神様、最初の日 2
白い本は、静かに閉じられていた。尊は、その前に座ったまま、しばらく動かなかった。
「僕、本当に普通の子どもだったんだね」
隣に座る松平は、静かに頷く。
「はい。特別な力も、特別な使命も、最初から持っていたわけではございません」
尊は少し笑った。
「なんだか安心した」
「どうしてでございますか」
「神様って、最初から神様なのかと思ってたから。でも僕にも、普通の子どもの時間があったんだね」
松平は穏やかに微笑む。
「はい、ございました」
尊は、もう一度だけ白い本へ手を伸ばした。今度は怖くなかった。指先が表紙へ触れる。すると白い光が、ゆっくりと広がった。
「………」
景色が浮かぶ。今度は森ではなかった。小さな村、木造の家、畑、川、子どもたちが走り回っている。その中に、少年の尊がいた。十歳ほどで、少し伸びた黒髪。古びた服、裸足の足。その隣には、少女がいた。最初に見たときよりも、ずっと鮮明だった。笑うと、光が跳ねるような子だった。花を差し出す指先が、少しだけ泥で汚れている。それすらも、なぜか眩しい。
「今日は黄色。昨日は白だったよ」
「じゃあ、明日は赤ね」
少年が笑う。
「毎日違うの?」
「うん、だってね」
少女は少しだけ胸を張る。
「花って、同じ顔してないでしょ。だから毎日、違う花をあなたにあげるの」
その言葉に、少年は小さく笑った。
「変なの。でも…なんか、いいね」
少女は満足そうに笑う。その笑顔を見た瞬間…尊の胸が、理由もなく締めつけられた。
「……この子、誰なんだろう」
松平は答えない。ただほんのわずか、目を伏せる。景色が変わる。少年の尊は、村の老人のところへ走っていた。
「大丈夫?」
老人が笑う。
「転んだだけだよ」
「でも、痛そう」
少年は薬草を探す。小さな手で、一枚、また一枚、見つけた薬草を持ってくる。少女が隣で手伝う。
「これ、ちゃんと潰してから貼るんだよ」
老人は驚く。
「よく知ってるね」
少年は首を振る。
「教えてもらっただけ」
「誰に?」
少年は少し考える。
「分からない」
その答えに、尊は眉を寄せた。
「誰か…いたんだ」
松平は静かに答える。
「はい。尊様には幼い頃から、人の手を借りることを教えてくださった方がいらっしゃいました」
尊は少し驚く。
「僕、一人じゃなかったんだ」
「はい」
さらに景色が変わる。夕暮れの村の外れに、少年と少女が並んで座っている。二人の前には、小さな川。夕日が水面へ長く伸びている。少女が尋ねる。
「ねえ、尊」
少年が振り返る。
「なに?」
「大きくなったら、何になりたい?」
少年はしばらく考える。
「分からない。でも困ってる人を、助けられる人になりたい」
少女は笑う。
「神様みたい」
少年は首を横に振った。
「神様じゃなくていい。ただ誰かが泣いてたら、そばにいられる人がいい」
その言葉に尊は目を閉じた。胸の奥が強く揺れる。それは今の自分と、まったく同じ願いだった。相談者の隣に座ること、言葉を急かさないこと、ただそこにいること。
「僕、昔から変わってないんだ」
松平は静かに答える。
「はい。尊様の一番大切なものは、昔から人の心でございました」
その時、景色の中の空気がふっと変わった。音が消える。風が止まる。夕暮れの色だけが、深く沈む。そこに“少女”が、少しだけ違って見えた。さっきまで確かにそこにいたのに、輪郭がわずかに揺れている。まるで記憶そのものが、呼吸しているように。少年の尊は気づかない。ただ笑っている。その隣で少女も笑っている。けれど尊の胸の奥だけが、理由もなく痛んだ。
「……あれこの子、なんでこんなに懐かしいのに思い出せない」
