神様、最初の日 5
白い本は、静かに開いていた。頁の上には、まだ何も書かれていない。けれど尊には、そこに何かがあることだけは分かっていた。
「松ちゃん」
「はい」
「僕、神様になる前に…誰かと約束したんだね」
松平は静かに頷いた。
「はい。とても大切な約束でございます」
尊は白い頁を見つめる。
「その人、一柱?」
松平の瞳が、ほんの少し揺れた。
「……はい」
「一柱は、僕に神様になってほしかったのかな」
松平は、すぐには答えなかった。やがて静かに。
「いいえ」
「じゃあ、何を望んでたの?」
「あなたが、あなたのままで…生きることです」
尊は少し驚いた。
「僕、神様になったのに?」
「はい。だからこそ…」
松平の声が、ほんの少しだけ震えた。
「一柱様は、最後まであなたに…そのままでいて欲しかったのです」
白い光が再び広がる。今度に見えたのは、古い神殿だった。まだ壊れていない。大きな柱、白い石床、中央に祭壇。そこに少年だった尊が立っている。隣には、白い衣の青年。
「尊」
「はい」
「もし僕がいなくなったら…」
少年は、すぐに首を振る。
「嫌だ。いなくならないで」
青年は少し笑う。
「人は、いつか誰かと別れます。だから、約束をするのです」
少年は涙をこらえる。
「どんな約束?」
青年は、少年の手を取る。
「忘れないこと」
「それだけ?」
「それだけで、十分です」
少年は小さく頷く。
「約束する」
景色が変わる。青年になった尊が、村人に囲まれている。病人、子ども、老人。誰もが尊へ助けを求める。
「どうしたら、この人を助けられる?何かできる?」
尊は、一人ひとりの話を聞く。けれど、すべては救えない。助けられない命もある。尊はそのたびに、自分を責める。
「僕が、もっと強ければ…もっと知っていれば……もっと」
その時、一柱の声がする。
「尊」
「はい」
「すべてを救う必要はありません」
「でも忘れたくない」
「なら、忘れなければいい。それが君の力になる」
景色が再び変わる。戦火、逃げ惑う人々。尊は人々を助けながら、一柱を探している。
「どこ?どこにいるの?」
答えはない。ただ遠くで鈴が鳴る。
ーカランー
尊は鈴の音へ向かう。その先に一柱がいた。けれど、その姿は光の向こうにある。
「一柱!」
「尊」
「…迎えに来た」
一柱は少しだけ笑う。
「来てはいけません」
「どうして?」
「君までここへ来たら、戻れなくなる」
尊は首を振る。
「それでも約束した。忘れないって」
一柱は長い沈黙のあと。
「……そうでしたね」
と、静かに答えた。そこで景色が途切れる。尊は息を呑んでいた。
「松ちゃん」
「はい」
「僕、一柱を助けに行ったんだね」
松平は静かに目を伏せる。
「はい。ですが、その先の記憶は…まだ閉じられております」
尊は白い本を握る。
「どうして僕は、一柱を助けられなかったの?」
松平は答えない。尊は何度も問いかける。
「何があったの?どうして、僕は神様になったの?」
松平の瞳に、深い悲しみが浮かぶ。
「尊様」
「…何?」
「あなたは、神様になったのではありません」
尊は顔を上げる。
「……え?」
松平は静かに続ける。
「神様になることを、選ばされたのでもありません。」
「じゃあ、何?」
「あなたは誰かを忘れないために、神様という場所を作ったのです」
尊の目が大きく揺れる。
「僕が?」
「はい。忘れないために…誰かの人生を、誰かの声を、誰かの約束を、全部を残すために」
白い本が淡く光る。
「この本も、相談所も……あなたが作ったのです」
尊は何も言えなかった。目の前にある、無数の本。これまで出会った相談者、すべての人生、それらが…ただの仕事ではなかった。
「僕…ずっと誰かを待ってたんだ」
松平は静かに頷く。
「はい。そして、その方が帰ってくる場所を…あなたは守り続けていたのです」
その時、鈴の回廊から一つの音。
ーカランー
尊と松平が同時に振り返る。今まで決して鳴らなかった、一番奥の鈴。それが今、確かに揺れている。尊は立ち上がる。
「松ちゃん」
「はい」
「行こう」
「どちらへ?」
尊は鈴の回廊を見る。
「一柱を迎えに行く」
松平の瞳が大きく揺れる。
「……承知いたしました」
尊は白い本を閉じる。その表紙に、初めて金色の文字が一瞬だけ浮かんだ。けれどまだ、名前までは読めない。尊は静かに笑う。
「待ってて。今度は僕が、約束を守るから」
相談所の奥で古い鈴が、もう一度小さく鳴った。
ーカランー
その音は終わりを告げる音ではなかった。長い時間を越えて、誰かを迎えに行くための最初の一歩だった。




