第22話 悠遠(2)
「んー、なんかイマイチだね、瑞樹くん。やっぱり慣れは恐ろしい」
結衣はやれやれと、呆れたように肩をすかして深いため息を吐いた。
「いやいや! 俺の心臓はさっきから爆発寸前なのだが!? お願い、もう許して結衣さん!」
一方の瑞樹は、ベッドの上で脂汗を滲ませて、ぜぇぜぇと息を切らしながら土下座のように首を垂れている。
「えー!? いつものじゃれ合いじゃん!? どうしたの瑞樹くん、大袈裟だよー」
いつもの。
そう言ってしまえば、確かにいつものような戯れでしかなかったかもしれない。
しかし、今の限界ギリギリの瑞樹にとっては、多少のその戯れでさえ、理性を保つのが極めて難しかったのだ。
結衣の持ってきた本から適当なページを捲って、最初に出てきたシチュエーションは『親の目盗んでイタズラ』という名前だった。
リビングのソファに二人で座り、親がキッチンに立っているという設定。そこで親が少し目を離した隙に、女の子の体にイタズラをしようという、スリリングなシチュエーションだった。
当然、このシェアハウスに親は居ないし、それどころか今は完全に二人きりなので、誰の目を盗むことなく余裕で実行出来てしまう。
だから瑞樹と結衣はリビングのソファで、こちょこちょ合戦をしたのだ。
ちなみにこのこちょこちょ合戦は、『親の目盗んでイタズラ』のページの隅に書かれた応用編である。
カラオケボックスで見た『我慢カラオケ』と同じで、この『親の目盗んでイタズラ』のメインも、そもそも高校生の初心な男女が実践するには難易度もハードルも高すぎるアレコレ——親が振り返る直前まで服の下に手を入れるなど——を要求されるのだ。
出来るわけがない。
そんなこんなでこちょこちょ合戦をしばらくした結果、くすぐりに弱い結衣は逃げようとソファの上で動きに動きまくって、その反動で瑞樹は結衣のあんなところやこんなところに、何度も偶然触れてしまったのだ。
この時点で、正直瑞樹は限界が近かった。
そして次は『私の番ね』と結衣が本をペラペラと捲り、ニヤッと悪い笑みを向けて来た。
嫌な予感というか、むしろそれは確信だった。
結衣は瑞樹をベッドの布団の中に無理矢理押し込むと、部屋の明かりを消して、自分もその狭い暗闇の中に入って来たのだ。
『友達がいるのに真横で……』という名前のページ。
要は、修学旅行の夜の女子部屋にいるはずのない男子が紛れ込み、真横で友達が寝ている中、バレないように布団の中に隠れて行為をしちゃうという、背徳感たっぷりのシチュエーションらしい。
これが、本当にダメだった。
当然、最後まで行為に及ぶはずがないので、あくまでも『布団の向こう側に友達がいる』と思い込んだ上でイチャイチャするだけなのだが、これが思った以上に臨場感があったというか、視界が完全に遮られたせいで、二人の体温と吐息だけが異常に強調され、設定に深くのめり込めてしまったのだ。
結衣はニヤニヤしながら、布団の中でギュッと抱きついてきたり、敏感な耳元にわざと熱い息を吹き掛けてきたりする。しかし設定上、声を出したり大きく動いてはいけないと、必死に我慢して耐えるのが瑞樹のドキドキとハラハラの感情を極限まで肥大化させたのだ。
それだけなら、まだしも。
いや、瑞樹としてはそれだけで十分にヤバかったのだが、結衣は更に攻めて来たのだ。
瑞樹の胸板や太ももの内側を、彼パーカーの袖から覗く細い指先で、優しくなぞるように這わせて来たのだ。
際どいラインを、何度も、執拗に。
瑞樹の男の象徴が完全に反応してしまいそうで、これ以上は不可抗力の事故が起きると察し、遂に耐えきれずにギブアップを宣言したのだった。
