帰る場所を探して 1
四季庭が朝を現す頃、異世界相談所にはいつものように穏やかな光が差し込んでいた。四季庭では桜が散り、若葉が少しずつ濃くなっている。池の水面には、花びらが一枚静かに浮かんでいた。鹿威しや風鈴が、いつもと変わらず音を鳴らす。いつもの朝、けれど尊は…いつもと違っていた。縁側に座り湯呑みを持ったまま、庭を見ている。その隣には松平。二人とも、しばらく何も言わなかった。やがて尊が口を開く。
「松ちゃん」
「はい」
「今日、相談者は来るかな」
松平は少しだけ間を置いてから、静かに答える。
「まだ鈴は鳴っておりません」
「そっか」
尊は湯呑みを置いた。その音がやけに小さく響いた。
「じゃあ僕、行ってくる」
松平の指先が、ほんの一瞬だけ止まる。
「どちらへ」
「一柱を探しに」
短い言葉だった。けれどその一言で、相談所の空気がわずかに揺れた。これまで相談所は、誰かが来るのを待つ場所だった。鈴が鳴れば、松平が迎えに行き、尊が話を聞く。そして、その人が自分の人生を受け入れたら送り出す。それが、この場所の役割だった。けれど今は違う。尊自身が、誰かを探しに行こうとしている。松平は静かに尊を見る。
「尊様」
「うん」
「一柱を…」
その問いは途中で途切れた。まるで、それ以上は言葉にしてはいけないとでも言うように。尊は少し首を傾げる。
「なに?」
松平は一度だけ目を伏せる。そして何事もなかったように続けた。
「……いえ、お気をつけくださいませ」
その言い方は優しいのに、どこか遠かった。執務室へ尊は歩き出し、本棚の前に立っていた。古い本、新しい本、金色の名前が刻まれた本。そして白い本。尊は白い本を手に取る。その表紙は、昨日よりわずかに重く感じられた。
「道」
尊は最後の頁を見る。そこには…。
『道』
『帰』
『約』
『束』
四つの文字。まだ繋がらない。意味も、輪郭もはっきりしない。それでも尊は、なぜか確信していた。
「この道、一柱のところへ続いてる」
松平は静かに頷く。
「はい。ただし、その道がどの場所へ繋がっているかは、まだ誰にも分かりません」
その言葉は、いつもより少しだけ重かった。尊は白い本を見つめる。
「松ちゃんでも、分からないんだね?」
松平は一瞬だけ沈黙する。そして静かに答えた。
「……はい」
その「はい」は肯定でありながら、どこか否定にも聞こえた。尊は古い本を開く。
『最初の日』
その文字に触れた瞬間、頁が光る。景色が広がる。小さな庭、今よりも狭い。桜の木が一本、縁側から見える。その縁側に二人、少年の尊と一柱。一柱は静かに言う。
「ここが帰る場所です」
少年の尊は、首を傾げる。
「帰る場所って、どこ?」
一柱は少しだけ笑う。
「決まっていません」
「え?」
「でもここに来れば、帰ってきたと思える場所です」
少年の尊は、納得できない顔をする。
「それって、変じゃない?」
一柱はすぐには答えない。ただ桜を見ている。風が吹き、花びらが落ちる。
「変かもしれません。でも、それでいいのです」
少年の尊は、少し黙る。そして、ぽつりと言う。
「じゃあ、僕がいなくなっても、ここは帰る場所のまま?」
一柱はその問いに、すぐ答えなかった。ほんの一瞬、ほんの一瞬だけ表情が揺れた。けれど次の瞬間には、いつもの穏やかな顔に戻っている。
「…そうですね……そうであってほしいです」
景色が消える。尊は目を開ける。胸の奥が少しだけ痛い。
「一柱…」
小さく呟く。松平は何も言わない。ただ、その横顔を見ている。尊は白い本を握る。
「ねえ、松ちゃん」
「はい」
「一柱って、どこにいるの?」
その問いに、松平はすぐには答えない。いつもなら「申し上げられません」と言うはずだった。けれど今回は違った。松平は、ほんの少しだけ視線を落とす。そして静かに言う。
「……近くに」
尊は目を細める。
「近く?」
「はい」
「この相談所の?」
「はい。すぐ近くに…」
その言葉は確かに聞こえた。けれど意味は、はっきりしない。尊は一歩だけ前に出る。
「どこ?」
松平は答えない。ただ視線を庭の奥へ向ける。そこには何もない。ただの庭、ただの風、ただの光。それなのに尊には、そこに「何か」があるように見えた。
「松ちゃん」
「はい」
「隠してる?」
その問いに松平の瞳が、ほんのわずかに揺れる。だけど、すぐに静かな表情へ戻る。
「……いいえ、隠しているのではなく、まだ開いていないだけでございます」
尊は、その言葉を反芻する。
「開いてない…何が?」
松平は答えない。その沈黙が、逆にすべてを語っていた。尊は縁側へ出る。四季庭を見渡す。桜、若葉、紅葉、雪。すべてが同じ空間にある。
「この庭には全部あるのに、一柱だけいないのは変だよね」
松平は静かに答える。
「いないのではなく、見えていないだけかもしれません」
その言葉は優しいのに、どこか怖かった。尊は庭の奥を見る。
「じゃあ、見つける」
松平は小さく息を吐く。
「尊様」
「うん」
「一柱を見つけるということは、この相談所の本当の形を知ることになります」
尊は振り返る。
「それでもいい」
即答だった。松平は、その答えを聞いて…ほんの一瞬だけ目を閉じる。そして静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
その声は、どこか別れのようにも聞こえた。風が吹く、桜の花びらが一枚、尊の手の中へ落ちる。尊は、それを見つめる。そして、ゆっくりと握る。
「一柱。そこにいるなら、ちゃんと見つけるから」
その言葉に、松平は何も答えない。ただ庭の奥を見つめ続けている。その視線の先に何があるのか、尊にはまだ分からない。けれど松平だけは、すでに何かを知っているようだった。そしてそれは決して、言葉にはならないまま静かに沈んでいった。