少女は何も言わない。ただ、花を差し出す。その花の色が、一瞬だけ揺れた。黄色だったはずのそれが、白にも見えた。赤にも見えた。そして次の瞬間には、もう分からなくなっていた。
その時、空気がさらに歪む。音が完全に消える。そこに“誰か”が立っていた。白い、と言うにはあまりに曖昧で。光、と言うにはあまりに静かだった。輪郭はあるのに、焦点が合わない。見ているのに、見えていない。ただ確かに「そこにいる」という気配だけがあった。少年の尊は気づく。
「……誰?」
その“誰か”は答えない。ただ少年の頭へ、そっと手が触れる。触れたはずなのに、温度がない、冷たさでもない。ただ、境界が消えるような感覚だけが残る。
「焦らなくていい」
声は、耳ではなく胸の奥に落ちた。
「まだ、答えを探さなくてもいい」
少年は笑う。
「でも僕、みんなを助けたい」
その“誰か”は、ほんのわずかに揺れた。風のように、水面のように、形のないまま感情だけが滲む。
「ならまず、自分を大切にしなさい」
その言葉が尊の胸に、鋭く優しく沈む。知っている、この声。けれど思い出そうとすると、指の間から零れていく。女子は小さな鈴を取り出す。その瞬間…少女の存在が、ほんの一瞬だけ強くなる。確かにそこに「いる」と感じられるほどに。少年は嬉しそうに受け取る。
「ありがとう」
その瞬間、“誰か”と少女がほんの一瞬交わる。その目は、どこにも焦点を結ばない。それでも確かに、2人は重なって見えた。景色が急に揺れる。白い光が強くなる。少年、少女、そして“誰か”…その境界が溶けていく。尊は思わず手を伸ばす。
「待って!誰なの?」
“誰か”だけが振り返る。その動きすら輪郭が曖昧で、風が形を取ったようにも見える。そして静かに口が動く。声はない。けれど、その“気配”だけが、確かに届く。
ーまた会おうー
その瞬間、すべてが白に溶けた。尊は、白い本の前で目を開けた。息が少し乱れている。隣では松平が静かに座っている。尊はしばらく何も言わなかった。やがて…。
「松ちゃん」
「はい」
「あの人、誰?」
松平は答えない。ただ一瞬だけ、視線を落とす。尊は続ける。
「僕、あの人に何かを教えてもらった。そう思う。」
松平は静かに頷く。
「はい。尊様に、とても大切なことを教えた方でございます」
「一柱?」
その言葉に、松平の瞳が揺れる。尊は見逃さなかった。
「……やっぱり。一柱に関係してるんだね」
松平は静かに目を伏せる。
「はい。ですが今は、まだその名をお伝えする時ではございません」
尊は少しだけ笑った。
「分かった。じゃあ、僕が思い出す」
松平は顔を上げる。尊の瞳には、もう迷いがなかった。
「僕自身の人生なんだから、誰かに教えてもらうんじゃなくて、自分でちゃんと見つけたい」
松平は深く頭を下げる。
「承知いたしました」
その時、白い本の最後の頁に小さな文字が浮かんだ。
『最初の友』
尊はその文字を見つめた瞬間、胸の奥で何かが崩れた。少女の笑顔が浮かぶ。花を差し出す手、泥のついた指先。
「毎日違うあなたにあげるの」
その声が確かにあったはずなのに、思い出そうとすると涙だけが先に落ちる。
「……友」
尊の声が震える。
「この子。僕の友達だったんだ」
その瞬間、少女の輪郭がほんの一瞬だけ強くなる。確かにそこにいた。確かに笑っていた。確かに隣にいた。けれど次の瞬間には、もう掴めない。記憶が、優しく逃げていく。尊は静かに微笑む、涙を拭わないまま。
「会いたいな、この子に」
松平は何も言わない。ただその言葉を、壊れないように受け止めていた。白い本は、また静かに閉じる。けれどその頁の奥では、少年だった尊の人生が確かに誰かの笑顔とともに、今の尊へ向かって帰り始めていた。




