第20話 清算(3)
幸いだったのは、誰もパニックを起こして叫び出したりしなかったことだ。
急な暗闇と密室という恐怖よりも、あまりにも異常な密着状態による緊張感の方が勝っていたのかもしれない。誰もが息を潜め、暗闇の中で事態が動くのを静かに待つ態勢が出来ていた。
だから、瑞樹は比較的冷静に、的確な指示を出すことができた。
「……とりあえず、誰かボタン押せるか?」
大分古いエレベーターだから、最新式のように緊急時に最寄りの階に自動で移動してドアが開くなんて気の利いた機能はついていないだろう。ならばと、暗闇の中で出来そうなことはやってみることにした。
しかし、無反応だった。
「ダメ。……全部の階のボタン押しても、ランプすら点かない」
操作パネルに一番近い位置にいたはずの南那は瑞樹に背を向けて挟まれているため、腕が動かせない。体勢的に瑞樹も全く手が届かず、結局、正面にいる二ノ宮が動くしかなかった。
彼女は「んっ……」と恥ずかしそうに声を漏らしながら、瑞樹の胸に自分の柔らかい体をぴったりと擦り付けるように密着させ、暗闇の中で手探りでどうにか手を伸ばしたのだ。
しかし、ボタンを全て押しても何も起こらず。頼みの綱である緊急用のインターホンのボタンに至っては、何故か黄色く変色したガムテープでガチガチにバツ印に貼られており、物理的に押せなくなっていた。
「……最悪。ただ無駄に恥ずかしい思いしただけじゃない……っ!」
スマホのライトの明かりを頼りに状況を確認し、二ノ宮が涙目で顔を真っ赤にして抗議する。
じゃあ次は電話だ、となり、一番身動きの取りやすかった南那が、さっきまでいた三階の純喫茶に連絡を入れた。
その結果、喫茶店の店主がビルの管理会社と緊急のコールセンターに連絡を入れてくれることになり、復旧までこの暗闇の密室で、しばらく待機することになってしまった。
「いやー……ごめんね、みんな……」
スマホのライトを消し、再び暗闇に戻った箱の中で、南那が背中越しに申し訳なさげに謝る。瑞樹はすぐに答えた。
「止まったのは地震のせいなんだから、南那が気にするな」
しかし南那は気まずそうに、「いや、そこは私も仕方ないと思ってるんだけど……そうじゃなくて……」と歯切れ悪く呟いた。
他に何が、と瑞樹は一瞬疑問に思ったが、その理由は自身の体に伝わる感触で嫌でもすぐに理解できた。
瑞樹の左胸に顔を埋める二ノ宮が、そして瑞樹の右腕を全身で包み込むように抱え込んでいる六花が。
二人して、極限まで顔を赤くし、涙目でこちらを睨みつけるように見つめてきていたのだ。
彼女たちは今、瑞樹が少しでも体を動かそうものなら、恥ずかしさのあまり全力で殴りにかかってくるような、そんな張り詰めた状態にある。
「わ、悪い……ちょっと体勢変えようと思ったけど、足は……引き抜けそうにっ……ない」
「やっ……! ち、ちょっと……動かさないでってば……! バカ……っ!」
二ノ宮の細い太ももの間、その一番奥深くまで入り込んでしまっている瑞樹の左足。
瑞樹が少しでも足を引こうと筋肉を動かしただけで、布越しにダイレクトな摩擦が生じる。それに耐えきれなくなった二ノ宮は、これ以上動かせないように瑞樹の太ももを自分の両足でギュッと強く挟み込み、暗闇の中でキッと睨みつけてきた。
「ご、ごめん! 六花は……手なら上に引き抜けそうだけど、動かしていいか?」
「いやっ……! も、もう、これ以上……無理に動かさないで……瑞樹くん……」
六花の柔らかい股の間に入り込んでしまっている瑞樹の右手を、彼女は震える両手でギュッと掴んで、絶対に離そうとしない。
引き抜こうとすれば、瑞樹の手の甲が彼女のデリケートな部分を強く擦り上げてしまうことを、六花は本能で理解しているのだ。
鬼気迫る状況の二人に、瑞樹の額からドッと冷や汗が滲み落ちる。
背中からは南那の豊かな胸の感触が押し付けられており、本当に逃げ場がない。
これは、絶対にダメな状況だ。
でもあまりにも密着しすぎて、四人が知恵の輪のように絡み合っており、本当にどうしようも出来ない。
(ごめん、結衣っ……!)
この場にいない彼女への強烈な罪悪感と、目の前で限界を迎えている二ノ宮と六花への罪悪感が、同時に瑞樹の理性を激しく揺さぶる。
換気扇も止まった狭いエレベーター内の温度が、四人の体温で急激に上昇していく。暗闇の中、甘いシャンプーや香水の匂いが濃密に混ざり合い、息が詰まりそうになる。
「……ハァ……ハァ……」
「んっ……ハッ……」
いつの間にか、胸に顔を埋める二ノ宮の呼吸が荒くなってきて、更には右手をホールドしている六花が、耐えきれないように甘い吐息を漏らし始めた。
「――っ!」
瑞樹はギュッと強く目を瞑り、奥歯を噛み締める。
左足が、右手が、彼女たちの無意識の震えに合わせて、ぐりぐりと微かに動いている気もする。その度に伝わってくる生々しい柔らかさと熱に、瑞樹は『何も起きていない。俺は石だ』と、必死に心を無に帰す。
(早く! 早く動けエレベーター……!!)
