エピローグ(2)
春の柔らかな日差しが街を包み込む、三月の終わり。
結衣が暮らすワンルームマンションのエントランス前に停まった、少し年季の入った軽自動車。そのドアに寄りかかっていた女性が、三階建ての棟を眩しそうに見上げていた。
だらしなく着崩した上下のジャージ姿で、長く伸びた黒髪を無造作なポニーテールにしている。
パッと見ると十代の女性にも思えてしまうほど若々しく整った顔つきだが、指に挟んで咥えたタバコの姿があまりにも様になりすぎていて、とうに成人しているのだとすぐに理解させられる。
「母さん。タバコまだやめてないんだ」
キャリーケースをカラカラと引き摺りながらやってきた瑞樹が、母さんと呼ぶ相手に苦笑いを向ける。
古河理沙。
瑞樹の母親だ。
一年前にシェアハウスへ移るため家を出て以来、初めて顔を合わせた。
シェアハウスの保護者たちが集まるあの報告会にも、結局一度も顔を出すことはなかったのだ。
「おー瑞樹か。あれ? こんなデカかったか?」
酒とタバコで喉が焼けているのか、特徴的なハスキーボイスの理沙。
この声も、一年ぶりに聞いた。
良くも悪くも、何も変わっていない。
そしてそんな声色とは似つかわしくなく、まるで悪戯を思いついた少女のような満面の笑顔で瑞樹を見上げてきた。
「久々に会った息子への第一声がそれかよ?」
「久々に会った母親への第一声がアレだったからな?」
理沙はタバコを咥えたまま、ニカっと快活に笑って、瑞樹の頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でた。
ふわりとタバコの紫煙が顔にかかって、瑞樹が思わず顔を歪めると、理沙は「わりーわりー」と豪快に笑いながら、携帯灰皿にタバコの火を押し付けて消した。
「俺が肺ガンになったら、原因は絶対母さんのタバコの副流煙だ」
「そんなわけないだろう」
キョトンと首を傾げる理沙に、「なんでだよ?」と瑞樹が呆れ気味に訊く。
「小さい頃から瑞樹はずっと一人だったからな? あんまり抱き締めた記憶がない」
「ネグレクトをそんな胸を張って宣言しないで欲しいのだが」
「放任だよ放任。そのおかげでこんなに逞しく育ったじゃないか。自慢の息子だと私は町内中回って言えるぞ。そうだ、今日この足で回ってやろうか」
理沙はそう言うと、ドンと胸を張って得意げに笑った。春の風が彼女のポニーテールを揺らす。
「恥ずかしいから絶対にやめてくれ……」
スラスラと適当な言葉で口が回る瑞樹の性格。その血は、間違いなく目の前の母親である理沙から濃く受け継いでいるようだった。
「これで大学教授っていうんだから、日本大丈夫かよって思うよ」
そう。理沙は日本でも有数の難関大学の教授を務めており、数々の論文も発表するような名誉ある存在らしいのだ。
この、上下ジャージにタバコをふかして、適当なことをペラペラと吐かすこの母親が、だ。
「見た目や素行じゃなく、内側をきちんと評価して見てくれる。最高じゃないか。まるで恋愛の常套句だな? あ、それで瑞樹、妻をめとったって?」
次から次へと、本当に話題に絶えない母親だ。
一年分の空白を埋めるように急いでいるのか?
