エピローグ
三月二十五日。
すっかり生活感の無くなったシェアハウスのリビングで、朱音、一花、遊は、ガランとした景色を見ながら談笑をしていた。
今日をもって、約一年間に亘ったこのシェアハウスでの、幼馴染同士での共同生活が終わる。
悲しくて、寂しい。
だけど、これはそれぞれの家族の元へ帰る新しい門出であり、彼らの人生における大きな一歩目にもなる。
だから三人の表情は、寂しさを滲ませながらも、思ったよりもずっと明るかった。
「お待たせ。……よいしょっと」
瑞樹がリビングのドアを開けて入ってきた。
他の三人は手荷物レベルのカバン一つの中、瑞樹は一人、大きなキャリーケースを携えていた。
理由は簡単だ。
幼馴染たちはそれぞれ実家に帰るため、既に数日前に親と一緒に荷物は運び出している。
一方で瑞樹は、実家には帰らず、このままの足で同棲するために結衣の家に行く。自分の荷物を結衣に受け取らせるのも申し訳なくて、自力で持っていくことにしたのだ。
「さすが男の子……というか瑞樹くん。おうちの荷物、それ一つで全部収まっちゃうんだね」
朱音が苦笑いで瑞樹のキャリーケースを指差すと、一花も苦笑いを見せて首を振る。
「朱音ちゃん。みーくんはこのキャリーケースに収まらないものは、容赦なく全部売ったり捨てたりしたんだよ」
「古河は、こういうとこ極端だからね」
遊はにこやかに笑うと、瑞樹は困ったようにツッコむ。
「人を薄情者みたいに言うな」
「あはは! ほら、こっちこっち」
一花は楽しそうに笑いながら、瑞樹の手を引いて自分たちの輪に誘う。
四人が、何もないリビングの中央で円陣を組むように向かい合って、手を繋いだ。
瑞樹、一花、遊、朱音。
そして、朱音と瑞樹の間に、一人分のスペースを空ける。
本当はこのシェアハウスは、五人でスタートするはずだった。
だからこのスペースは、更科雫の場所だ。
「……雫ちゃんもきっと、ずっと一緒にいてくれたと思うんだ」
一花が、空いたスペースを見ながら優しく微笑んだ。
それにつられて、朱音と遊も、ぽっかりと空いたスペースに視線を向けて小さく頷いた。
「……改めて」
瑞樹が、静かに口を開いた。
「……ごめんな、みんな。雫のことお前らのせいにして、復讐しようと酷いことして。それなのに……こんな俺をまだ見捨てないでくれて……本当にありがとう」
三人は、ニコニコと穏やかに笑って返してくれた。
もう言葉はいらない。こうして今もみんなが笑顔で揃っていることが、何よりもの答えだったから。
瑞樹は、そっと目を瞑った。
(雫。お前の死を利用してごめんな。空の上から、なんでそんなことするのって、ずっと怒ってたよな……。忘れないからな、雫。……だから俺たちのこと、これからも見守っててくれ)
瑞樹が心の中で深く懺悔した時。
ふわっと、窓から吹き込んだ春風に乗って、雫の古い家に混じった石鹸のいい匂いがした気がした。
気のせいかもしれない。
綺麗に掃除されたリビングだから、洗剤か何かで、たまたまそんな匂いがしたのかもしれない。
でも。
「……いま……」
朱音が目を丸くして、こちらを見てきた。
一花と遊も、同じく驚いたように空間に視線を向けてきた。
三人も、確かに『何か』を感じたのかもしれない。
「……うっ……」
胸の奥から熱いものが込み上げてきて、瑞樹の目からツーっと一筋の涙が落ちた。
「……ほらね」
一花が満面の笑みで、瑞樹の手をギュッと力強く握った。
四人はしばらく、円陣を組んだまま、泣きながら笑い合った。
***
「じゃあ、最後だし……一人ずつ、お話しよっか」
瑞樹が一人リビングに待機して、順番に二人きりで瑞樹と話をする。
一花が、そんな提案をした。
「ここでみんなと一緒でいいだろ」と瑞樹は照れ隠しで言ったが、どうやら意見は三対一で瑞樹の負けだった。
「じゃあ、言い出しっぺの私が最初で」
一花がそう言うと、朱音と遊はリビングから出て行った。
静かな空間で、一花と二人きり。
お互いに立ったまま、見つめ合う。
春の太陽の光でキラキラと瞳を輝かせ、一花は後ろ手に手を組んでニコッと笑った。
「みーくん」
「一花……」
「まだ私のこと、殺したい?」
悪戯っぽく、一花は口の端を上げた。
冗談じゃない。
そんな感情、もう一ミリもあるわけない。
瑞樹が困ったように眉を下げると、一花はトコトコと近寄ってきて、コトンと瑞樹の胸に頭を預けた。
