帰る場所を探して 3
「北へ」その文字は、鈴の下で淡く光っていた。風が吹くたびに小さな鈴が揺れ、音になりかけては消える余韻だけが庭の奥へと溶けていく。尊はまだそれに気づかないまま、少し先を歩きながら四季庭の奥を見つめていた。
「松ちゃん」
「はい」
「北って、この庭にあるのかな」
その問いに、松平はわずかに目を伏せてから答える。
「ございます。四季庭にも方角はございます」
尊は少し驚いたように笑う。
「そうなんだ。ずっと全部同じ景色だと思ってた」
「同じに見えるだけで、それぞれ違う場所がございます」
その言葉に、尊は楽しげに歩き出した。石畳に響く足音は、まるで誰かへ返事をしているようだった。
「じゃあ、北へ行こう」
その一言で、二人は歩き出す。松平の足取りは慎重で、まるで鈴の音を踏まないようにしているかのようだった。四季庭の北側は、尊がほとんど足を踏み入れたことのない領域だった。桜も若葉も紅葉も雪も同じように存在しているはずなのに、進むほどに景色は静かに変質していく。木々は増え、池は細い流れとなり、やがて小さな川へと姿を変えた。その水音はあまりに静かで、耳を澄まさなければ聞こえないほどだった。それでも確かに流れている。尊は川辺に立ち呟く。
「この川、見たことがある気がする」
松平は何も言わず、ただその流れを見つめていた。水面に視線を落とした瞬間、尊の目に一瞬だけ白い袖が映る。
「…一柱?」
振り返るが、そこには誰もいない。ただ風が木々を揺らし、鈴のような錯覚だけが残る。尊は川辺にしゃがみ込み、水へ手を伸ばす。冷たさが指先を刺した瞬間、景色が揺らいだ。そこは、まだ世界が狭かった頃の記憶だった。川辺に座る少年の尊。その隣に、一柱がいる。一柱はすぐには話さない。まず川の音を一度だけ聞くように、目を閉じる。その沈黙は不思議と長くなく、むしろ「今ここにいる」ことを確かめるための間だった。やがて、ゆっくりと目を開ける。その動きはとても静かで、まるで水面が揺れる前の一瞬の気配のようだった。
「……今日は、少し冷えますね」
声は柔らかい。低すぎず、高すぎず、川の流れに溶けるような声だった。一柱は木の器を手に取り、川へ差し出す。水を汲む動作は丁寧で、途中で一度だけ止まる。その「間」は、ただのためらいではない。何かを確かめるような、祈りに似た静止だった。
「何してるの?」
少年の尊が問うと、一柱はすぐには答えない。少しだけ視線を落とし、器の水面を見つめてから、ようやく口を開く。
「…水を、いただいています」
その言い方は、まるで水に許しを求めているようだった。
「お茶にするために」
一柱はほんのわずかに笑う。その笑みは大きくない。ただ口元が少しだけ緩む程度で、それでも確かに「安心していい」と伝わるものだった。尊が顔をしかめると、一柱はすぐに否定も肯定もしない。ただ一度、短く息を吐く。そのあと、器を差し出すまでに一拍の間がある。
「飲んでみますか?」
その声は、少しだけ楽しそうだった。尊が一口飲む。
「………普通だ」
その瞬間、一柱はすぐには笑わない。まず一度、目を細めて尊の顔を見つめる。その沈黙は評価ではなく、受け止める時間だった。そして、ようやく小さく笑う。
「それが、一番です」
その言葉のあと、一柱はすぐに続けない。川の音を一度聞いてから、もう一度だけ言葉を落とす。
「特別ではないこと、でも一緒に飲めること…それだけで十分です」
その「十分です」は、少しだけ遅れて届く。まるで言葉が川の流れに乗って、ようやくこちらに辿り着いたようだった。そのとき風が吹き、遠くで鈴が一度だけ鳴る。一柱はそちらを見ない。ただ、少しだけ目を細める。その表情は、何かを思い出したのではなく、「今ここにあるもの」を確かめている顔だった。景色が戻ると、尊は川から手を引いていた。
「普通…一柱は普通が好きだったんだ」
松平は静かに頷く。
「特別なものより、何でもない時間を大切にされる方でした」
「だからお茶だったんだね」
相談所で出されるお茶。その意味が、ようやく輪郭を持ち始めていた。二人はさらに北へ進む。川沿いの石畳には古い刻印があり、そこには確かに「帰」の文字が刻まれていた。尊がそれをなぞると、石の冷たさが鈴の金属のように感じられる。
「一柱は場所じゃなく、人を帰る場所と考えていたのかもしれないね」
尊の言葉に、松平は静かに答える。
「一柱様にとって帰る場所は、人そのものでございました」
「じゃあ、それって僕かな?」
松平の目がわずかに揺れ、それだけで答えは十分だった。尊の胸に温かさと痛みが同時に広がる。
「やっぱり僕なんだ。でも一柱は帰ってこなかった」
松平は静かに言う。
「違います。帰れなかったのです」
理由は語られない。ただ川の音だけが続く。コト…コト……それは返事を待つような音だった。やがて木々が途切れ、小さな石の建物が現れる。扉には木の鈴が一つだけ吊られていた。風に揺れ、かすかに鳴るその音は、今にも消えそうだった。尊が触れると、はっきりとした音が響き、扉が開く。中は小さな書庫だった。壁には無数の紙が貼られ、「誰かが帰ってきた」「鈴が鳴った」といった記録が途切れ途切れに残されている。
「一柱はずっと記録していたんだね」
「忘れないためでございます」
尊の言葉に松平は頷く。そのとき、壁の奥で時計が一度だけ動いた。カチ、と乾いた音が響く。
「時間は戻っているのではなく、進んでいるのでございます」
松平の言葉に、尊は静かに頷く。
「じゃあ、もう待つだけじゃないね」
「はい」
その言葉に松平も頷いた。書庫を出ると、北の空から風が吹いた。その風に乗って一枚の紙片が落ちる。そこにはただ一言、「次は、鈴のない場所へ」と書かれていた。その瞬間、四季庭のすべての鈴が音を失う。カランという響きは途中で途切れ、世界から音が抜け落ちたような静寂が訪れる。尊はその文字を見つめる。
「鈴のない場所?」
「…そこへ行かれてはなりません」
松平は初めて明確に表情を変えた。それは驚きではなく、恐れに近いものだった。その声はわずかに震えていた。
「そこに一柱がいるの?」
松平は答えない。ただ沈黙だけが落ちる。その沈黙は、これまでのどれよりも深く、重かった。




