帰る場所を探して 2
いつもと変わらなかった。桜が咲いて、若葉が揺れて、紅葉が池へ落ち、雪が静かに降っている。けれど今日の尊には、それがただの景色には見えなかった。
「松ちゃん」
「はい」
「この庭、何か隠してるよね」
松平は静かに尊を見る。
「……そう感じられますか」
「うん」
尊はゆっくり歩き出した、桜の木へ。枝へ手を伸ばす。触れた瞬間、風が吹いた。花びらが一斉に舞い上がる。だがその動きは、どこか噛み合っていない。落ちるはずの花びらが、わずかに遅れて浮き、遅れて散る。世界が一瞬だけ、呼吸を外したようだった。尊の目の前に、別の景色が重なる。
まだ、桜が一本しかない庭。小さな縁側、少年の尊。その隣に一柱。二人で花びらを拾っている。
「これ、綺麗」
少年の尊が一枚を持ち上げる。一柱は笑っている。
「桜は散るから綺麗なのかもしれませんね」
「どうして?」
「ずっと咲いていたら、きっと…ありがたさを忘れてしまうから」
少年の尊は頷く。
「じゃあ、ずっと大事にする」
「何を?」
「一柱」
その言葉に一柱は一瞬だけ視線を外した。まるで、そこに“別の何か”があるかのように。そして、遅れて笑った。
「ありがとうございます」
景色が消える。だが消え方は自然ではなかった。映像が剥がれるのではなく、止まり、数拍遅れて崩れていく。尊は目を開ける。桜の木、いつもの四季庭。
「……今」
「はい」
「一柱がいた」
「…はい」
松平の返答は、わずかに間を置いて届いた。尊はその違和感に気づく。
「松ちゃん」
「はい」
「今、少し変だった」
松平は答えない。池に歩み寄り、尊は水面へ手を触れる。冷たい、だが波紋は広がらない。円は途中で止まり、完成しない。水は動いているのに、結果だけが遅れて現れる。やがて、別の景色が浮かぶ。夕暮れ、一柱が池のほとりに座っている。手には小さな本、尊が隣に座る。
「何読んでるの?」
「昔の記録です」
「面白い?」
「はい」
一柱は少しだけ笑う。
「古い記録には、忘れてはいけないことが、たくさん書かれています」
「じゃあ、僕も書く」
「何を?」
「忘れたくないこと」
尊は小さな本を開く。
「一柱と、今日、池で夕焼けを見た」
一柱は静かに頷く。
「それだけで、十分ですね」
景色が消える。水面はようやく波紋を取り戻す。尊は水を見つめる。
「一柱は、何でも残そうとしてたんだ」
松平は静かに答える。
「忘れることを、とても恐れていた方でした」
「どうして?」
松平は一瞬だけ沈黙する。
「忘れてしまえば、約束までなくなってしまうからです」
尊の胸が痛む。
「約束」
その言葉だけが、やけに重い。竹林で風が鳴る。さらさらと葉が擦れる音の中に、わずかな“ズレ”が混じる。音と動きが一致していない。世界が少しだけ遅れている。
ーカランー
鈴の音が落ちる。だがそれは、どこにも存在しない鈴の音だった。尊は気づかない。
「ここ…何かある」
松平が足を止める。その動作も、わずかに現実から浮いている。
「尊様」
「何?」
「そこには、触れない方が」
言葉が途中で途切れる。意味だけが残る。尊は竹の根元を見る。小さな石、何の変哲もない。だが視線を向けるたび、位置がわずかにずれる。尊はしゃがみ、手を伸ばす。触れた瞬間、鈴が鳴った。
ーカランー
視界が白くなる。雪、一面の雪。少年の尊が走っている。
「一柱!」
声が空間に遅れて落ちる。遠くに一柱の背中、白い衣。
「待って!」
少年が叫ぶが、一柱は振り返らない。だが“振り返る直前の影”だけが残る。
「待って!帰ってくるんでしょう!」
一柱の足が止まる。しかし止まったのは過去の動作だけ、現在の一柱はまだ歩いている。
「尊」
声が空間の外側から響く。
「約束、覚えていますか」
「覚えてる!」
少年の尊が叫ぶ。
「絶対、忘れない!」
一柱は小さく笑う。その笑顔は、数秒遅れて現れる。
「なら、大丈夫です」
「どうして!?」
「約束は忘れない限り、消えません」
一柱の姿が雪の向こうへ消える。消えた後に足音だけが残る。尊はその場にしゃがみ込んでいた。だが涙はまだ流れていない。数秒遅れて、ようやく頬を伝う。
「……僕、ずっとここで、一柱を待ってたんだ」
松平は何も言わない。その沈黙だけが、正しく遅れて届く。しばらくして、尊は立ち上がる。
「一柱は、まだどこかにいる。消えてない」
「はい」
「だったら、探す」
松平も立ち上がる。
「お供いたします」
尊は少し笑う。
「松ちゃん」
「はい」
「ありがとう」
その言葉が空間に残響する。その瞬間…。
ーカランー
鈴が鳴った。だがそれは“鳴る前から存在していた音”だった。揺れていない鈴から、音だけが落ちてくる。空間の一点に、存在しない鈴が浮かぶ。視線を外すと消える。だが音だけは残る。
ーカラン…ー
その下に、意味だけが刻まれる。
『北へ』
尊はまだ気づかない。松平だけがそれを見ている。そして静かに息を止める。
「……もう戻れません」
その声は、届く前に過去へ沈んだ。四季庭は、静かに“北”へ傾き始めていた。




