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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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鈴の向こう側 6

鈴の回廊に、静かな余韻が残っていた。


ーカラン…カラン……ー


遠くで鳴った鈴の音は消えず、空間そのものに染み込むように、ただそこに在り続けている。尊は、古い小さな部屋から戻り、縁側に座っていた。手には一枚の紙。鈴が鳴り響いた後、白い本から落ちてきた紙。


『帰ってきたら、最初のお茶を一緒に飲みましょう』


一柱が残した、たった一行の約束だった。尊はその文字を、何度もなぞるように見つめる。


「最初のお茶…」


小さく笑う。


「どんな味だったんだろう」


松平が静かに答える。


「きっと、今の尊様が一番好まれる味でございます」


尊はわずかに目を見開き、やがて力を抜くように笑った。


「僕が?」

「はい」

「じゃあ、今のお茶でいいね」

「はい」


湯呑みが置かれる。湯気がゆっくりと立ち上り、夜へ溶けていく。尊は一口含む。


「……おいしい」


松平も同じ茶を口にする。


「はい」


それ以上の言葉はなかった。だがその沈黙は、ただの静寂ではない。かつて、まだ何も失われていなかった頃、同じ湯呑みを挟み、誰かを待っていた時間の続きだった。やがて尊が呟く。


「松ちゃん」

「はい」

「一柱は、どんな人だった?」


松平はわずかに目を伏せる。


「優しい方でした」

「それは聞いた」


尊は小さく首を振る。


「もっと知りたい」


沈黙ののち、松平は静かに言った。


「よく笑う方でした」

「僕みたいに?」

「はい。少し」


間を置き、続ける。


「ただ、尊様より少しだけ、寂しそうに笑う方でした」


尊はその言葉を受け止め、ゆっくりと頷いた。


「そっか、じゃあ僕とは違うんだね」


松平は首を振る。


「違うようで、とても似ております」


尊は小さく笑った。


「不思議だね。人って、いなくなっても誰かの中に残る」

「はい。それが記憶でございます」


その夜、尊は本棚の前に立っていた。無数の備忘録と、白い本。そっと手を伸ばす。触れた瞬間、冷たかったはずの表紙に、わずかな温度が宿っていた。


「……」


尊は息を呑み、もう一度確かめるように触れる。確かに、温かい。


「松ちゃん」

「はい」

「この本、温かい」


松平は本棚を見つめる。


「……もう、眠っている本ではないのかもしれません」


尊は白い本を胸に抱いた。


「名前はまだないね」

「はい」

「でも、もうすぐだと思う」


その笑みには、確かな予感があった。その時、受付から音が落ちた。


ーカチー


尊が顔を上げる。


「時計?」


二人は同時に受付へ向かう。壁一面の時計はすべて止まっている。ただ一つ、古い懐中時計だけが、秒針を一目盛りだけ進めていた。


ーカチー


そして止まる。尊は息を呑む。


「動いた」


松平は静かに頷く。


「はい。一度だけ」


尊は時計を見つめる。


「一柱が、帰る場所を見つけたのかな」


松平はすぐには答えない。やがて静かに言う。


「あるいは、尊様が帰る場所へ近づいておられるのかもしれません」


尊は小さく笑った。


「帰る場所……僕の?」


松平はわずかに頷く。相談所は完全な静寂に沈んでいた。尊は縁側に移動し、ゆっくり座る。四季庭では、桜も若葉も紅葉も雪も、同じ夜を共有している。時間の境界が、ゆっくりと溶けていく。空を見上げる。


「一柱…僕、迎えに行くから……待ってて」


風が吹く。桜の花びらが一枚、手のひらに落ちる。尊はそれを指先で撫でる。


「今度は僕が、ちゃんと見つける」


返事はない。ただ、鈴の回廊の奥で一度だけ音がした。


ーカラン…ー


尊は振り返らない。静かに目を閉じる。


「うん。聞こえた」


四季庭が夜を現す時、白い本の頁に文字が浮かぶ。


『道』

『帰』

『約』

『束』


まだ揃わない言葉。だがそれは、終わりではなく「帰還」の形をしていた。背表紙に、一瞬だけ金色の光が走る。それは名前ではない。けれど確かに、「そこに在る」という証だった。松平はそれを見つめ、誰にも届かぬ声で呟く。


「……お帰りを」


その言葉が誰へ向けられたものかは、もう分からない。ただ一つだけ確かなのは、この場所がもはや「待つだけの場所」ではないということだった。迎えに行くために、帰るために、約束を果たすために。鈴はまだ鳴り続けている。


ーカラン…カラン……ー


それは終わりではない。帰還の始まりを告げる音だった。


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