「ふふっ、意地悪言ってごめんね、みーくん。……はー。本当に、いろいろあったね? すれ違いとか、思い違いとか……でも、全部が終わった今だから言えるのかな。全部、良い思い出だよ」
「良い思い出……か。そう笑顔で言える一花は、本当に強いな」
瑞樹にとっては、後悔ばかりの一年だった。
あの時こうしていればと、考えたらキリがない。
「私が強いのだとしたら、それは間違いなくみーくんのおかげだよ。みーくんに、私は助けられたんだから。……本当の『人を愛する方法』を教えてくれたのは、他の誰でもない、みーくんだよ」
実の父親から性的虐待を受け続けた結果、一花は『性的な接触こそが愛の証だ』と思い込まされていた。
愛されるためなら、誰彼構わず密着し、好きになってもらうためなら簡単に体を差し出す。
そこに違和感も嫌悪感も感じず、当たり前のこととして一花は受け入れてしまっていた。
瑞樹はそんな一花に、体を差し出すことだけが愛じゃないと教え、そして身をもって証明してみせた。
幼馴染たちの輪に一花の手を引いて入れて、純粋な友達としての温かい関係を築いた。
「あの日、みーくんが強引に手を引いてくれて、私を間違った価値観から救ってくれたんだ。……とは言っても、自分が変だなんて、私は全く気付いてなかったけどね」
「相当変だったぞ。今だからこそこの例えが思い浮かぶけど、お酒を出す怪しい夜のお店で働く女の子の接客みたいだったぞ」
小学生に満たない女児が、ベタベタと体を密着させながら、機嫌を取るように話を合わせてきたのだから。
「えー、みーくんそういう店、行ったことあるのー?」
「ない! テレビとか漫画のイメージだ、イメージ!」
慌てて否定する瑞樹に、一花はふふっと笑って瑞樹の胸から頭を離した。
ひまわりのように明るく笑顔を見せた一花は、しかし瞳に浮かべた涙を落とさないように、別れの悲しさを必死に我慢していた。
「……みーくん、ありがとう。本当に、あなたに出会えて良かった! これからも、ずっとずっと大好きだよ!」
「ああ。俺も一花が大好きだ。……何か困ったことがあったら、遠慮なくいつでも頼ってくれていいからな」
瑞樹にとって、一花は大切な家族だ。
幼馴染という肩書きではあるけれど、とっくの間にその関係を越えた存在になってる。
一花は嬉しそうに頷くと、リビングのドアに手を掛け、そして大きく振り向いた。
「じゃ、またね、みーくん!」
「また」
そして一花はリビングを出て、そのまま玄関から出ていった。
母親が待つ、本来の自分の実家へ、帰って行くのだ。
そしてほどなくして、次に入ってきたのは遊だ。
遊は照れくさそうに頭を掻きながら、視線を落としていた。
「……今更、なに照れてんだよ」
男二人で夜通し語り合ったこともあるし、風呂に入ったことだってある。
面と向かって話をするなんて、今更何が照れることがあろうか。
でも、その不器用さが人間っぽい。
他人に期待しなくなって、感情を見せることが苦手だった遊。
だけど今、瑞樹の目の前にいる男は、等身大のただの高校生にしか見えない。
顔がかっこいいくせに、女の子が苦手な、それでいてキザで恥ずかしいことを平気でやれる、不器用な親友。
「はは……。僕にとって別れは、日常というか……なんら違和感のない普通のことだったんだ。寂しいとか、正直思ったことなかった」
小さい頃から両親が取っ替え引っ替え変わって、別れは遊にとって心を閉ざすための日常だった。
だけど。
遊は、見たことないほど大粒の涙を目に浮かべて、瑞樹にそっと、力強く抱きついた。
「……遊……」
「……こんなにも、別れが惜しいと思ったのは初めてだ……。古河っ……! ありがとうっ……! 古河が居てくれたから、僕はまた……人を信じられるようになったっ……!」
強く、遊は抱きついてきた。
男同士の抱擁は瑞樹にとっても少し照れ臭かったけど。
だけど、遊の震える声から気持ちが痛いほど伝わってきて、瑞樹もたまらず涙腺が緩む。
遊は、一花や朱音より重症だと思っていた。
人を信じることを諦めて、誰にも期待しなくなってしまった彼は、ただ呼吸をするだけのロボットのようだったから。
何があっても心が動くようなことはなかった。楽しくても笑わないし、悲しくても泣かない。
そうやって過ぎ去って行く日々は、彼にとって無機質な灰色だった。
だけど今、遊は瑞樹との別れに寂しくて、人間らしく泣いている。
