第20話 清算(5)
「――俺は、嫌です」
静まり返った座敷の個室に、瑞樹の低く、しかし確かな拒絶の声が響いた。
その明確な反対の言葉に、三人の母親たちは予想外のものを見るように、驚いた様子で瑞樹を見つめ返してきた。
「……どうして? その理由が聞きたいわ」
一花の母親から静かに問われ、瑞樹は膝の上に置いた拳をギュッと握りしめて答える。
「今のあいつらは、先ほども言ったように本当に普通の高校生です。とても他人と違う性質があるとは、思えません。……だけど、それは今だけの……環境が守られているからこその、一時的なものである可能性も捨てきれません」
「それは……わかるわ。でも、瑞樹くん。じゃあそれが一時的なのかそうじゃないのかは、この先誰が、どうやって判断するの?」
一花の母親が言う通り、確かにそこに明確な判断基準があるわけではない。瑞樹が言うように一時的の可能性を盾にしてしまうと、この先何年経っても「また不安定になるかもしれないから親元に返すのはダメだ」という、永遠の囲い込みの話になってしまう。
瑞樹の言い分は、論理的に完全に破綻していた。
瑞樹が言葉に詰まると、追撃をかけるように遊の母親も口を開いた。
「それにね、古河くんの負担も考慮しての提案なの。私たち親がやらなければいけないことを、まだ高校生のあなた一人に全部任せて負担をかけているのは……やっぱりどうしても、親として気が引けてしまうのよ」
「……それは、今更ですよ。それに前にも言いましたけど、俺はあいつらの世話をそれほど負担には感じてませんし。……そこの責任論を今考えるのであれば、そもそもこのシェアハウスは最初からやらないべきでした」
瑞樹のハッキリとした冷たい物言いに、遊の母親はハッとして顔を伏せてしまった。
(……ずるい言い分だな)
自分でもわかっていた。そもそも論を持ち出して相手の過去の過ちを突けば、議論はそこで止まってしまうからだ。
重苦しい沈黙の中、朱音の母親が優しい笑みで、しかし覚悟を決めた母親としての強い瞳で瑞樹を真っ直ぐに見つめた。
「……瑞樹くん。私たちはね……娘と、息子と、また一緒に一つ屋根の下で暮らしたいと、そう心から思ってるの。少し前まではそれが難しかったけど、今なら出来る。……そう考えて、この提案をしてるのよ」
それを言われたら、正直ただの幼馴染にすぎない瑞樹がそれを止める権利など、日本の法律はおろか、道義的にもどこにもない。
親と子が一緒に暮らしたいという純粋なその思いを、他人が止められるはずがなかった。
しかし、瑞樹は引かなかった。
いや、引けなかった。
「……都合が、良すぎると思います」
下手したら大喧嘩になる。
そう頭の片隅で冷静に警告音が鳴り響きながらも、瑞樹の口は止まらなかった。
「……手に負えなくなったら俺に任せて、なんとかなりそうに回復したらまた返せ……。俺には、そう言っているようにしか思えませんよ。そもそも――」
止まらなかった。
これ以上はやめろ。関係が壊れるぞと心の中では思っているはずなのに、喉の奥から込み上げる黒い感情が、無理矢理に言葉を紡がせた。
母親たちの顔から、次第に柔らかな笑顔が消え、血の気が引いていくのがわかる。
でも、止まらなかった。
「――そもそも、朱音や一花、遊があんなになってしまったのは、あなたたち大人がだらしなかったからじゃないですか。絶対に守らなきゃいけないはずの親が、あいつらの心に一生残る傷をつけたんですよ。……わかってますか? たとえ今更改心しようが、罪悪感で涙を流そうが、優しさで上書きしようが……一度抉られた傷跡は、一生消えないんですよ」
直接的な精神的虐待の加害者だったけど、改心した朱音の母親。
見て見ぬふりをして助けるのが遅れてしまい、後悔に苛まれ続けている一花の母親。
今までの無責任な親とは違って、真っ直ぐに愛を注ごうとしている遊の義理の母親。
三人は、瑞樹の刃のような言葉を浴びて、完全に何も言えなくなってしまった。
それはそうだ。
彼女たちが心の奥底に抱え続けている罪悪感と無力感、その一番脆い部分に容赦なくつけこんだ言葉なのだから。
彼女たちが自分を責めていれば責めているほど、瑞樹のこの暴論に反論出来るはずがなかった。
ただ、瑞樹がこれだけシェアハウスを辞めるという判断を渋っているのは、単に寂しいからとか、親たちが都合が良すぎるからムカつくとか、そんな薄っぺらい感情からではなかった。
