第22話 悠遠(6)
画面のスクロールを止めた瑞樹の口から、「ははっ」と、乾いた笑い声が漏れた。
クリスマスパーティーの日——つまり昨日結衣は小説を消して、死のうとする瑞樹へこのメッセージを残した。
そして死ぬ間際に、約束を破って小説を見ることまで、彼女は見越していた。
なんというタイミング。
そして、結衣には全てバレていた。
瑞樹がまだ死のうとすることを諦めていないことを、彼女は察していたんだろう。
完璧に振る舞ってきたつもりだったけど、結衣はやっぱり騙せなかったみたいだ。
「仕方ないなー」
瑞樹は冷たくなった指先でスマホの画面をタップし、結衣へ感想を打ち込む。
最期の手向だ。
『昨日。朝までした。大好きでした』
瑞樹はそう文字を打って、送信ボタンをタップした。
そして、コトンとフローリングにスマホを投げ出し、瑞樹は首に掛かった黒い革ベルトを両手で強く掴むと、躊躇うことなく、そのまま前方に体重を掛けた。
ギギギ……と、革と金属のバックルが鈍く軋む音が部屋に響き、瞬く間に空気の通り道が塞がれる。
「ヒュッ……」
喉の奥で、行き場のない呼吸が掠れた笛のように鳴った。
視界の端が白く明滅し始める。
もう、少し。
もう少しで。
と。
ドンドンドンドンドンッ!!
突如、静寂を切り裂くように、フローリングの廊下を裸足で駆けるけたたましい足音が鳴り、猛スピードでリビングへと近付いてきた。
そして、ガチャッとレバーハンドルが勢いよく下げられ、蝶番が悲鳴を上げてドアが乱暴に開かれる。支えを失ったベルトがレバーハンドルからすっぽ抜け、瑞樹は無防備な体勢のまま前方の床へとドサリと倒れ込んだ。
「ゴホッ! ゴホゴホッ!」
「瑞樹くんっ!」
涙と酸欠で掠れるぼやけた視界に、グレーのパーカーを着た結衣の姿が飛び込んできた。
彼女は、大きな瞳に大粒の涙をいっぱいに蓄えて、倒れ伏す瑞樹の上に飛び乗って馬乗りになると、瑞樹の首からベルトを剥がした。
そして次の瞬間、瑞樹の頬を思いっきり平手打ちした。
パァン——!
乾いた破裂音が、静かなリビングに痛々しく響き渡る。
「……ぜっ絶対にっ……死なせないっ……!」
「な、なんで……」
瑞樹はゼェゼェと荒く肩で息をしながら、自身に馬乗りになった結衣の顔を呆然と見上げる。
彼女はポロポロととめどなく涙を零しながら不敵に笑うと、震える手で自身のスマホの画面を瑞樹の目の前へと突きつけてきた。
暗い画面の中には、明るいポップアップの通知が表示されていた。
一分前。
『あなたの小説に感想が書かれました』
No name:昨日。朝までした。大好きで……
瑞樹が感想を書いたことで、即座に結衣に通知がいったのだ。
「ギ、ギリセーフ!」
泣きじゃくりながら、結衣は強がって口の端を上げた。
無理に笑おうとして、その可愛い顔がくしゃくしゃに歪んでいる。
ポトポトと、止めどなく溢れる温かい涙の雫が瑞樹のシャツ越しにお腹へと落ちて染みを作っていく。
「結衣……」
結衣は涙を溢れさせながら瑞樹の体から降りると、床に投げ出されていた黒いベルトを素早く手に取り、再びドアのレバーハンドルに引っ掛けた。
そして、躊躇うことなくその輪の部分に自身の細い首を入れて、瑞樹に向かってニコッと笑った。
着せてやったぶかぶかのグレーのパーカーと、彼女の華奢で真っ白な首筋。そこに、先ほどまで瑞樹の首を絞め上げていた醜く黒い革ベルトが巻き付く光景は、あまりにも異様で、瑞樹の脳を恐怖で真っ白に焼き切った。
「辛かったね、瑞樹くん。もう終わりにしよっか。先に私が逝くね?」
