鈴の向こう側 1
四季庭の朝。異世界相談所には、いつものように柔らかな光が差し込んでいた。四季庭では桜が散り始め、若葉が少しずつ濃くなっている。池の水面には、風に運ばれた花びらが浮かんでいた。鹿威しが鳴り、風鈴が揺れる。何も変わらない、いつもの朝だった。けれどその「いつも」が、どこか薄くなっていた。音が、わずかに遠い。風の流れが、ほんの一瞬だけ途切れる。まるで世界が一拍だけ呼吸を忘れたような違和感。尊だけは、その微細な歪みに気づいていた。縁側に座り湯呑みを手にしたまま、庭を眺めている。
「……来ないね」
松平が隣へお茶を置く。
「はい。今日、まだ鈴が鳴っておりません」
その言葉の直後…鹿威しの音が、ほんの一瞬だけ遅れて響いた。
ーコンー
遅延、尊は小さく目を細めた。
「そうだね」
一口飲む。けれど湯呑みの中の波紋が、なぜか遅れて揺れた。すぐに湯呑みを置く。
「松ちゃん」
「はい」
「昨日、白い本を開いたよね」
「はい」
「その時、鈴の音がした気がした」
松平は答えない。その沈黙の間、庭の風が一瞬止まった。尊は続ける。
「でも、相談者は来なかった」
「……はい」
「じゃあ、鳴ったのは相談者を呼ぶためじゃなかったのかな」
松平の瞳が、ほんのわずかに揺れる。その瞬間、風鈴の音が消えた。ちりん…というはずの音が、途中で切断されたように途絶える。
「その可能性はございます」
尊は笑った。
「やっぱり、そうなんだ」
だがその笑みは、すぐに消えた。庭の色が、ほんの一瞬だけ褪せる。松平は答えない。けれど尊には、もう分かっていた。何かが、この場所で確実に「ずれ始めている」。尊は立ち上がった。その動きに合わせて、空気がわずかに重くなる。
「ちょっと行ってくる」
「どちらへ」
「鈴の回廊」
その言葉の瞬間、空間が一瞬だけ軋んだ。松平はほんの一瞬、言葉を失う。だがすぐに何事もなかったかのように一礼する。
「承知いたしました」
二人は執務室を出た。鈴の回廊、そこに足を踏み入れた瞬間…世界の「音」が消えた。正確には、音は存在しているのに届かない。足音が吸い込まれる。
ーコツー
その音が途中で途切れる。
ーコー
残響が消える。天井には数え切れないほどの鈴が並んでいる。金色、銀色、木製、陶器、ガラス。だがそのすべてが「揺れていない」。揺れるはずのものが、揺れる直前で止まっている。空気が重い…いや、重いのではない「密度が不均一」だ。場所によって、時間の流れが違う。尊はゆっくり歩く。その一歩ごとに、床の感触が変わる。柔らかい場所と、硬すぎる場所が交互に現れる。
「……松ちゃん」
「はい」
「ここ、変じゃない?」
松平は答えない。その代わり、一瞬だけ視線を上げる。天井の鈴の一つが、ほんのわずかに「遅れて」揺れた。だが音はない。音が発生する前に消えている。
「この鈴、全部…誰かのためにあるの?」
「はい。その方の人生と繋がっております」
その言葉の直後、回廊の奥で空気が「裂けるように」歪んだ。尊は一つの鈴へ手を伸ばす。触れる直前、鈴が揺れる。だが音は出ない。音が生まれる前に、空間に吸われている。
「……」
尊は手を止める。
「今、鳴りそうだった?」
松平は静かに頷く。
「はい。ですが音が成立しておりません」
尊は眉をひそめる。
「音が…成立してない?」
松平は答えない。その沈黙の間、回廊の奥で空気が一段深く沈む。尊は奥を見る。そこに他の鈴とは明らかに異なる一つがあった。古びた鈴、だが「古い」というより時間から取り残されている。色は失われているのではない、「色という概念が剥がれている」。表面には無数の傷がある、だがその傷は過去ではなく、未来の欠損のように見えた。
「これ何の鈴?」
松平は一拍遅れて答える。
「古い鈴でございます」
その一拍の遅れが不自然だった。尊は苦笑する。
「それは見れば分かるよ。誰の?」
その瞬間、回廊の空気が「一瞬だけ無音になる」。完全な無音、耳鳴りすらない。世界が停止したような静止。松平は、ようやく答えた。
「………まだ、お伝えできません」
尊は鈴を見る。なぜか胸が痛む。初めて見るはずなのに、懐かしい。というより「欠けている自分」を見ているような感覚。
「触ってもいい?」
松平は、ほんのわずかに遅れて頷く。
「はい」
尊が指先を伸ばす。その瞬間、空間が「歪む」。鈴に触れた瞬間、音ではなく「記憶の断片」が流れ込む。
ーカランー
だがその音は途中で崩壊する。音が最後まで形を保てない。尊の視界が白く裂ける。雪、白い雪。だがその雪は「落ちていない」。空中で止まっている。時間が凍結している。少年が走っている。だが足音がない、地面を踏んでいない。
「待って!」
声だけが遅れて届く。前方の白い衣の青年が振り返る。だが顔は見えない、輪郭が揺らいでいる。
「尊」
声が途中で途切れる。
「僕、約束…覚えてるよ」
だがその言葉は途中で分解される。意味が崩れる。
「それなら、もう十分です」
「十分じゃない!」
少年の声も途中で消える。音が「存在しきれない」。その瞬間、世界が崩壊するように途切れた。
「尊様!」
松平の声、だがその声も一瞬遅れて届く。尊はその場でよろめくが、松平が支える。だがその手の感触もわずかに遅延している。
「大丈夫ですか?」
「……うん」
尊は額に手を当てる。
「松ちゃん…今、何か見えた」
松平は静かに頷く。
「はい。ですが、記録が途切れております」
尊は目を細める。
「途切れてる?」
松平は答えない。その沈黙の間、回廊の鈴が一斉に「鳴りかけて」止まる。音が生まれる直前で全てが停止する。尊は古い鈴を見る。もう揺れていない。だがその鈴の周囲だけ、空気が「歪んでいる」。尊は小さく息を吐く。
「一柱、待ってて」
その言葉の直後、回廊の奥で一つの鈴が音にならないまま、確かに「揺れた」。だがその揺れは、世界に届く前に静かに消えた。




