鈴の向こう側 2
鈴の回廊は、息をひそめていた。天井から吊るされた無数の鈴の中で、ただ一つだけ色を失った古い鈴がある。それは鳴らないはずのものだった。けれど尊がその前に立つと、なぜか“音の気配”だけが胸の奥に落ちてくる。
「松ちゃん」
「はい」
「さっきの雪の日の記憶」
松平は一拍遅れて頷く。
「……はい」
尊は古い鈴から目を離さない。
「僕、誰かを追ってた。……一柱を…」
その名を口にした瞬間、鈴がほんのわずかに揺れた気がした。音にはならない。ただ“記憶の揺れ”だけが残る。尊は小さく息を吐く。
「届かなかった」
それだけだった。松平は答えない。代わりに、静かに落とす。
「届かなかったからこそ…今も、探しておられるのかもしれませ。」
尊は鈴を見つめたまま、目を細める。
「何百年も?」
「はい」
「……しつこいな、僕」
松平はほんのわずかに目を伏せる。
「ええ、とても」
その言葉のあと、鈴はもう一度だけ、音のない揺れを見せた。まるで“否定できない何か”のように。執務室へ戻ると、本棚はいつも通り整っていた。だが尊の視線は、最初から一つの“空白”に吸い寄せられていた。
「最初の備忘録って、どれ?」
松平はすぐには答えない。その沈黙が、場所を指していた。尊は一冊ずつ指でなぞる。名の並ぶ背表紙、相談者たちの記録、どれも“今”の時間に属している。ただ一冊だけ、そこだけが違っていた。白い、何も書かれていない。だがその白さは“新しい”のではない。むしろ“何かを失った後の白”だった。尊の視線が止まる。
「これじゃない」
その奥、本棚のさらに奥。そこだけ、空気が薄い。まるで最初から“何かを隠すための余白”のように。指先が触れる。紙ではない、乾いた時間そのものの感触。
「……ある」
引き出した瞬間、空気が変わる。小さな本だった。表紙には文字がない。ただ鈴のような円形の痕が、薄く刻まれている。尊は無意識に撫でた。
「これ、誰の?」
松平は一瞬だけ視線を逸らす。
「……最初の記録です」
「最初?」
「この場所が、まだ“相談所”と呼ばれる前の」
尊の手が止まる。
「僕が、作った頃?」
「はい」
短い肯定。だがその言葉の奥に、“誰かと一緒に作った”気配が微かに混じる。尊は本を胸に抱いた。理由のない懐かしさが、鈴の音のように胸に残る。最初の頁、そこにはたった一行。
『忘れないために』
次の頁。
『人は忘れる。名前も、声も、約束も』
その一行ごとに、どこかで“鈴の余韻”が鳴っているようだった。尊はゆっくり頁をめくる。そこから先は記録だった。名前、断片、誰かの好きだった音、誰かが最後に聞いた鈴の音、そして必ず最後に添えられる一文。
『この人は、忘れない』
尊の指が止まる。
「これ……相談者?」
松平は首を振る。
「違います」
その否定は、少しだけ重かった。尊は顔を上げる。
「じゃあ、誰?」
松平は答えない。答えられないのではない。“鈴の音に触れる言葉”を選んでいる沈黙だった。
「まだ、お伝えできません」
尊は少しだけ笑う。
「秘密、多いね」
「申し訳ございません」
「でもさ…」
尊は本を軽く叩く。
「いつかは全部、教えてくれるんでしょ?」
松平は長く尊を見たあと、小さく頷いた。
「……はい、必ず」
その瞬間だった。本の奥で、鈴が鳴った。
ーカランー
現実の音ではない、記憶の底から響く音。頁が勝手にめくれる。ぱらり、と乾いた音。最後の方へ、急ぐように。そして止まる。そこだけ、空白だった。ただ一つ、鈴の絵…それだけが、そこにあった。尊の呼吸が浅くなる。
「鈴……」
松平の声がわずかに遅れる。
「はい」
尊は絵の下をなぞる。そこに、かすれた文字。
『帰ってきたら』
そこで途切れている、続きはない。最初から“書かれなかった”ようにも見える。
「帰ってきたら、何?」
松平は答えない。その沈黙の奥で、鈴の音だけが微かに揺れている。尊は視線を上げる。
「書こうとしてたんだよね、これ」
「……はい」
「でも書けなかった」
松平の指が、ほんのわずかに動く。
「ええ」
「一柱に、何かあった?」
その問いに、松平は初めて目を伏せた。その瞬間、回廊の鈴が一斉に“音のない揺れ”を起こした。まるで拒むように…尊はそれ以上追わなかった。代わりに、空白へ指を置く。
「じゃあさ…この続きは、僕が見つける」
その瞬間、本が淡く光った。白でも金でもない。夜明け前の空のような青白い光。鈴の音が、遠くで鳴る。
ーカランー
胸の奥が強く鳴った。視界が揺れる。雪、石畳、崩れかけた神殿、そして鈴を持つ誰か。その鈴は、今目の前の古い鈴と“同じ形”をしていた。
「尊」
声だけが届く。振り返るが、顔は見えない。光に溶けている。だが、その鈴の音だけが確かに“呼んでいる”。
「帰ってきたら」
言葉が続く前に、世界が崩れる。尊は手を伸ばす。
「待って──!」
光が途切れ、本は静かに沈黙へ戻る。だが古い鈴だけが、ほんの一瞬だけ“返事のように揺れた”。
ーカランー
尊はしばらく動けなかった。やがて、かすかに呟く。
「……帰ってきたら」
松平はその声を聞いて、目を閉じる。
「松ちゃん」
「はい」
「僕さ…一柱のために、ここ作ったのかな」
松平は少しだけ間を置く。
「……そうかもしれません」
尊は本を抱き直す。その瞬間、古い鈴がもう一度だけ“記憶の奥で鳴った”。
「じゃあ、やっぱり迎えに行けばいいんだ」
松平は頷く。
「はい。それが、あなたの願いだったのかもしれません」
尊は窓の外を見る。四季が同時に存在する庭。桜、若葉、紅葉、雪…そのすべての中心に、一本の“見えない鈴の糸”が伸びているようだった。
「帰ってきたら、続きを書こう」
その言葉に、松平の瞳がわずかに揺れる。
「…はい」
本は静かに閉じられる。その最後の頁に、いつの間にか一文字。
『待』
尊は気づかない。だが松平だけが、それを見ている。そして小さく息を吐く。
「もう、待つだけではありません」
その言葉は、誰にも届かない。ただ、鈴のない回廊の奥で、確かに“誰かの帰還”を待つ音だけが続いていた。