違う。
この母親は、昔からずっとこんな調子なのだ。
「いずれはそうしたいと思ってるけど、まだ俺たちはただの恋人だよ」
瑞樹が困ったようにそう言うと、理沙はニヤッと不敵な笑みを浮かべる。
「いやいや息子。ただの高校生カップルが同棲するなんて、日本大丈夫かよ?」
「……それを言われるとなんも言えない」
「まあ私はいいけどな。瑞樹の好きにしたらいいよ。瑞樹が社会人になるまでは、いくらでも金は出してやるから」
理沙は究極の放任主義。
その代わり、瑞樹がしたいことには全て賛成し、それに係る費用も上限なくポンと出して背中を押してくれる。
良い親なのか、悪い親なのか。
瑞樹にそれを正確に判断することは出来ないが、いずれにしても、自分は無駄遣いや浪費癖もなく、真っ当に生きてきていると思っている。
「相手の——結衣ちゃんだっけ? その子の親御さんからの了承は得てるのか?」
ぶっきらぼうにそう訊ねる理沙に、瑞樹はしっかりと頷いて答えた。
「もちろん。結衣の親も母さんに負けず劣らずの放任主義なんだよ。好きにしたら良いって言ってくれた」
「そうか。なら安心だな。じゃあ親子の戯れもこのくらいにしようか。無断で大学抜けてきてるんだよ私」
理沙はまた新しくタバコに火をつけると、停めてあった軽自動車に乗り込んだ。
エンジンがブルゥン! と唸り声を上げて掛かり、マフラーから排気ガスがボフッと吐き出される。
大丈夫かこの車。
ウィーンと助手席の窓ガラスが下がり、中から理沙が声を掛けてくる。
「金は口座に入れてあるから、適当に使いな。足りなくなったらちゃんと言えよ」
「わかった、ありがとう。……あの、母さん」
「ん?」
瑞樹は窓ガラスから覗き込み、理沙の顔を真っ直ぐに見つめた。
「体には気を付けて」
瑞樹が照れくさそうにそう言うと、理沙はニカっと最高に明るく笑う。
「私は無敵だから大丈夫だ。瑞樹こそ、結衣ちゃんと毎日セックスするのは良いけど、ゴムはしろよ?」
「ぶっ!」
「あはははは!」
「余計なお世話だ! まったく!」
瑞樹が真っ赤になって窓から離れると、ウインドウがススッと閉まり、そしてヤンキー車のような重低音を鳴らしながら、理沙は春の街へと去っていった。
「なんて母親だ……」
瑞樹は一人ごちり、キャリーケースを引いてマンションへと入って行く。
***
結衣の家のチャイムを押すと、ほどなくしてガチャリと扉が開き、結衣が笑顔で出迎えてくれた。
「やっと来た、瑞樹くん」
「お待たせ」
結衣も春休みに入っている。
スウェットにTシャツといういつものおうちのラフスタイルで、彼女はニコニコと瑞樹の手を引いた。
キャリーケースを玄関に置き、促されるままフローリングのリビングに足を踏み入れる。
嗅ぎ慣れた結衣の甘い匂いが充満する、瑞樹の大好きな空間。
窓から差し込む柔らかな春の陽光が、部屋全体を温かく包み込んでいる。
瑞樹は結衣に正面から向き合うと、居住まいを正して頭を下げた。
「今日からお世話になります」
すると、結衣も同じくペコリと頭を下げた。
「こ、こちらこそ、よろしく……」
そして二人は頭を上げて、目が合った瞬間に、同時にぶふっと噴き出した。
「なんか改めてこう意識すると、変な感じだね、瑞樹くん」
「そうだな。ほぼ毎週末泊まりに来てたし、あんまり新鮮味はないけどな」
結衣は瑞樹の腕を掴むと、そのままギュッと力強く抱き締めた。
ニコニコと心底楽しそうに笑って、上目遣いで瑞樹を見上げる。
「じゃ瑞樹くん、早速」
「ん?」
「二十四時間耐久! アニメ鑑賞祭り!」
「に、二十四時間っ!?」
あはは! と、楽しそうに瑞樹の腕を引いて、結衣はまたコロコロと笑った。
「まったく……これだからオタクは」
呆れたようにそんなことを呟きながらも、瑞樹は隠しきれないニヤニヤ顔で、愛しい彼女にどこまでもついていく。
春。
桜の蕾がほころぶ、優しくて温かい季節。
大好きな結衣との同棲が、スタートした。




