神様、最初の日 4
白い本は、静かに開かれていた。最後の頁…そこにあるのは、たった一文字。
『約』
その文字は、ただ書かれているのではなかった。まるで“生きている”。脈打っている。
ードクン、ドクンー
紙の上のはずなのに、確かに鼓動がある。尊は息を呑んだ。
「……なに、これ」
指先が触れた瞬間、冷たさではなく“圧”が返ってくる。押し返されるような、拒絶ではない。むしろ逆だった。“見ろ”と強制してくる圧。
「約…」
声に出した瞬間、文字がわずかに揺れた。揺れたのではない、“反応した”。尊の心臓が跳ねる。
「これ…ただの文字じゃない」
松平は答えない。ただ静かに、その文字を見ている。まるで何度も見送ってきたものを、また見ているように。尊は喉を鳴らす。
「松ちゃん……これ、何?」
沈黙。その沈黙が、異様に長い。やがて松平は、低く言った。
「それは“約束”ではございません」
尊の背筋が冷える。
「え……?」
松平は続ける。
「それは“約束の残骸”です」
ードクンー
『約』が、強く脈打つ。尊の指先が跳ねる。
「残骸…?」
松平は白い本を見つめたまま言う。
「約束は、果たされると消えます。しかし果たされなかった約束は、消えずに残る」
尊の喉が乾く。
「じゃあこれ……」
松平は静かに言った。
「“終わらなかった約束”の最後の形です」
その瞬間『約』が、ひときわ強く脈打った。
ードクンッー
尊の視界が揺れる。
「っ……!」
胸の奥が締め付けられる。痛いのではない、“呼ばれている”。どこか深い場所から、逃げられない場所から。白い光が溢れた。今度の光は優しくない、むしろ“侵食”に近い。視界が塗り替えられる。街、人の声、笑い、そのすべてが遠ざかる。そして中心に少女。
「約束しよう」
その声が、異様に鮮明に響く。小指が絡む、その瞬間『約』が、再び脈打つ。
ードクンー
尊の心臓と同期するように。
「……これ、僕の記憶じゃない」
だが否定できない。“知っている”、“知ってしまっている”。その矛盾が、尊を壊していく。景色が歪む。少女の笑顔が、ゆっくりと崩れる。街の音が消える、空が黒く沈む。そこへ現れる白い衣の青年、尊の“先生”…その姿を見た瞬間、『約』が激しく脈打った。
ードクンッ!ドクンッ!ー
まるで反応している。この人物に。尊は息を呑む。
「先生…」
青年は笑う。だがその笑みは、ひどく“薄い”。
「尊」
その声で、『約』が震える。
「君はもう気づいています。この世界は、継続できない」
尊の喉が詰まる。
「どういう意味……?」
青年は一歩近づく、その手にあるのは――白い本。今、尊が持っているものと“同じ形”。尊の呼吸が乱れる。
「それ…」
青年は静かに言う。
「これは“継承器”です」
その瞬間『約』が、狂ったように脈打つ。
ードクンッ!ドクンッ!ドクンッ!ー
尊の指先が痺れる。
「継承……?」
青年は頷く。
「神は壊れます。だから次へ渡す」
尊の視界が揺れる。
「じゃあ僕は…」
青年は言う。
「あなたは選ばれたのではありません。あなたは“残された”のです」
その言葉と同時に『約』が一瞬だけ“止まる”。そして強く、深く、沈むように脈打った。
ードクン…………ッー
尊の中で何かが崩れる。
「残された……?」
その意味が遅れて刺さる。選ばれたのではない、救われたのでもない、ただ“消えた後に残った”。景色が崩壊する。少女の姿が遠ざかる。街が崩れ、青年が消えていく。最後に残るのは白い本。そして『約』、その文字だけが異様に鮮明に残る。青年の声が落ちる。
「君はこれから神になります」
尊は叫ぶ。
「そんなのいらない!」
その瞬間。『約』が“跳ねた”。
ードクンッ!!ー
まるで怒ったように、まるで拒絶されたことを理解したように。尊の胸が裂ける。
「僕はただ……!一緒にいたかっただけだ!」
青年は静かに言う。
「だからです。あなたは“忘れない神”になる」
その言葉と同時に、『約』が“完成しないまま”崩れかける。ひび、文字に亀裂が走る。尊の視界が白に沈む。
意識が相談所に戻る。尊は白い本の前で膝をついていた。息ができない、胸が痛い……涙が止まらない。
「……嘘だ。こんなの…約束じゃない」
その声に反応するように、白い本の『約』が微かに脈打つ。
ードクンー
まだ“生きている”。尊は気づく、これは終わっていない、終わらせてもいない。
「松ちゃん……」
松平は静かに言う。
「はい」
「僕は……選ばれたんじゃない。残されたんだ」
松平は頷く。
「はい」
その瞬間『約』が再び脈打つ。
ードクンー
今度は弱く、だが確かに尊は震える手で本に触れる。
「僕は…忘れない」
その言葉に反応するように、『約』がわずかに安定する。
ードクンー
尊は続ける。
「忘れないなら…せめて……」
涙が落ちる。
「誰かを……一人にしない」
その瞬間『約』が初めて“静かに脈打つ”。
ードクンー
まるで受け入れたように、白い本が閉じる。その音は、まるで心臓の終わりのように静かだった。松平が言う。
「それが、あなたの始まりでございます」
尊は白い本を見る。
『約』
その文字はまだそこにある。だがもう、ただの文字ではない。生きている、待っている。次の“継承”を…尊は静かに呟く。
「僕は、神様になったんじゃない。僕は……約束に選ばれたんだ」
その瞬間『約』が最後に一度だけ脈打つ。
ードクンー
そして静かに、沈黙した。まるで次の誰かを待つように。