そして結衣はパーカーの裾を翻し、迷いなく勢いよく体重を前方へと投げ出した。
「うっ……」
「おいやめろ!」
瑞樹は血の気が引くのを感じながら慌てて体を起こし、力任せに結衣の細い体をドアの方へと乱暴に押し戻した。
結衣が、本当に目の前で死のうとしたのだ。
「なにしてんだよ!」
瑞樹はたまらず、喉が裂けるような大きな怒声をあげる。
全身から一気に冷や汗を滲ませて、床に崩れ落ちた結衣を見下ろした。
結衣は真っ赤に腫らした目頭から涙を散らし、負けじとキッと瑞樹を鋭く睨み返してきた。
「……なっ、なにしてんのはこっちの台詞だ! 言っただろ! 瑞樹くんが死ぬなら、私も死ぬって! 瑞樹くんがっ……瑞樹くんがいない世界にっ……意味なんて……意味なんてないんだよ!!」
「結衣、本気で……」
「本気だよ!! 私を甘く見るな!」
結衣は床を蹴り、再び体重を前にかけて、強引に革ベルトを自身の白い首へと深く食い込ませる。
「やめろ!!」
瑞樹は必死の形相で結衣を強く押し戻し、彼女の首からベルトを強引に引き剥がすと、二度と手が届かないようにリビングのソファの奥深くへと力の限り投げ捨てた。
「なんで……なんでそんなことするんだよ……結衣は、生きろよ……」
わかってる。
瑞樹が言うことじゃないと。
結衣にとっても、同じことだから。
でも、瑞樹は死ななければならない。
自分の犯した罪を、償わなければならない。
結衣は何もしてないんだ。
結衣は死ぬ必要が、ないんだ。
「私も一緒に死ぬよ。瑞樹くんが本気なら、私も死ぬ」
「どうしてっ……」
瑞樹の両目から、せき止めていたものが決壊したようにボロボロと大粒の涙が溢れ出してきた。
そして、とめどなく流れるその涙とともに、瑞樹の中に長い間巣食っていた重く黒い感情の塊も、一緒に洗い流されていくような不思議な感覚に陥る。
結衣の命を懸けた本気が、あまりにも痛いほどに伝わり過ぎた。
「ごめん瑞樹くん。こればっかりは、好きだからとしか言い表せない……だから瑞樹くんを一人では死なせないよ」
結衣が細い腕を伸ばし、震える瑞樹の背中へと回して、そっと優しく抱きしめた。
「ううっ……」
瑞樹は結衣の温かい胸の中で、まるで迷子になった子どものようにしゃくり上げ、声をあげて激しく泣いた。
結衣の本気の思いが伝わり過ぎて、死にたくなくなってしまった。
死ななきゃいけないはずなのに、死んじゃいけないと思ってしまった。
こんなのおかしい。
誰も瑞樹を許してくれるはずがないのに。
のうのうと生きていていいはずがないのに。
瑞樹が、死ぬことを諦めなかった理由は、一つだけ。
幼馴染たちや、かつての最愛の人『雫』ではない。
もっと単純なこと。
それは、溝口だ。
溝口の一家を心中に追い込んだ、最たる原因は、どう考えても瑞樹。
朱音の元彼で、最低な男。
そんな溝口を瑞樹は罠に嵌め、朱音に乱暴した証拠を抑え、それをネットに広めた。
それが原因で溝口の親は仕事も信用も全て失い、一家心中するしかなくなった。
実際は、朱音はそこまで酷いことにはなっていなかったというのに、だ。
だからこれは単純に、瑞樹が溝口家を殺したと同義。
この罪を、償わなければいけなかった。
一日も忘れたことはなかった。
夢にだって出た。
死をもって。
瑞樹の死をもって、償うしかなかったのだ。
「……聞いて、くれるか?」
瑞樹が縋るような涙声で訴えると、結衣は瑞樹の背中を優しく撫でながら。
「うん。教えて?」
涙で濡れた顔に、太陽のように温かく包み込むような笑顔を浮かべて答えた。




