鈴の向こう側 4
古い本は、文机の上で静かに閉じられていた。その最後の頁には『帰』の一文字だけ。尊は、その文字を見つめていた。
「帰る。一柱が帰ってくる」
松平は静かに頷く。
「はい」
「だから僕は、この場所を作った」
「はい」
「一柱が帰ってきた時、何も失われていないように」
その言葉を聞いた瞬間、松平の表情がほんのわずかに揺れた。
「……そこまで、思い出されたのですね」
尊は首を傾げる。
「思い出したというより…そうだった気がする。ずっと何かを……守っていた気がするんだ」
松平は静かに目を伏せる。
「その通りでございます」
尊は本棚を見つめた。無数の本、一人ひとりの人生。笑った人、泣いた人、迷った人、そして前へ進んだ人。
「僕は最初から、こういう場所を作りたかったのかな」
松平は静かに答える。
「最初は、もっと小さな場所でした」
「どんな?」
「一つの部屋。机が一つ、椅子が二つ…本が数冊」
尊は少し笑った。
「今と全然違うね」
「はい。けれど役目だけは、変わりませんでした。話を聞く、待つ、送り出す」
尊は、その言葉を聞きながら静かに頷いた。
「僕、ずっと同じことしてたんだ」
「はい」
古い本が再び淡く光った。頁がひとりでに開く。そこには小さな部屋が描かれていた。木の机、二つの椅子、小さな窓。窓の外には、まだ四季庭ではない庭。桜の木が一本、尊と一柱が向かい合って座っている。
「今日は、誰が来るかな」
一柱が笑う。
「まだ、誰も来ませんよ」
「そっか」
尊は少し残念そうにする。一柱は本を一冊、机の上へ置いた。
「それでも、ここにいることに意味があります」
「どうして?」
一柱は少しだけ間を置き、静かに言った。
「ここは“失われたものを、失われたままにしない場所”です」
尊は首を傾げる。
「失われたままにしない?」
一柱は頷く。
「人は忘れます。痛みも、約束も、誰かの声も。だから、そのまま消えてしまう」
尊は小さく呟く。
「消えるのは…嫌だ」
一柱は続ける。
「だから私は“記録”を作りました」
「記録?」
一柱は机の本を指す。
「ここに書かれたものは、忘れられても消えない。ただ残るだけではなく、“いつか誰かが取り戻せる形”で残る」
尊は息を呑む。
「取り戻す……?」
一柱は静かに頷く。
「そう、失われた記憶を、もう一度“その人のものとして返す”。それが、この場所の本当の役割です」
景色が変わる、現在の相談所に。相談者が増え、本が増え、庭が広がり、鈴が増え…そして時計が増えた。無数の時計。柱時計、砂時計、懐中時計、魔法時計。すべてが同じ時を刻んでいるはずだった。けれど、一つだけ。
ーカチー
と音がした。尊が振り返る。
「今……?」
松平は時計を見る。
「……はい。一つだけ“止まっていた時間”が動きました」
尊は息を呑む。
「止まっていた時間……?」
松平は静かに続ける。
「この場所の時間は…本来、流れていません。なぜなら、ここは“記録の外側”だからです」
尊は眉をひそめる。
「記録の外?」
松平は頷く。
「はい。ここは失われた記憶を預かる場所。つまり時間の中に存在していない」
尊は小さく呟く。
「じゃあ…僕たちは……」
松平は続ける。
「“止まった時間の中で、誰かの記憶を守っている存在”です」
その瞬間、白い本が光った。尊の視線が吸い寄せられる。ページは開かれない。だがそこに“何かが書き戻されようとしている圧力”だけがある。松平が静かに言う。
「時計が動いたのは、記録が再び“返還”され始めたからです」
尊は息を呑む。
「返還……?」
松平は頷く。
「はい。ここに預けられていた記憶は、本来持ち主へ“返されるべきもの”です」
尊の目が揺れる。
「返す……って、誰に?」
松平は静かに答える。
「その記憶の“本来の持ち主”に、そして…それを可能にする存在が……」
松平は一瞬だけ間を置く。
「一柱です」
尊の呼吸が止まる。
「一柱は…」
松平は続ける。
「記録を作る者ではありません。守る者でもありません。一柱は“返す者”です」
尊は目を見開く。
「返す……?」
松平は静かに頷く。
「失われた記憶を、正しい場所へ戻す。それが一柱の役割です」
尊の胸に雪の日の光景が蘇る。消えていく背中。
「帰ってきたら」
という言葉。そして、最後に残った“約束”。尊は震える声で問う。
「じゃあ…僕は……」
松平は静かに答える。
「あなたは、返される側です」
空気が止まる。尊の目が揺れる。
「僕が……?」
松平は頷く。
「はい。あなたは、一柱によって“返されるべき記憶”の中心にいます」
尊は息を呑む。
「じゃあ…あの雪の日も……」
松平は静かに言う。
「あなたは、一柱を追いかけていたのではありません。逆です」
尊の瞳が揺れる。松平は続ける。
「一柱は、あなたの“失われた記憶そのもの”を、元の場所へ返そうとしていた」
尊の声が震える。
「僕の…記憶?」
松平は頷く。
「はい。あなたはかつて“誰かを忘れないために、自分の記憶を差し出した”」
尊の呼吸が乱れる。
「だから…」
松平は静かに言う。
「だから一柱は、あなたの“失われた部分”を持っていった。そして、それを返すために去ったのです」
尊の中で、すべてが繋がる。待つ理由、探す理由、胸の痛み、消えない空白。それは“誰かを失った記憶”ではなく、“自分自身の欠けた記憶”だった。尊は震える声で呟く。
「じゃあ、僕が返すべきものは……」
松平は静かに答える。
「あなた自身です」
その瞬間、白い本が強く光る。光は一本の線となり、鈴の回廊へ伸びる。そして、その先へ。尊は息を呑む。
「これが…」
松平は静かに言う。
「帰還の道です。そして同時に、返還の道でもあります」
尊の目に涙が浮かぶ。
「僕は…僕を……取り戻しに行くのか……」
松平は深く頭を下げる。
「はい。ようやく“帰る”と“返す”が、同じ意味になります」
鈴が鳴る。
ーカランー
今度ははっきりと、尊は光を見つめる。その瞳には、迷いはもうなかった。
「行くよ。僕を取り戻しに。そして一柱を、迎えに行く」
光の道は静かに揺れながら、確かに“失われた記憶の中心”へと続いていた。




