第22話 悠遠
外の凍てつく空気を背にして、瑞樹は結衣と二人でシェアハウスのドアをくぐった。
(……まさか、結衣をうちに呼ぶ日が来るなんてな)
ガチャリと玄関の鍵を閉めながら、瑞樹は少しだけ感傷的な気分になっていた。
ここは、瑞樹が幼馴染たち男女四人と寝食をともにする、特別な一軒家。
各々の両親と結衣を除けば、そもそも誰もこの四人が親元を離れて一緒に暮らしていることなど知らない。世間の目から完全に隔離された、ある意味で絶対の聖域のような場所だ。
そこに今日、クリスマスパーティーの帰りに、結衣が来たのだ。
朱音、一花、遊。
同居人である幼馴染たちは、それぞれ別の友達のところにお泊まりに行っているため、この広い家には二人きり。
いや、むしろ二人きりの今日だからこそ、結衣をうちに呼んだのだ。
玄関でローファーを脱いだ結衣は、「おじゃましまーす」と、物珍しそうにキョロキョロと周りを見回した。
「……おー。ここが、瑞樹くんが幼馴染たちと暮らしてるおうちかー」
「結衣。そのセリフ、相場は玄関じゃなくて、家の外観の全体を見て言うものでは?」
「だって、外は寒すぎて」
結衣は苦笑いで、冷えた自分の腕を抱いて身を縮ませる。
「まあ、そうだな。とりあえずリビングに行こうか。……あ、そこの正面の階段上がると、朱音と一花の女子部屋がある。勝手に行ったら怒られると思いきや、実は出入りは自由だ。……その階段脇の廊下の左手がトイレと風呂。右手の手前が俺の部屋で、奥が遊の部屋な」
玄関からの景色を簡単に紹介して、すぐ脇にあるドアを開け、結衣をリビングへと招き入れる。
「おー、ここがみんなで生活してる共有の空間。……なんか、普通のおうちって感じだね? すごく落ち着く」
結衣の言う通り、確かにシェアハウスと言っても特段変わった作りではない。
広めのリビングには大きなL字のソファとテーブル、壁掛けのテレビがあって、奥のダイニングには四人掛けの食卓テーブルと椅子。キッチンも一般的な対面式だ。
生活感がありつつも綺麗に整頓された、至って普通の空間だ。
「あ、この落ち着くっていうのは、あくまで実家的な意味でね?」
「俺たちオタクが心から休まるのは、四方を推しのグッズに囲まれたカオスな部屋だからな?」
「わかってるねー?」
結衣はふふっと笑って、瑞樹の腕にトンっとくっついた。
「瑞樹くんの部屋、見たい」
「オタク感ゼロだけど、どうぞ」
リビングから廊下へ移動して、瑞樹の自室のドアを開ける。
瑞樹の部屋は六畳ほどで、寝るためのベッドと、PCを置いたデスクに、お気持ち程度の漫画が揃えられた小さな本棚があるだけだ。
入居した当初、幼馴染たちには自分がオタクであることを隠していたため、タペストリーやポスターなどは一切飾っておらず、必然的に殺風景な部屋になってしまっているのだ。
結衣は床に自分の鞄を置くと、巻いていたマフラーとダッフルコートを脱ぐ。瑞樹がそれを受け取ってハンガーにかけた。
その時、ふわっと結衣の甘いシャンプーの香りがした。
「あ、この部屋、瑞樹くんの匂いするー」
すぅーと、結衣が目を閉じて深呼吸する。
「……おい、本腰入れて嗅ぐな」
「瑞樹くんだって、クンクンしてたくせに」
「してっ……いや、したかも」
「ふふっ」
結衣は悪戯っぽく笑って、瑞樹のベッドの端にちょこんと座る。
瑞樹は苦笑いで衣裳ケースの引き出しを漁り、自分が普段着ている適当なスウェットのズボンとTシャツを取り出した。
急に泊まることになったから、当然結衣の着替えや寝巻きはなにもない。結衣は小さいからどれでも着用出来そうだが、さすがにオーバーサイズ過ぎないだろうか。
瑞樹がどうしようかと迷っていると、結衣がベッドから声をかけてきた。
「ねえ瑞樹くん。お風呂、貸してくれるの?」
「当たり前だろ。お湯も張るから、あったまった方がいい」
「そか。ありがとう。……一緒に入る?」
ニヤニヤと悪い笑みを見せてからかってくる結衣。
本当に、隙あらば攻めてくる奴だ。
「……入りません」
「えー。せっかく、背中とか流してあげようと思ったのに」
「『とか』ってなんだ、『とか』って。……背中以外にどこを流す気なんだ」
「そりゃあ……前、とか?」
「直接的!!」
瑞樹は顔を赤くして、スウェットのズボンとTシャツ、それと念の為にと大きめのパーカーを出して、結衣にバンッと押し付けた。
「……着替え、それでいいか?」
「うん。ありがとう」
嬉しそうに頷く結衣に、瑞樹は「風呂の準備するから待ってて」と告げ、逃げるように部屋を出た。
そして風呂場に移動して、自動のお湯張りのボタンを押す。
『お湯張りを開始します』と機械的なアナウンスが流れて、温かい湯気とともに浴槽にお湯が流れ始めた。
瑞樹は、脱衣所の床にドンっと座り込み、頭を抱えた。
(ヤバいヤバいヤバいヤバい……!!)
