神様、最初の日 3
白い本は静かに閉じていた。その表紙には、まだ名前がない。けれど尊の胸の中には、一つだけはっきり残っていた。
「松ちゃん」
「はい」
「僕、昔の友達に会いたい」
松平は静かに尊を見る。
「はい。きっとその方も、お待ちなのだと思います」
尊は少し笑う。
「待ってる、僕を?」
「はい」
その答えに尊の胸が、ほんの少し痛んだ。
昼頃、尊は四季庭を歩いていた。桜の下、若葉の間、紅葉のそば、雪の上。どこを歩いても、あの少女の姿が浮かぶ。花を持って、笑って、少年だった自分の隣を歩いていた。
「毎日違う花、そう言ってたな」
尊は小さく笑う。
「名前、思い出せない。顔は覚えてる」
それだけでも不思議だった。何百年も前の記憶。なのに笑顔だけは、昨日のことのように鮮明だった。白い本を開く。今度の頁には、小さな村の景色が浮かんだ。少年の尊、少女。二人は川辺に座っている。少女が、小さな石を水へ投げる。ーぽちゃん、波紋が広がる。
「ねえ、尊」
「なに?」
「約束しよう」
少年が首を傾げる。
「何を?」
少女は少し考える。
「ずっと、友達」
少年は笑った。
「それ、約束なの?」
「うん。だって約束しないと、いつか忘れちゃうかもしれないから」
少年は少しだけ真剣な顔をする。
「忘れないよ、絶対」
少女は笑う。
「じゃあ、約束」
二人は小指を絡めた。小さな指、幼い約束。尊は、その光景を見ながら自分の指を握った。
「……」
胸が苦しい。けれど、なぜか温かい。
「こんな約束してたんだ」
松平は静かに答える。
「はい。尊様は約束を大切にする方でした」
景色が変わる。少年の尊は、村の人々を助ける青年へ成長していく。薬草を集め、病人を見舞い、争いがあれば両方の話を聞く。少女も隣にいる。
「また、人の話を聞いてる」
少女が笑う。
「うん。どっちが悪いか、分からないから」
「じゃあ、どうするの?」
少年は考える。
「両方、どうして困ってるのか…聞く」
少女は嬉しそうに笑う。
「やっぱり、尊は尊だね」
その言葉が尊の胸に深く響いた。
「やっぱり僕、昔からこんなだったんだ」
ある日、村へ一人の旅人がやってきた。ひどく疲れている。荷物もほとんどない。村人たちは警戒した。
「怪しい」
「追い返そう」
少年の尊は旅人の隣へ座る。
「どこから来たの?」
旅人は答えない。ただ俯いている。少女が少年の耳元で言う。
「怖いのかも」
尊は頷く。
「うん。じゃあ、急かさない」
その言葉に少女は笑う。
「また、それ」
「うん。僕は急がせるのが苦手なんだ」
尊は今の自分と同じ言葉を、昔から使っていたことに気づく。
「……」
胸の奥が熱くなる。その夜、白い衣の青年が少年の尊を呼んだ。
「尊」
「はい」
「人を救うというのは、その人の代わりに歩くことではありません」
少年は首を傾げる。
「じゃあ、何をするの?」
青年は笑う。
「隣にいるのです。その人が自分の足で歩き出すまで」
その言葉を聞いた瞬間、尊は息を呑んだ。
「……」
今の相談所、尊がいつもしていること、まさにそれだった。相談者の代わりに人生を歩くのではない。ただ隣に座る、話を聞く。そして自分で選んだ道へ送り出す。
「僕、ずっとこれをしてたんだ」
青年は少年へ小さな鈴を渡す。
「これは、何?」
「困った時に鳴らしなさい」
少年は嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
青年は優しく頭を撫でた。
「ただしいつか、僕が来られない日も来ます」
少年の顔から笑顔が消える。
「どうして?」
青年は答えない。
「その時は君が、誰かの隣にいてあげなさい」
「僕が?」
「はい。君ならできる」
少年は小さく頷いた。
「分かった」
景色が崩れる。少年、少女、青年。三人の姿が、光の中へ溶けていく。最後に少女が振り返る。
「尊」
「なに?」
「もしいつか私のことを忘れても、大丈夫だから」
少年は驚く。
「忘れないよ」
少女は寂しそうに笑う。
「ううん。人は大切なものほど、心の奥へしまうことがあるから。だからもし忘れても、約束だけは覚えていてね」
その言葉が尊の胸を強く打った。景色が消える。尊は白い本の前で目を開けた。
「……」
涙が落ちていた。
「松ちゃん」
「はい」
「僕、この子と何を約束したんだろう」
松平は、すぐには答えなかった。やがて静かに。
「それは尊様ご自身が、思い出されることだと思います」
尊は頷く。
「うん。自分で見つけたい」
その時、白い本の頁に一文字だけ新しい文字が浮かんだ。
『約』
尊は、その文字を見つめる。そして静かに笑った。
「少しずつ、帰ってきてる」
松平は目を伏せる。
「はい。確かに帰ってきております」
白い本は静かに閉じる。その奥で少年だった尊と、最初の友との約束が長い眠りから、ゆっくりと目を覚まし始めていた。




