第19話 秋空(9)
「ゲーム?」
瑞樹が息を呑んで訊ねると、結衣は暗闇の中でもわかるほど、ニヤッと小悪魔のように口角を上げた。
またろくでもないことを考えているに違いない。だが、これに付き合うことで結衣の機嫌が直るなら、いくらでも付き合う覚悟はあった。
それに、瑞樹としても何か別のことに意識を集中させなければ、隣から絶え間なく響いてくる生々しい声のせいで、あっという間に理性が崩壊しそうだったのも事実だ。
不安を抱きつつ結衣の顔を見つめ返していると、彼女はベッドの上でゆっくりと上体を起こし、そのまま瑞樹のお腹を跨ぐようにして馬乗りの形になった。
「――っ!」
旅館の浴衣というのは、ただでさえはだけやすい。
瑞樹の太ももを挟み込むように曲げられた結衣の膝から、スラリと伸びた真っ白な素足が露わになっている。さらに、前屈みになったことで襟元がだらしなく緩み、華奢な鎖骨から滑らかな肩のラインにかけて、思わず目を逸らしたくなるほどイヤらしくはだけてしまっていた。
暗い部屋の中、窓から差し込む僅かな光に照らされたその姿は、いけないところが全て見えてしまいそうなほど無防備だ。
「おい……ッ! 既にゲームが始まってるとか言わないよな!? 今のお前、エロ過ぎるぞ!」
瑞樹が隣の部屋に聞こえないよう、押し殺した囁き声で必死に訴えると。結衣は「あっ」と小さく声を上げ、照れくさそうに慌てて浴衣の襟元を正した。
「ごめんごめん。無自覚に私の色っぽさが爆発しちゃったみたい。……じゃあ、ルール説明ね」
「淡々としてる!」
結衣は、顔の熱を誤魔化すようにニヤニヤとしながら説明を始めた。
「ルールは一つ。瑞樹くんは『私の口にキスしたらダメ』。それだけです」
「なんだか聞いたことあるぞ、その理不尽な我慢選手権」
「あ、大丈夫。私は瑞樹くんをキスに誘うような、あざといことは何もしないから。するのは瑞樹くんだけ」
「ん? どういうことだ?」
瑞樹が意味がわからず訊ねると、結衣は少しだけ言い淀むような躊躇を見せた後に、思い切ったように答えた。
「これは、私の純粋な好奇心もあるんだけど……。ゴホン。えっと、瑞樹くんにはこれから、私を襲ってもらいます」
「…………ま、まあ、聞こうか」
ツッコミたいことは山ほどあるが、まずは最後まで聞くことにした。
「それに対して、私は本気で嫌がります。マジで全力で嫌がります。だけど瑞樹くんは、それに怯まず本気で襲いにきてもらいます。だけどその際、瑞樹くんはキスだけはしちゃいけません。……何故なら、私たちは『ただの友達』だからです。友達なのに雰囲気に当てられて、歯止めが効かなくなって無理矢理襲っちゃった……っていう設定ね」
「なんだそのマニアックな被虐嗜好! 結衣にそんなドMな趣味があったなんて知らなかったぞ!」
「好奇心だよ、好奇心! 少女漫画とか見てて、一度やってみたかっただけ! ねえ、やってみようよ! きっと瑞樹くん、このシチュエーション大好きだと思うんだ」
そんなこと考えたこともなかったから、正直自分の好みに刺さるかどうかはわからない。
ただ、本気で嫌がる結衣を無理矢理押し倒すというシチュエーションは、どう考えても心が痛んで出来る気がしない。
ましてや、それを『大好きだと思う』なんて、結衣は何をどう評価しているんだ。
そして話を聞いても、いまいちまだピンときていない。
これはゲームなのか?
キスしたくなる要素なんてあるのか?
絶対ないだろ。
「まぁ、習うより慣れろだね。瑞樹くん、ポジション交代しよ」
そう言うと、結衣は瑞樹の上からどいてベッドに仰向けになり、立てた膝を少しだけ開いた。
「上に来て。足の間に入っていいから」
「……」
瑞樹は言われた通り、戸惑いながらも四つん這いになり位置取る。
グイッと結衣の股の間に身を沈めると、またしても浴衣の裾がハラリと捲れそうになって、結衣が「ひゃっ」と慌てて片手で生地を押さえた。
「……見えちゃうから、もっと上まできてよ」
結衣が恥ずかしそうに目を潤ませ、空いた片手で瑞樹の腕をグイッと引っ張る。
「ちょっ――」
ドンっ、と。
バランスを崩した瑞樹は、結衣の顔の横、シーツの上に両手をついた。
必然的に、顔と顔の距離が十センチほどにまで縮まる。結衣を見下ろし、完全に体重を被せるこの体勢は、確かに女性を襲う図そのものだった。
下から見上げてくる結衣の瞳が、暗闇の中で妖しく光っている。
「……俺が無理矢理襲って、結衣が全力で嫌がる。そして俺はその最中に、キスをしてはいけない。……それでいいんだな?」
「うん。我慢できるかなー?」
「余裕だろ。むしろ、結衣に全力で嫌がられたら、俺は絶対ショックで冷静マンになるぞ」
「ふーん? じゃ、スタートね」
ニヤッと結衣は不敵に笑うと、瞬きをひとつして、急に感情を消したような、冷たいジト目で瑞樹を見つめてきた。
――演技、スタート。
「……瑞樹くん、なに? いきなりベッドに押し倒して、何する気なの?」
ジトーっとした非難の視線に、どことなく心の距離を感じる冷え切った声色。
