鈴の向こう側 3
古い本は静かに閉じられていた。その表紙にはまだ名前がない。けれど最後の頁には一文字だけ、『待』と記されていた。
尊はその文字を見つめながら呟く。
「待つ。誰かを?」
「はい」
松平は静かに頷き答える。
「一柱を?」
「……はい」
わずかな沈黙のあと、松平は再び頷く。尊は少しだけ笑う。
「じゃあ、僕はずっと待ってたんだ」
「そうでございます」
その言葉に松平は静かにと応じた。その瞬間、尊の胸の奥に不思議な温かさが広がる。寂しさは確かにある。けれどそれだけではない。待つという行為そのものが、誰かを信じ続けることだったのだと、今なら少しだけ分かる気がしていた。尊は古い本を文机へ置いた。その隣には白い本がある。過去を記録した本と、まだ何も書かれていない本。二冊を見比べながら、尊は尋ねる。
「ねえ、松ちゃん。この二冊、どこか似てない?」
「似ているのではなく、同じ場所から生まれたものなのかもしれません」
松平は静かに答えた。その言葉に尊は目を丸くするが、松平はそれ以上語らず、ただ古い本へ視線を落とした。尊はその視線を追う。
「一柱。この本、一柱も知ってた?」
「はい」
「一緒に作ったの?」
尊からの問いに、松平はわずかに目を伏せる。
「作ったというより、約束したのでございます」
「どんな?」
重ねるように聞く。しばしの沈黙ののち、松平は静かに言葉を紡ぐ。
「忘れないこと。そして、帰ってきたら続きを書くこと」
「続きを……何の続き?」
尊は息を止めて問うが、松平は首を横に振る。
「それは尊様が思い出されるべきことです」
尊は少し困ったように笑う。
「松ちゃん、秘密ばっかりだね」
「申し訳ございません」
尊は古い本へ、そっと手を置いた。
「今度は僕が思い出す」
静かに告げたその瞬間、白い光が頁から広がり、景色は過去へと沈んでいく。そこにあったのは小さな家だった。少年の尊、少女、そして白い衣の青年が机を囲み、一冊の白い本を見つめている。
「これ、何を書くの?」
「人のことです」
青年が静かに答える。
「嬉しかったこと、悲しかったこと、誰かを大切に思ったこと、忘れたくないこと」
「全部?」
「一人につき一冊です」
「そんなの本が何冊あっても足りないよ」
少女は笑い、尊が目を輝かせながら聞くと、青年も少し微笑みながら答える。
「だからこそです」
「じゃあ僕も書く」
「それなら私も」
やがて景色は夕暮れへと移る。三人は庭を歩く。
「この本、いつかいっぱいになるのかな」
「いっぱいになったら新しい本を作ればいい」
「ずっと書けるね」
笑いながら歩いていると、少女はふと立ち止まる。
「もし私たちが別々の場所へ行っても」
「また会えるよ」
「どうして?」
「約束したから」
「そっか、約束したもんね」
さらに景色は夜の神殿へと変わる。白い衣の青年は一人で祈り、少年の尊はその背を見つめていた。青年は振り返り、告げる。
「もし私が君の前からいなくなったら」
「いなくならないよ、約束したでしょう」
尊は首を振る。青年は静かに笑い、小さな鈴を取り出す。
「これは帰る場所を知らせる鈴です」
尊はそれを両手で受け取る。
「じゃあ僕が鳴らす。帰ってきたら一緒に続きを書こう」
「必ず」
やがて鈴の音とともに景色は崩れ、青年の姿は光の中へと溶けていく。
「待って!」
「本を守ってください」
叫ぶ少年の声に、青年は最後に静かにと告げる。少年の尊は小さく頷き、その言葉を受け止めた。光が消え、尊は執務室へと戻っていた。目の前には古い本と白い本、そして静かに立つ松平がいる。しばしの沈黙ののち、尊は呟く。
「この相談所を、一柱が帰ってくる場所にしたんだね」
「はい。一柱がいつか帰ってこられるように」
松平は静かに頷き答える。尊は少しだけ笑う。
「じゃあ、僕はまだ終わってないんだ」
「まだ、何も終わっておりません」
その言葉に松平はわずかに目を伏せ答える。尊は古い本を閉じ、白い本へ手を置く。
「なら、続きを書こう」
その瞬間、白い本の頁に『帰』の一文字が浮かぶ。尊はそれを見つめ、静かに呟く。松平は何も言わず、ただ深く頭を下げた。その姿は、長い時間の祈りがようやく届いた者のようだった。窓の外では春風が若葉を揺らし、遠くで鈴が一度だけ鳴る。その音は誰かを呼ぶものではなく、ただ帰る場所を確かめるように静かに響いていた。




