↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
115/118

帰る場所を探して 3

「北へ」その文字は、鈴の下で淡く光っていた。風が吹くたびに小さな鈴が揺れ、音になりかけては消える余韻だけが庭の奥へと溶けていく。尊はまだそれに気づかないまま、少し先を歩きながら四季庭の奥を見つめていた。


「松ちゃん」

「はい」

「北って、この庭にあるのかな」


その問いに、松平はわずかに目を伏せてから答える。


「ございます。四季庭にも方角はございます」


尊は少し驚いたように笑う。


「そうなんだ。ずっと全部同じ景色だと思ってた」

「同じに見えるだけで、それぞれ違う場所がございます」


その言葉に、尊は楽しげに歩き出した。石畳に響く足音は、まるで誰かへ返事をしているようだった。


「じゃあ、北へ行こう」


その一言で、二人は歩き出す。松平の足取りは慎重で、まるで鈴の音を踏まないようにしているかのようだった。四季庭の北側は、尊がほとんど足を踏み入れたことのない領域だった。桜も若葉も紅葉も雪も同じように存在しているはずなのに、進むほどに景色は静かに変質していく。木々は増え、池は細い流れとなり、やがて小さな川へと姿を変えた。その水音はあまりに静かで、耳を澄まさなければ聞こえないほどだった。それでも確かに流れている。尊は川辺に立ち呟く。


「この川、見たことがある気がする」


松平は何も言わず、ただその流れを見つめていた。水面に視線を落とした瞬間、尊の目に一瞬だけ白い袖が映る。


「…一柱?」


振り返るが、そこには誰もいない。ただ風が木々を揺らし、鈴のような錯覚だけが残る。尊は川辺にしゃがみ込み、水へ手を伸ばす。冷たさが指先を刺した瞬間、景色が揺らいだ。そこは、まだ世界が狭かった頃の記憶だった。川辺に座る少年の尊。その隣に、一柱がいる。一柱はすぐには話さない。まず川の音を一度だけ聞くように、目を閉じる。その沈黙は不思議と長くなく、むしろ「今ここにいる」ことを確かめるための間だった。やがて、ゆっくりと目を開ける。その動きはとても静かで、まるで水面が揺れる前の一瞬の気配のようだった。


「……今日は、少し冷えますね」


声は柔らかい。低すぎず、高すぎず、川の流れに溶けるような声だった。一柱は木の器を手に取り、川へ差し出す。水を汲む動作は丁寧で、途中で一度だけ止まる。その「間」は、ただのためらいではない。何かを確かめるような、祈りに似た静止だった。


「何してるの?」


少年の尊が問うと、一柱はすぐには答えない。少しだけ視線を落とし、器の水面を見つめてから、ようやく口を開く。


「…水を、いただいています」


その言い方は、まるで水に許しを求めているようだった。


「お茶にするために」


一柱はほんのわずかに笑う。その笑みは大きくない。ただ口元が少しだけ緩む程度で、それでも確かに「安心していい」と伝わるものだった。尊が顔をしかめると、一柱はすぐに否定も肯定もしない。ただ一度、短く息を吐く。そのあと、器を差し出すまでに一拍の間がある。


「飲んでみますか?」


その声は、少しだけ楽しそうだった。尊が一口飲む。


「………普通だ」


その瞬間、一柱はすぐには笑わない。まず一度、目を細めて尊の顔を見つめる。その沈黙は評価ではなく、受け止める時間だった。そして、ようやく小さく笑う。


「それが、一番です」


その言葉のあと、一柱はすぐに続けない。川の音を一度聞いてから、もう一度だけ言葉を落とす。


「特別ではないこと、でも一緒に飲めること…それだけで十分です」


その「十分です」は、少しだけ遅れて届く。まるで言葉が川の流れに乗って、ようやくこちらに辿り着いたようだった。そのとき風が吹き、遠くで鈴が一度だけ鳴る。一柱はそちらを見ない。ただ、少しだけ目を細める。その表情は、何かを思い出したのではなく、「今ここにあるもの」を確かめている顔だった。景色が戻ると、尊は川から手を引いていた。


「普通…一柱は普通が好きだったんだ」


松平は静かに頷く。


「特別なものより、何でもない時間を大切にされる方でした」

「だからお茶だったんだね」


相談所で出されるお茶。その意味が、ようやく輪郭を持ち始めていた。二人はさらに北へ進む。川沿いの石畳には古い刻印があり、そこには確かに「帰」の文字が刻まれていた。尊がそれをなぞると、石の冷たさが鈴の金属のように感じられる。


「一柱は場所じゃなく、人を帰る場所と考えていたのかもしれないね」


尊の言葉に、松平は静かに答える。


「一柱様にとって帰る場所は、人そのものでございました」

「じゃあ、それって僕かな?」


松平の目がわずかに揺れ、それだけで答えは十分だった。尊の胸に温かさと痛みが同時に広がる。


「やっぱり僕なんだ。でも一柱は帰ってこなかった」


松平は静かに言う。


「違います。帰れなかったのです」


理由は語られない。ただ川の音だけが続く。コト…コト……それは返事を待つような音だった。やがて木々が途切れ、小さな石の建物が現れる。扉には木の鈴が一つだけ吊られていた。風に揺れ、かすかに鳴るその音は、今にも消えそうだった。尊が触れると、はっきりとした音が響き、扉が開く。中は小さな書庫だった。壁には無数の紙が貼られ、「誰かが帰ってきた」「鈴が鳴った」といった記録が途切れ途切れに残されている。


「一柱はずっと記録していたんだね」

「忘れないためでございます」


尊の言葉に松平は頷く。そのとき、壁の奥で時計が一度だけ動いた。カチ、と乾いた音が響く。


「時間は戻っているのではなく、進んでいるのでございます」


松平の言葉に、尊は静かに頷く。


「じゃあ、もう待つだけじゃないね」

「はい」


その言葉に松平も頷いた。書庫を出ると、北の空から風が吹いた。その風に乗って一枚の紙片が落ちる。そこにはただ一言、「次は、鈴のない場所へ」と書かれていた。その瞬間、四季庭のすべての鈴が音を失う。カランという響きは途中で途切れ、世界から音が抜け落ちたような静寂が訪れる。尊はその文字を見つめる。


「鈴のない場所?」

「…そこへ行かれてはなりません」


松平は初めて明確に表情を変えた。それは驚きではなく、恐れに近いものだった。その声はわずかに震えていた。


「そこに一柱がいるの?」


松平は答えない。ただ沈黙だけが落ちる。その沈黙は、これまでのどれよりも深く、重かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。