「……俺は、ほんの少し背中を押しただけだ。一歩踏み出す勇気を出したのは、遊、お前だ」
「違うよ」
遊は瑞樹から離れると、袖で乱暴に涙を拭って笑った。
「古河は……ずっと、背中に手を添えて隣を歩いてくれたんだ。ずっとずっと、一番近くで寄り添ってくれた」
「遊……。そう言ってくれるのか……ありがとう」
「ありがとうは僕の台詞だよ。……伝えたいことはこれで伝えられた。じゃあ、またね。古河」
遊はそう言うと、踵を返してリビングを出た。
最後は、朱音だ。
ゆっくりとドアが開かれ、長い金髪を揺らしながら彼女は入ってきた。
もう他に幼馴染たちがいないからなのか、完全に二人きりという状況が、朱音を少しだけ大胆にさせた。
「えいっ!」
「わっ! ちょっ!」
朱音は瑞樹に飛び付いた。
瑞樹はバランスを崩して、後ろにあったソファに尻餅をつくように座り込む。
朱音はそのまま瑞樹の膝に跨って、ギュッと甘えるように首に両手を回した。
「おい、朱音……」
瑞樹はすぐに押し返して離そうとしたが、朱音が鼻を啜ったのを聞いて、その手を止めた。
「グスッ……寂しい……。瑞樹くんと離れるの、やっぱりヤだ……」
目に涙を浮かべながら、彼女はまるで子どものように素直な言葉を紡いだ。
かつての朱音は、ただ悲しくて泣くなんて、こんなものじゃ済まなかった。
実の母親から存在を否定され続けた幼少期。自己肯定感が著しく低く育ってしまった朱音は、自分を酷く過小評価していた。そのくせ自分の居場所は守りたくて、誰かや何かに脅かされそうになると、ヒステリックを起こして暴れていたのだ。
大好きな幼馴染たちと離れ離れになる。
こんな状況、昔の朱音だったら泣き叫び、喚き、部屋中のものを壊して暴れていた。
だけど今の朱音は、ただひたすらに別れに悲観し、静かに涙を流すに収まっている。
「……朱音、今までありがとな」
瑞樹は、朱音の柔らかい頭を優しく撫でる。
「……なんかそれ、一生の別れみたいじゃん」
「違うだろ?」
瑞樹は笑顔で頭を撫で続ける。
朱音はコクンと頷いた。
「あたし、瑞樹くんに出会えて良かった……瑞樹くんを好きになって、良かった。……恋は叶わなかったけど……でも、その悲しさの乗り越え方が、ちゃんとわかったんだ」
瑞樹は朱音をちゃんと振ることで、諦めさせた。どっちつかずの対応を続けてしまっていたけど、結衣と付き合うことになったと、最終的にはきちんと誠意を持って告げたのだ。
瑞樹も、朱音からは沢山のことを学んだ。
恋愛における感情の機微に疎かった瑞樹を、男として成長させてくれたのはまごう事なく朱音だ。
「……気持ちに応えられなくて、ごめんな……」
「ううん。いいの。……あっ、一つだけ聞いても良い?」
朱音は涙を拭いて、小首を傾げた。
「なんだ?」
「……もし、結衣さんと出会ってなかったら……あたしと付き合ってくれてたかな?」
「それは……」
考えたこともなかった。
結衣のいない世界線。その時、俺は朱音と付き合っていたか。
朱音も一花も、家族のような絶対的な存在感であり、それ以外の関係になるなんて考えてもみなかった。
でも、そうだな。
「……わからない。……けど、誰よりもお互いに深く知り合ってる仲だし、気心も知れてるし……お前みたいな子から告白されたら、俺は断れなかったかもな」
「んー、なんだか腑に落ちない答え。……あたし、結構自分でも可愛いと思うのに」
「お前は間違いなく可愛いよ。だから、変な虫が寄ってこないか心配だ」
「えへへ……じゃあ、良い人見つかったら、相談してい?」
「もちろん。俺の面接を通さないと、付き合ったらダメだぞ」
「なにそれ。あたしのお父さん?」
朱音は心底楽しそうに笑うと、瑞樹から降りて瑞樹の手を引いた。
よっと立ち上がり、瑞樹は朱音を見つめた。
「……朱音。俺なんかを好きになってくれて、ありがとう。朱音の気持ちに応えることはできなかったけど、大切な存在であることにはこれからも変わらないから……。だからその……いつでも頼ってくれると嬉しい」
「……うんっ! あたしは前を向いて自分の足で進むから。躓きそうになったり、立ち止まりそうになったら、一番に瑞樹くんを頼るね。ありがとう……これからも、ずっとずっと大好きだよ、瑞樹くん」
涙は晴れて、太陽のように明るく笑う朱音は、そう言うとリビングを出て行った。