それなのに、その後の結衣の反応が、やれやれといった具合で、全く動じていなかったのだ。
「……どうしたもこうしたも……結衣は全然なんでもないのな!?」
「そうだねー? まぁ、見慣れない景色だからその点では少しドキドキしたけど、そこまでじゃないかな」
結衣は苦笑いで、ポリポリと指で頬をかく。
そもそもこの本——『現役エロゲライターによる、ドキハラシチュエーション百選』でシチュエーションを再現する意図は、マンネリ化してしまった瑞樹と結衣の関係に無理矢理メスを入れることで、新しいドキドキを生み出そう。そしてその経験を結衣の小説の執筆に活かそう。
そういう意図だ。
なのに、肝心の結衣がこの様子では、あまり意味がない。
しかし。
(忠実に再現するには、流石にハードルが……)
内容が過激すぎて、やろうにも勇気は出ないし、度胸もないのだ。
「……せっかく買ったけど、やっぱりダメかー。エロゲ基準ってのがネックだね。ほぼえっちだもんね」
結衣はパタンと本を閉じると、少しだけ悲しそうに、寂しげに笑った。
「結衣……」
『いつも私がしてあげるばっかで……瑞樹くん、全然私にしてくれないんだもん……!』
つい先日、カラオケボックスで結衣が溢した、あの悲痛な声がフラッシュバックする。
(……そうか。……そうだな)
好き同士だからって、実質的な恋人だからって、必ずしもそういうことを急いでしなきゃいけないとは限らない。
プラトニックなままでも、十分に幸せだ。
そんな言葉は、世間でもよく聞く。
だけどそれは、表裏一体というか。
好きだからこそ、触れたいと思う。
好きだからこそ、相手から触れて欲しいと思う。
そんな生々しい感情も、同じように湧き立つものなんだ。
男だからガツガツしているとか、女なのにはしたないとか、そんな性別なんて関係なくて。
(俺だって……本当は、ずっとしたいと思ってる)
勝手に感情を察するのは傲慢で違うと思うけど、結衣にここまで無理をさせて、過激な本まで持ち出させてしまったのは、きっと瑞樹がいつまで経ってもヘタレで、行動に起こさないからなんだろう。
これをキッカケに、頑張って。
もっと私を求めてよ。
それはきっと、結衣からの不器用なメッセージなんだ。
瑞樹は、結衣の手からパッと本を奪い取った。
びっくりしたように目を丸くする結衣に、瑞樹は真っ直ぐな瞳で言い放った。
「――今から、本気出す」
「……ええっ!?」
覚悟を決める。
もう、大好きな結衣を悲しませたくない。
結衣のあの寂しそうな笑顔を思えば、つまらない恥じらいなんて消せるし、度胸も出る。
いや、出す。男を見せる。
「いいか。次の俺の番で、必ず『メインのシチュエーション』を実行する。ランクダウンバージョンとか、応用編にはもう逃げない」
「……ま、まじ……?」
ぺたんとベッドに座り込んだ結衣は、一気に顔を熱で紅潮させ、ぶかぶかのパーカーの裾をギュッと両手で握りしめた。
今まで見たことのない瑞樹の真剣な表情に、結衣の余裕が完全に崩れ去る。
「大マジだ。……準備はいいか?」
「ちょっ、ちょっと待って……!」
結衣は大慌てで両手を前に突き出し、瑞樹の動きを一旦静止させる。
自身の高まる鼓動をうるさいほどに感じながら、瑞樹はゴクリと生唾を飲み込む。
あまり見ない表情をする結衣。いつもは小悪魔のようにからかってくる彼女が、珍しく本気で狼狽えて、肩を震わせている。
「……いくぞ」
恥ずかしさで視線を逸らしていた結衣と、バチリと目が合う。
彼女は潤んだ瞳で瑞樹を見つめ返し、大きく深呼吸をすると、覚悟を決めたようにコクリと小さく頷いた。
瑞樹は震える手で、勢い良く運命のページを捲った。