結衣のコートとマフラーから彼女の匂いを感じた時から、瑞樹の心臓は変な高鳴りを始めてしまっていた。
結衣の家でのお泊まりなんて、もはや日常だ。
今更、同じベッドで寝ることに照れも恥ずかしさもなにもないはずだ。
なのに。意味のわからない緊張感が、瑞樹の中に渦巻いてしまっていた。
自分の家だから?
自分がいつも寝起きしているパーソナルスペースに、彼女がいるから?
それとも、朱音や一花や遊と暮らす共有の空間に、本来交わるはずのない結衣がいるという非日常感から?
理由はどうあれ、とにかく、今まで感じたことのない背徳的な感情が存在していることだけはわかった。
瑞樹は洗面所の蛇口を捻り、冷たい水を勢いよく顔にパシャパシャと浴びせる。
強引に熱を冷まし、冷静になろうと試みたのだ。
「……はぁ……」
今日だけは、同じベッドで一緒に寝たらダメな気がした。
***
先にお風呂に入ったのは、瑞樹の方だった。
お湯が溜まって、結衣に「お先にどーぞ」と譲ったけど、彼女は「後が良い」と言うもんだから、仕方なく瑞樹が一番風呂をいただいたのだ。
温かいお湯に浸かったところで、もしかして結衣はシャワールームに乱入して来る気なのでは? と気付いて、瑞樹は気が気じゃなかったけど、結局そうはならなかった。
常に浴室のすりガラスのドアの向こう側に意識を向けていたせいで、疲れなんて取れるどころか、変に緊張して疲労が増してしまった。
風呂から上がった瑞樹は、一人ベッドの上で仰向けに横になり、デスクの奥に隠してあったグロテスク要素満載の漫画を読んでいた。
ドア越しに微かに聞こえてくるシャワーの水音と、結衣の上機嫌な鼻歌を掻き消すために、自らの邪念ごと物理的に振り払おうとする瑞樹の涙ぐましい努力だ。
高校生が主人公の、残忍なデスゲーム殺人漫画。
ストーリーは正直微塵も面白くないし全く頭に入ってこないけど、とにかくグロ描写と絶望感が秀逸で、瑞樹のピンク色の頭の中を上書きして埋めるにはちょうど良かった。
気付けば二冊を読み終え、完全にいつもの平常心を取り戻した瑞樹は、三冊目を取りにデスクへ向かって立ち上がった。
――その時。
ガチャッ。
瑞樹の部屋のドアが開けられ、風呂上がりの結衣が戻ってきた。
「……ぐあっ……!! なんだ、その恰好は……!?」
そこには、瑞樹の今までの涙ぐましい努力をすべて水の泡にする、扇情的で破壊力抜群の結衣の姿があったのだ。
「へへ。瑞樹くんのパーカーおっきいから、これが出来ると思って。……どう?」
「どう、って……」
結衣は、念の為にと渡したグレーのパーカーだけを着て出てきたのだ。
パーカーはあくまで上に羽織る防寒着として渡したのに、あろうことか結衣は、下に渡したスウェットのズボンもTシャツも着ないで、パーカーだけをすっぽりと着てきたのだ。
瑞樹のサイズだから全体的にぶかぶかで、両手の先は完全に隠れている。そして何より問題なのは、長めの裾から、細くて白い生脚がスラリと伸びていることだ。
制服のスカートより遥かに上の位置で肌と布との絶対領域が存在しており、少し動けば見えてしまいそうだ。