瑞樹の切実な祈りが通じたのか。
それから永遠にも似た数分の後、ガコンという音と共に照明が点き、『見ないで!』と二ノ宮が慌てて顔を伏せ、明るくなった密室に、先ほどまでの暗闇以上の致死量の気まずさが充満した。
エレベーターはゆっくりと一階へと降りていった。
***
雑居ビルを出ると、外ではいつもの平穏な日常が送られていた。
やはり地震はそれほど大きなものではなかったのだろう。
完全に暗くなった冬の空の下、部活帰りの学生や会社帰りの大人たちが、何事も無かったかのように白い息を吐きながら駅を出入りしている。
しかし、数分間エレベーターの暗闇に閉じ込められていた高校生四人は、とても何事もなかったとは言えない、異様な雰囲気を醸し出していた。
全員が全員、冬の寒空の下だというのに茹でダコのように顔を真っ赤に火照らせ、肩で息をしている。
「……っはー! 死ぬかと思ったけど、ある意味、最高に良い思い出になったね!」
「なってないわよ!!」
新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ南那が一人だけ明るくケロッと言い放つと、間髪入れずに、まだ足元がおぼつかない真っ赤な顔の二ノ宮が、涙声で鋭くツッコミを入れた。
しかし、その勢いとは裏腹に、二ノ宮の体はまだ微かに震えていた。瑞樹と不意に視線が交差すると、彼女はビクッと小さく肩を跳ねさせ、すぐに俯いてマフラーに顔の半分を埋めてしまう。
街灯に照らされたその耳の先は、寒さのせいではなく、明らかに先程の密室での熱を引きずって真っ赤に染まっていた。瑞樹の左足が入り込んでいた太ももを庇うように、モジモジと内股になっているその姿は、普段の強気な彼女からは想像もつかないほど女の子らしくて、瑞樹の心臓を不本意にドキリと跳ねさせた。
「……そ、そうだよ。ほんとにもう……」
隣に立つ六花も、まだ足元がおぼつかないのか、わずかに上擦った声で同意した。
瑞樹の右手をギュッと抱きしめていた彼女は、自身の熱い吐息を思い出したのか、両手で火照った頬をパタパタと仰いでいる。潤んだ瞳がチラリと瑞樹の方を向き、またすぐに逸らされる。
二ノ宮も六花も、男としての瑞樹の体温と感触を直接味わってしまったせいで、まともに顔を見られない状態に陥っていた。
(……俺だって、顔から火が出そうなんだが……)
瑞樹は、いまだに両手に残る彼女たちの柔らかい感触と濃密な甘い匂いの残香を振り払うように、ギュッと拳を握りしめて冷たい冬の空気を吸い込んだ。
そんな気まずさの極致にある三人の空気を、ことの発端となる南那が、パンッと柏手を打って吹き飛ばした。
「はいっ! というわけで、これにて本当に終了! 気まずいのでお別れは嫌だから、笑ってバイバイしたいな!」
南那は、ニシシと悪戯っぽく笑いながら、駅へと続く横断歩道の手前で振り返った。
その声に促されるように、二ノ宮と六花も顔を上げ、瑞樹に向き直る。
冬の冷たい風が吹き抜け、彼女たちの髪やマフラーを揺らす。
先程までのドタバタした空気が嘘のように、三人の表情からは憑き物が落ちたような、どこか清々しい爽やかさが漂っていた。
「……瑞樹くん」
最初に口を開いたのは、六花だった。
彼女はまだ少し頬を赤らめていたが、瑞樹を真っ直ぐに見つめ、優しく微笑んだ。
「今日は……聞きたくない話を聞いてくれてありがとう。……少しだけだったけど、瑞樹くんのこと、本気でいいなって思えたのは本当だから。……お幸せにね。学校では普通に声かけてよね」
「……ああ。ありがとう、六花」
続いて、二ノ宮がマフラーから口元を出し、ツンと少しだけ顎を上げた。
しかし、その瞳はどこか優しく、柔らかな光を帯びている。
「……ちゃんと伝えて偉かったね……今日の私たちが言えることじゃないけど……彼女、泣かせるんじゃないわよ?」
「……肝に銘じるよ、二ノ宮」
最後に、南那が一歩前に出て、瑞樹の顔を下から覗き込むようにしてニッコリと笑った。
初めて声を掛けてきた時のような、真っ直ぐで眩しい笑顔だった。
「一目惚れした男の子が、こんなに誠実で、ちょっと鈍感で、でもすっごく優しい人で良かった! ……私の初恋、短い期間だったけど楽しかったよ。瑞樹くん、ありがとう! バイバイ!」
「……南那、ありがとう。気を付けて帰れよ」
三人の女の子たちは、瑞樹の言葉にそれぞれの笑顔で頷き返すと、くるりと背を向けて、それぞれの帰路へと歩き出した。
南那が大きく手を振り、六花が振り返って小さく手を振り返し、二ノ宮が一度だけ立ち止まってチラリと視線を投げてから、街の喧騒の向こうへと消えていく。
瑞樹は、大きく、深く息を吐き出した。
心の中にあったモヤモヤとした罪悪感は、彼女たちの笑顔のおかげで、スッキリと晴れ渡っていた。
冷たい冬の風が、火照った頬を撫でていく。




