神様、最初の日 6
異世界相談所には、静かな夜が訪れていた。相談者はいない、鈴も鳴らない。四季庭を渡る風だけが、桜の花びらを静かに運んでいる。尊は縁側に座っていた。手には、いつもの湯呑み。けれど今日は、なかなか口をつけなかった。
「……一柱」
小さく、その名を呟く。まだ顔は思い出せない。声も完全には思い出せない。それでも胸の奥には、確かに残っている。誰かの笑顔、誰かの手、誰かとの約束。そして最後に見た、白い光。
「僕、ずっと誰かを探してたんだね」
背後から松平の声がする。
「はい」
尊は振り返らない。
「その人を、ずっと待ってた?」
「はい」
「何百年も?」
「はい」
短い返事…けれどその一言の中に、あまりにも長い時間があった。尊は少しだけ笑った。
「松ちゃん」
「はい」
「疲れたでしょ」
松平は少しだけ目を伏せる。
「私は、疲れることを許されておりませんので」
尊は振り返る。
「それ、ちょっと寂しい言い方だね」
松平は答えない。ただ、いつものように微笑む。尊は、その顔をしばらく見つめた。
「……ごめん」
松平の目が、わずかに揺れる。
「尊様…何が、でございますか」
「分からない。でも、ずっと僕のために何かをしてくれてた気がする」
松平は静かに首を横へ振る。
「それは、私が望んでいたことでございます」
「でもね…」
尊は小さく笑う。
「僕、今度は松ちゃんにも何かしてあげたい」
その言葉に松平は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
「……それだけで、十分でございます」
夜が深くなる。尊は執務室へ戻った。壁一面の本棚、その奥に白い本がある。尊は、その本を手に取った。今まで何も書かれていなかった背表紙。けれど今は、ほんの少しだけ金色の光が滲んでいる。
「名前…まだ出ないんだね」
本を開く、最後の頁。そこには、一つの文字だけが残っている。
『約』
尊は指先で触れる。すると文字の下に、もう一つ小さな文字が浮かんだ。
『束』
「……約束」
二文字になった。尊は静かに笑う。
「少しずつだね」
その瞬間、本棚の奥から小さな音がした。さら…誰も触れていないのに、一冊の本がほんの少しだけ動いた。尊は振り返る。
「……?」
けれど何もない。ただ白い本の隣に、わずかな空間が残っている。まるで誰か一人分の場所を、最初から空けていたかのように。受付、壁一面に並ぶ時計。柱時計、懐中時計、砂時計、日時計、魔法時計。すべて針は止まっている。けれど、その夜に一つだけ秒針が、ほんのわずかに揺れた。
ーカチー
尊は振り返る。
「今、音した?」
松平は時計を見る。そして静かに答える。
「はい。ですが、まだ動いてはおりません」
尊は時計を見つめる。
「そっか。じゃあ、もう少し待たないとね」
松平は小さく微笑む。
「はい」
その夜、尊は眠らなかった。縁側に座り、四季庭を眺めていた。桜、若葉、紅葉、雪、すべてが静かに揺れている。
「一柱。僕、迎えに行くよ」
誰もいない庭へ、そう呟く。
「今度は僕が、約束を守る」
風が吹いた。桜の花びらが一枚、尊の手のひらへ落ちる。尊はそれを見つめ、小さく笑った。
「…待ってて」
その言葉が風に乗って、庭の奥へ消えていく。けれど誰もいないはずの鈴の回廊で、一つ古い鈴がほんの少しだけ揺れた。
ーカランー
かすかな音。それは相談者を迎える音ではなかった。別れを告げる音でもなかった。まるで遠くにいる誰かへ「ここにいる」と伝えるための、小さな返事のようだった。尊は、その音に気づかなかった。ただ胸の奥で、なぜか誰かに返事をもらったような気がしていた。
「……うん、分かった」
その瞬間、白い本の最後の頁で三つ目の文字が静かに浮かび上がる。
『帰』
『約』
『束』
まだ順番は違う。まだ意味も完全には繋がらない。けれど、その三つの文字は確かに、一つの物語へ向かっていた。異世界相談所は、今日も静かだった。けれど、その静けさの奥で長い間眠っていたものが、確かに目を覚まし始めていた。神様が自分の過去へ帰るための長い道のりが、今ようやく始まったのである。