風呂上がりの火照った肌と、瑞樹の家のシャンプーの匂いが相まって、破壊力は計り知れない。
「彼シャツ的な? 彼パーカー。……ドキッとする?」
これも小説のネタにする気なのだろうか。
結衣は少しも悪びれた様子もなく、純粋で無邪気な笑顔で訊いてくる。
「ドキッとどころじゃない! 狼どころか、飼い慣らされた仔犬でも余裕で襲ってるレベルだぞ! ……おい、今日は下はちゃんと履いてるんだろうな!?」
「は、履いてるしっ!」
結衣は、前回のお泊まりのことを蒸し返されてやっと恥ずかしくなったのか、少し頬を赤らめて股下を隠すようにパーカーの裾をギュッと両手で握りしめた。
「……心臓に悪すぎる。まったく……」
冷や汗を浮かべた瑞樹が、手に持っていたグロ漫画をデスクの引き出しに仕舞おうとした時、結衣がひょいと隣に寄って来ると、瑞樹の腕に体を密着させて、引き出しの中を覗き込んできた。
「……何、読んでたの?」
ムギュっと、パーカー越しの結衣の柔らかい感触を腕に感じる。
朱音や一花の髪から香る、この家の同じシャンプーの匂いが、いつもと違う結衣の匂いとしてふわっと鼻を抜ける。
「……グロ漫画」
「うぇ……。暇つぶしにそれ? しかも、本棚じゃなくて机の中に隠してるんだ?」
「間違って一花が読んだら、大惨事になるからな」
朱音はホラー系は大丈夫だけど、一花は代の苦手な分野で、夜一人でトイレに行けなくなるほどだ。
瑞樹なりに気を遣った配慮の結果、一番奥の引き出しに隠すことにしている。
「ふーん……」
結衣は、何故か不満そうに意味深に呟き、ギュッと更に腕にくっついてきた。
「……なあ、結衣?」
瑞樹は、恐る恐る傍でくっついてくる結衣に視線を向ける。
結衣は、コテっと小首を可愛く傾げた。
「今日はそのままの恰好でいるつもりか?」
「うん」
「……い、一緒に、寝るつもりか?」
「寝る」
「うっ……」
本当にヤバい。
大丈夫だろうか。
理性を保てる自信が、本当に一ミリもない。
そんな瑞樹の深刻な心配を他所に、結衣はニコニコと小悪魔のように笑うと、これまた恐ろしい提案をしてきた。
「……ねえ、瑞樹くん。アレ、やろうよ」
「……アレ?」
結衣は瑞樹から離れると、自分の鞄をゴソゴソと探り、一冊の本を取り出した。
その本の表紙を、ニヤッとしながら見せつけてくる結衣。
『現役エロゲライターによる、ドキハラシチュエーション百選』
「え、なに、結衣。お前、それ……いつも持ち歩いてるのか!?」
彼女は少しだけ頬を紅潮させ、瑞樹の反応を面白がるように、しかしどこか今夜は絶対に逃さないという肉食獣のような本気の光を瞳に宿して。
「もちろんだよ。お守り代わり」
結衣は小悪魔的な笑みを貼り付けて、妖しく言う。
いや、今はそんなことどうでもよかった。
この状況、彼パーカーを着たこの無防備な結衣を目の前に、エロゲライターが考えた『ドキドキハラハラするシチュエーション』を再現するなんて、今の限界を迎えている瑞樹にとっては、完全なる自殺行為に近かった。
正気でいられる自信がない。
そしてやっぱり結衣は、瑞樹の心配や不安には全く意に介さず、とびきり可愛い笑顔で本を手渡してきた。
「はい。……グロはないけどっ」