「……俺にとって、あの三人は……家族なんです。おこがましいかもしれませんが、正直、あなたたち実の親より、彼らを大切に思っているという確かな自負があります。だから……あいつらの人生を左右することには、少し慎重になってます。……言い過ぎました。ごめんなさい……」
母親たちは息を呑む。
そして、怒るどころか、どこまでも悲しそうな顔で、頭を下げる瑞樹を見つめた。
「……別に、あなたたちの愛情を疑っているわけじゃないんです。ただ、俺が胸を張ってもう大丈夫だとあいつらを送り出せるほど、まだあなたたちを信じられないというだけです」
「……そう、よね」
朱音の母親が、今にも泣き出しそうな面持ちで、震える声で俯いた。
(……どの立場で、偉そうに語ってんだよ、俺は)
瑞樹は自身を酷く嫌悪する。
でも、どうしようもないほど、これが拭いきれない本心だった。
朱音を家に返したら、また母親から酷い言葉を掛けられるのではないか。
一花を家に返したら、また窮地に陥った時に見て見ぬふりをされるのではないか。
遊を家に返したら、また大人に裏切られるのではないか。
そんな最悪の妄想が、どうしても頭をよぎってしまう。そして、そんなこと絶対にないだろうと心の底から思えるほどの信用が、まだこの両親たちにはなかったのだ。
朱音、一花、遊が、自分の命よりも大事だからこそ、瑞樹は親に対して出過ぎたマネをしてしまっていた。
「……でも」
でも、やっぱり自分の中の正義や不安だけを押し付けて、彼らから本来の家族の時間を奪うのは、やり過ぎだとわかっている。
瑞樹の落とし所は、ここだった。
「すみません……。感情的になっていろいろ言ってしまいましたが。俺は、今すぐ同居を解消するのは、まだ早すぎる、という風に思ってます。……なので、せめて一年生の間は、このまま続けさせてください」
瑞樹は座布団の上で深く頭を下げた。
「お願いします。それまでに俺も、心の整理をつけます。……あいつらは俺にとって、もう、ただの幼馴染じゃ、ないんです。だから……もう少しだけ、俺に猶予をください。お願いします」
その瑞樹の絞り出すような懇願を聞いて、母親たちは顔を合わし、そして静かに、深く頷いた。
最初に声を上げたのは、一花の母親だった。
「……顔を上げて、瑞樹くん」
瑞樹がゆっくりと顔を上げると、一花の母親は少し悲しそうに、けれど慈愛に満ちた顔で笑い、そして瑞樹に向かって深く頭を下げた。
「私たちこそ、ずるいことしてごめんなさい。こんなところで、親の権利だけを主張するのは、ダメね。……深く反省してます」
続いて、遊の母親も頭を下げる。
「厄介な問題を押し付けたくせに、良くなったら突然返せは……うん……都合が良くて、間違ってるわね。ごめんなさい、古河くん」
そして、朱音の母親が、涙ぐんだ瞳で瑞樹を真っ直ぐに見つめた。
「瑞樹くんが、朱音たちのそばにいてくれて、本当に良かったと……今改めて、心から思ったわ。小さい頃からあの子たちに出会ってくれて、ずっと見捨てないで諦めないでくれて……本当に、ありがとう。瑞樹くん……!」
こうして。
毎度のことながらヒリヒリとした異様な報告会は、幕を閉じた。
お互いに心の奥底にある言いたいことは言い合って。その上でシェアハウスの終わりは、当初予定していた高校の三年間より遥かに短い、二年生になる春までと明確に改められた。
これでいい。
これで、あいつらは本来の家族の形に戻ることができる。
朱音たちがどう思うかは、家に帰ってこの決定を伝えてからじゃないとわからないけど、きっと今のあいつらなら前を向いて受け入れてくれるはずだ。
それくらいの心の強さを、彼女たちはこの半年間で確実に身につけているはずなのだから。
だから、これでいい。
「それじゃあ、これで」
瑞樹は、家まで車で送ると言ってくれた遊の母親の申し出を丁重に断り、一人徒歩でシェアハウスへの帰路につくことにした。
居酒屋の暖簾をくぐり外に出ると、深夜の街には刺すような冷たい冬の風が吹いていた。
ふう、と吐き出した息は白く濁り、あっという間に真っ暗な夜空に溶けて消えていく。
瑞樹は、星一つ見えない濁った冬の夜空を見上げ、近くの幹線道路を行き交う車の無機質な走行音をBGMにしながら、誰にも聞こえないように。
小さく、本当に小さく、呟いた。
「――これで、死ねる」
その独白は、冷たい風に攫われ、誰の耳にも届くことなく夜の闇へと消えていった。