初めて出会った時でさえ、彼女はもっとフレンドリーだったはずだ。結衣から向けられたことのないその拒絶の雰囲気に、瑞樹は思わずチクリと胸が痛んでしまったが、とりあえずルールに従って演技を続けることに専念する。
「なにって……決まってんだろ。誘ったのは、お前の方だろ」
「イヤ。誘ってなんかない。……私たち、ただの友達じゃん。どいてよ」
結衣はそう言いながら、瑞樹の胸を両手で力強く押し返してくる。
そしてそれと同時に、股の間から瑞樹を蹴り出そうと、足をバタバタと動かして抵抗してきた。
思った以上に力が強く、結衣が言った通り全力で嫌がっているのが肌を通して伝わってきた。
しかし悲しいかな。
結衣がどれだけ力一杯抵抗をしようとも、その華奢で小さな体では、男である瑞樹の体をどかすことは出来ない。
瑞樹は、シーツについていた左手を離し、結衣の抵抗する右手首をガシッと掴むと、そのままベッドに力強く縫い付けるように押し付けた。
「っ……! お前の力じゃ、逃げらんないよ」
「イヤっ! ヤダっ!」
結衣は体を守るように、空いた左手を胸の前でギュッと握りしめ、涙目になりながら瑞樹を睨みつけた。
「離してっ! ヤダ、瑞樹くん……っ!」
ズキン、と、瑞樹の胸が大きく鳴った。
本気で嫌がる結衣に乱暴しようとしているこの状況に、強烈な罪悪感が沸々と湧き上がってくる。
結衣は演技をしているだけだと頭ではわかっている。わかっているけれど、あまりにもその表情や声が迫真過ぎるのだ。
ただ、こんな冷や汗が出るような状況だが、結衣の目論見通り、壁越しに聞こえていた隣の声が、全くと言っていいほど気にならなくなったのも事実だった。
外で吹き荒れる雨音すら遠のき、今はただ、目の前で涙を浮かべる結衣の存在だけに、瑞樹の全神経が集中している。
瑞樹は、抗えない力で結衣を押さえつけながら、その白い首筋へとゆっくり顔を近づけた。
結衣は「ひっ」と息を呑み、キュッと強く目を瞑って顔を逸らす。
「……いやっ……」
そして瑞樹は、無防備に晒された結衣の小さな耳たぶを、わずかに尖った犬歯で甘噛みした。
「んあっ……! やっ……ダメだよ、瑞樹、くんっ……」
結衣の口から、演技とは思えない甘い声が漏れた。
彼女は掴まれている右腕を必死に振り払おうと身をよじり、左手で瑞樹の胸を押し戻そうとするが、瑞樹はそれを圧倒的な力で押さえつける。
逃げ場を奪うように、瑞樹は再度、結衣の柔らかい耳たぶを、今度は少し強めにハムッと噛んで、舌先でなぞった。
「んんっ……! や、やめて……。私たち、友達だよっ? 友達に、こんなことしちゃ……ダメだよっ……」
「イヤとか言ってるくせに、声出ちゃってんじゃん。……ほんとは、して欲しいんだろ?」
「そ、そんなわけないじゃん……っ! いやっ……ぁっ……」
あれ。
これは。
――ちょっと、好きかもしれない。
自分にもこんな隠れた変態じみた性癖があるとは思っていなかったが、結衣の予想通り、このシチュエーションはドンピシャで瑞樹の理性を揺さぶった。
正確に言えば、完全に嫌がっているわけじゃないところが致命的に良い。
全力で拒絶されていた最初は申し訳なさが勝って罪悪感以外の感情が湧かなかったが、いざ少し攻め込んでみたら、実はそこまで嫌がっていないどころか、明らかに熱を帯びて感じているという、発言と反応のアンバランスさ。
それが、絶妙に瑞樹の奥底にある男としての征服欲に深く突き刺さったのだ。
そしてそれはつまり、瑞樹から罪悪感が完全に消え去ったと言うことを意味し、同時に瑞樹にとって最も危険で、理性が弾け飛ぶ寸前の冷や汗ものの状況になったことも意味していた。
(……これ以上は、マジで危ない)
「……ちょっと、ごめん……。タイム」
瑞樹が耐えきれずに耳元から顔を離し、正直に吐露すると、結衣もフッと肩の力を抜き、ふにゃりとだらしない表情に崩れた。
「……嫌がる結衣が可愛過ぎる。もう無理かも」
「ハハ……私も、ごめん。……本気で嫌がるとか言いながら、やっぱり瑞樹くんのこと、私……本気で拒否できないや……」
結衣は顔を熱で火照らせ、いつの間にかまた、目が潤んでトロンとした甘い顔つきに戻っている。
「でも、私これ……すっごい好き……。クセになりそう……」
荒い息を吐きながらそう言って、結衣は今日一番の妖艶な顔つきでニヤリと笑った。
その顔を見た瞬間、瑞樹の体の中で、決定的に何かのスイッチが切り替わった音がした。
先ほどまでの申し訳なさは完全に消え失せ、瑞樹の瞳は目の前の獲物をどうやって鳴かせてやろうかという、どす黒く甘い熱で満たされていた。
「……じゃあ、もう少しだけ続ける……か」
「……うん。キスしちゃダメだよ……」
瑞樹が熱を孕んだ低い声でポツリと呟くと、結衣は頬を染めて嬉しそうにコクっと頷く。
雨音も。
隣の部屋の甘い声も。
二人にはもう、何も聞こえなかった。
ただ、互いの重なる鼓動の音と、熱い吐息だけが、密室の暗闇を支配していた。




