↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
114/118

帰る場所を探して 2

いつもと変わらなかった。桜が咲いて、若葉が揺れて、紅葉が池へ落ち、雪が静かに降っている。けれど今日の尊には、それがただの景色には見えなかった。


「松ちゃん」

「はい」

「この庭、何か隠してるよね」


松平は静かに尊を見る。


「……そう感じられますか」

「うん」


尊はゆっくり歩き出した、桜の木へ。枝へ手を伸ばす。触れた瞬間、風が吹いた。花びらが一斉に舞い上がる。だがその動きは、どこか噛み合っていない。落ちるはずの花びらが、わずかに遅れて浮き、遅れて散る。世界が一瞬だけ、呼吸を外したようだった。尊の目の前に、別の景色が重なる。


まだ、桜が一本しかない庭。小さな縁側、少年の尊。その隣に一柱。二人で花びらを拾っている。


「これ、綺麗」


少年の尊が一枚を持ち上げる。一柱は笑っている。


「桜は散るから綺麗なのかもしれませんね」

「どうして?」

「ずっと咲いていたら、きっと…ありがたさを忘れてしまうから」


少年の尊は頷く。


「じゃあ、ずっと大事にする」

「何を?」

「一柱」


その言葉に一柱は一瞬だけ視線を外した。まるで、そこに“別の何か”があるかのように。そして、遅れて笑った。


「ありがとうございます」


景色が消える。だが消え方は自然ではなかった。映像が剥がれるのではなく、止まり、数拍遅れて崩れていく。尊は目を開ける。桜の木、いつもの四季庭。


「……今」

「はい」

「一柱がいた」

「…はい」


松平の返答は、わずかに間を置いて届いた。尊はその違和感に気づく。


「松ちゃん」

「はい」

「今、少し変だった」


松平は答えない。池に歩み寄り、尊は水面へ手を触れる。冷たい、だが波紋は広がらない。円は途中で止まり、完成しない。水は動いているのに、結果だけが遅れて現れる。やがて、別の景色が浮かぶ。夕暮れ、一柱が池のほとりに座っている。手には小さな本、尊が隣に座る。


「何読んでるの?」

「昔の記録です」

「面白い?」

「はい」


一柱は少しだけ笑う。


「古い記録には、忘れてはいけないことが、たくさん書かれています」

「じゃあ、僕も書く」

「何を?」

「忘れたくないこと」


尊は小さな本を開く。


「一柱と、今日、池で夕焼けを見た」


一柱は静かに頷く。


「それだけで、十分ですね」


景色が消える。水面はようやく波紋を取り戻す。尊は水を見つめる。


「一柱は、何でも残そうとしてたんだ」


松平は静かに答える。


「忘れることを、とても恐れていた方でした」

「どうして?」


松平は一瞬だけ沈黙する。


「忘れてしまえば、約束までなくなってしまうからです」


尊の胸が痛む。


「約束」


その言葉だけが、やけに重い。竹林で風が鳴る。さらさらと葉が擦れる音の中に、わずかな“ズレ”が混じる。音と動きが一致していない。世界が少しだけ遅れている。


ーカランー


鈴の音が落ちる。だがそれは、どこにも存在しない鈴の音だった。尊は気づかない。


「ここ…何かある」


松平が足を止める。その動作も、わずかに現実から浮いている。


「尊様」

「何?」

「そこには、触れない方が」


言葉が途中で途切れる。意味だけが残る。尊は竹の根元を見る。小さな石、何の変哲もない。だが視線を向けるたび、位置がわずかにずれる。尊はしゃがみ、手を伸ばす。触れた瞬間、鈴が鳴った。


ーカランー


視界が白くなる。雪、一面の雪。少年の尊が走っている。


「一柱!」


声が空間に遅れて落ちる。遠くに一柱の背中、白い衣。


「待って!」


少年が叫ぶが、一柱は振り返らない。だが“振り返る直前の影”だけが残る。


「待って!帰ってくるんでしょう!」


一柱の足が止まる。しかし止まったのは過去の動作だけ、現在の一柱はまだ歩いている。


「尊」


声が空間の外側から響く。


「約束、覚えていますか」

「覚えてる!」


少年の尊が叫ぶ。


「絶対、忘れない!」


一柱は小さく笑う。その笑顔は、数秒遅れて現れる。


「なら、大丈夫です」

「どうして!?」

「約束は忘れない限り、消えません」


一柱の姿が雪の向こうへ消える。消えた後に足音だけが残る。尊はその場にしゃがみ込んでいた。だが涙はまだ流れていない。数秒遅れて、ようやく頬を伝う。


「……僕、ずっとここで、一柱を待ってたんだ」


松平は何も言わない。その沈黙だけが、正しく遅れて届く。しばらくして、尊は立ち上がる。


「一柱は、まだどこかにいる。消えてない」

「はい」

「だったら、探す」


松平も立ち上がる。


「お供いたします」


尊は少し笑う。


「松ちゃん」

「はい」

「ありがとう」


その言葉が空間に残響する。その瞬間…。


ーカランー


鈴が鳴った。だがそれは“鳴る前から存在していた音”だった。揺れていない鈴から、音だけが落ちてくる。空間の一点に、存在しない鈴が浮かぶ。視線を外すと消える。だが音だけは残る。


ーカラン…ー


その下に、意味だけが刻まれる。


『北へ』


尊はまだ気づかない。松平だけがそれを見ている。そして静かに息を止める。


「……もう戻れません」


その声は、届く前に過去へ沈んだ。四季庭は、静かに“北”へ傾き始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。