じゃない。探す側になる)


「一緒に行こう、松ちゃん」



その夜、相談所には誰の気配もなかった。尊は一人で受付へ向かう。壁一面に並ぶ時計。柱時計、懐中時計、砂時計、日時計、魔法時計。すべてが止まっている。だが尊は気づく。


(止まっているんじゃない。動かないことにされている)


尊は懐中時計を手に取る。


「時間って不思議だね。止まってるのに、なくなってない」


これは感傷ではない。『構造への理解』だった。


ーカチー


秒針が動き、尊は息を止める。


(動いた。偶然じゃない)


もう一度。


ーカチー


二目盛り、そして止まる。尊は静かに笑う。


「進んだ…少しだけ。でも、確かに進んだ」


ここで決意は完成する。


(これは戻る物語じゃない。動き出す物語だ)


「じゃあ、まだ…終わってないんだ」



その頃、執務室では松平は白い本の前に立っていた。


『帰』

『約』


その下には何もない。松平は初めて明確に理解する。


(これは隠し事ではない。選択の結果)


「……あと一つ。どうか尊様ご自身が、その言葉を見つけてくださいますように」


それは祈りであり、恐れでもあった。


(思い出せば戻れない。それでも進むなら止められない)



四季庭が朝の表現になる頃、縁側には湯呑みが二つ。白い本を持ちながら、尊は迷わず言う。


「一柱の分」


ここで尊の認識は完全に変わる。


(いないではない。まだ来ていない)


松平はその言葉に驚くが否定しない。


「……そうですね」


尊は四季庭を見る。桜が舞い、若葉が揺れ、紅葉が落ち、雪が積もる。そのすべてが同時に存在している。


(ここは『時間の場所』じゃない、『重なりの場所』だ)


「帰る場所…ここだから」


少し間を置く。


(帰る場所は場所じゃない。待つ関係だ)


「だから、ちゃんと空けておく」


その瞬間、鈴が鳴る。


ーカラン…ー



尊は振り返らない。もう驚かない。


(これは呼びかけ…確認だ)


「…聞こえた」


松平も静かに頷く。


「はい」


白い本に尊は一文字を書く。


『束』


ここで意味が完成する。


(帰・約・束…関係の完成形だ)


白い本が光る。同時に、相談所の時計が一斉に動き始める。尊はそれを見て理解する。


(世界が動いたんじゃない。僕が動く側になった)


「もう待ってるだけじゃない。迎えに行く」


これは決意ではない。『状態の変化』だった。風が吹き、桜が舞う。その中で尊は最後に気づく。


(これは思い出す物語じゃない。取り戻す物語だ)


そして静かに言う。


「今度こそ見つけるから」


その声は迷いではない。『確信』だった。白い本の奥で、まだ名もない文字が揺れる。それはもう終わりではなく…始まりの名前だった。


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