帰る場所を探して 4
「そこに、一柱がいるの?」
声は霧に吸われて消えた。松平は答えない、動かない。紙片を見ている、ただそれだけ。指先が白く、血の気がない。まるで長い時間を血の流れなしで過ごしてきたように。
「松ちゃん」
呼ぶ声が、少しだけ掠れた。
「……はい」
返事は遅い。一拍ではない、二拍でもない。“間”が不自然に長い。まるでどこか遠くから、言葉を引き戻しているように。
「答えて」
沈黙が長い。風はない、音もない。それなのに胸の奥だけがざわつく。松平は目を伏せる。一度、深呼吸をして落ち着けようとする。その動作が、少しだけ遅れている。
「一柱がいらっしゃるかどうかは、私にも分かりません」
「でも、行っちゃ駄目なんだよね」
「はい」
即答が速すぎる。迷いがない。“考える前に出た答え”のように、それが逆に怖い。
「どうして?」
松平は口を開かない。いや開けない。喉の奥で言葉が詰まる。その詰まり方が、人間のそれではない。沈黙が長く続き、全てが重く沈む。
「松ちゃん。僕、一柱を探しに行くって決めたよ」
「はい」
「だから、危険なら教えてほしい」
松平の視線が揺れる、ほんの一瞬。“揺れたあとに戻る”のではなく、“揺れたまま固定される”。
「危険なのは、場所ではございません」
「え?」
空気が止まる。
「そこへ行けば、尊様が思い出してしまう可能性がございます」
尊の呼吸が、一拍遅れる。
「思い出す?」
「はい」
「一柱のこと?」
松平は首を振る。動きが、わずかに遅い。
「それだけでは…」
言葉が切れる、続かない。“続きが存在しない”ように、そのまま落ちる。
「…尊様ご自身のことを……」
門は最初から、そこにあった。四季庭の終わり、境界が現れる。黒い木の門が歪んでいる。見ていると、距離感が狂う。近いのか遠いのか分からない。その向こうに、白い霧が広がる。空白ではない、“圧のある白”。呼吸が浅くなる白。尊は立ち止まる。門の一歩手前に着くと、足が重く止まってしまう。
「ここ?」
松平が隣に来るが、音がしない。足音が“消えている”。
「はい。ここから先が、鈴のない場所でございます」
尊は霧を見る。
「何も見えない」
松平は静かに言う。
「見えないのではありません。無いのです」
「……無い?」
「鈴も、音も、帰還も…全てが無いのです」
尊の喉が乾く。
「どういう意味?」
松平は門を見たまま、一拍遅れて答える。
「鈴は、帰る者を知らせるもの。ここには帰る者がいません」
その言葉のあと、松平のまばたきが一瞬だけ遅れる。まるで“今の発言を理解してから反応している”ように。
「……一柱も?」
松平は答えない。答えられない。沈黙…それが答えになる。尊は門へ手を伸ばすが、指先が空中で止まる。冷たい、触れていないのに。
「待ってください!」
声が割れる。鋭い、松平の声。初めて“感情としての制止”。尊の手が止まり、振り返る。
「松ちゃん?」
松平は自分の声に、一瞬だけ遅れて驚く。まるで“今初めて自分が止めたことに気づいた”ように目を伏せる。
「申し訳ございません。ですが、その先へ行かないでください」
尊はじっと松平を見る。
「今まで、そんなこと言わなかったよね」
「………はい」
“はい”の間が、一拍ずれる。
「じゃあ、理由を教えて」
沈黙が長い、長すぎる。風がないのに、松平の髪が揺れる。微かに“遅れて揺れる”。
「そこは尊様が、一柱を失った場所だからです」
空気が落ちる。重く、深く落ちていく。
「失った?」
声が遅れる。
「はい」
「僕が?」
「はい」
「ここで?」
松平は頷く、ゆっくりと。動作が人間のテンポより半拍遅い。
「何百年も前、一柱はこの門の向こうへ行かれました」
尊の指が止まる。
「どうして?」
松平の声が少しだけ低くなる。だが感情が“遅れて乗る”。
「尊様を守るために」
その言葉が落ちる。
「僕を?」
「はい」
「何から?」
松平は目を閉じる。長い沈黙が続く。その沈黙は、“何かを再生しようとして失敗している”ような間である。
「それは…申し上げることはできません」
尊は動かない。呼吸だけがある。やがて小さく笑い、乾いた音が広がる気がする。
「松ちゃん。僕、もう子どもじゃないよ」
松平は目を開ける。その開き方が、一瞬だけ“遅い”。
「…知っています」
「だから、教えて」
松平の瞳が揺れる。だが、その揺れは“感情”ではなく、“処理の遅延”。
「尊様。もし、すべてを思い出されたら…あなたは自分自身を許せなくなるかもしれません」
尊の息が止まる。
「僕が?」
「はい」
「僕は、何をしたの?」
沈黙が深い、底のない沈黙。松平の唇が、わずかに動く。だが音にならない、“言語化の直前で停止する”。
「それは」
「……」
「まだ言えません」
尊は目を伏せる。そして短く言葉を乗せて、息を吐く。
「そっか…」
そして顔を上げる。門を見る。白い霧、圧、吸い込まれる白が入り混じっている。
「じゃあ僕が、自分で見つける」
松平は動かない。だが、その“停止”が不自然に長い。
「でも…」
尊は振り返る。
「一つだけ約束して」
「何でございましょう」
松平の返答は、0.5拍遅れる。
「僕がどんなことを思い出しても…一人にしないで」
その瞬間、松平の表情が崩れる。ほんの一瞬“感情が遅れて溢れる”。少女のような柔らかさ、その奥に別の影が見える。遠い記憶の影が。
「………はい」
声が震える。だが、その震えも“遅れている”。
「決して、お一人にはいたしません」
尊は小さく頷き、微笑む。
「ありがとう」
門へ向き直る。一歩、前へ進む。
ーギイ…ー
音が遅れて鳴る。霧が動くが、重い。生き物のように動き、その向こうに道が現れる。白く細い、逃げ場のない道。尊は、一歩踏み出す。その瞬間、背後から音が聞こえた。
ーカランー
鈴の音だが、鋭い。尊は振り返る。四季庭が遠くで揺れている。だが、その揺れの中で松平だけが、一瞬“静止している”。まるで時間から切り離されたように。
「…帰る場所」
声が漏れる。松平が隣に来るが、その動きもわずかに遅い。
「でも今は、帰るためじゃない」
尊は霧の奥を見る。深い白が広がる。
「迎えに行くため、前に進む」
松平は頷く。だが、その頷きは“今の動作”ではなく、“少し前の動作の再生”のようだった。二人は歩き出す。そして、その先で…まだ誰も知らない“欠落した記憶”が、静かに目を覚まし始めていた。




