第19話 秋空(8)
結衣がサウナとシャワーを終えた後、瑞樹、遊、そして紗綾香も、順繰りに温かいシャワーを済ませてリビングへと戻ってきた。
グランピング施設の方が急遽気を利かせて用意してくれた浴衣を四人で着込むと、まるで温泉旅館にでも泊まりに来たような特別な雰囲気になり、誰もが非日常のワクワク感を隠せなかった。
その後、オレンジ色の間接照明の下で四人で他愛もない会話をしながら、紗綾香の誕生日ケーキと、食後の温かい紅茶を楽しんだ。
外ではバチバチと台風の激しい雨音が響いていたが、それを忘れさせるほど居心地の良い時間で、気付けば壁の時計の針は日付が変わる直前を指していた。
「……そろそろ、寝よっか」
紗綾香が、半ば諦めたような、どこか覚悟を決めたような口調で遊の浴衣の袖を引いた。
元々はこのダブルお泊まりが決まった際、男女で別れて寝ようと何度も紗綾香は常識的な提案をしたのだが、結衣が「私は絶対に瑞樹くんと寝る」と首を縦に振って聞かなかったのだ。
だから彼女は、人生で初めて彼氏である遊とベッドを共にすることになってしまった。
一花と過去に添い寝した経験のある遊にとっては、女性と同じベッドで寝ることにあまり抵抗がないみたいだが、紗綾香にとっては一大事だったのだろう。
彼女はさっきまで泣きそうになりながらも、意見を絶対に曲げない結衣の強硬姿勢に、最終的には折れて承諾するしかなかったのだ。
それぞれの寝室に移動しようと立ち上がった時、結衣は「紗綾香先輩、ちょっとこっち」と手招きをした。
男性陣の視界から見えないように自分の背中を盾にして、なにやら自分のバッグをゴソゴソとやっている。
「ちょっ……ちょっとこれ! なんであなた、女子高生なのにこんなもの持ち歩いてるのよ!?」
驚いて目を丸くする紗綾香に、結衣はニヤニヤと悪い笑顔を向ける。
「女としての嗜みですよー。一個しかないから、私からのお誕生日プレゼントのおまけとしてあげます。……あっ、使う時は自己責任でお願いしますね?」
そして最後に、結衣が背伸びをして紗綾香に耳打ちで何かを伝えると、紗綾香は「ひゃっ」と顔を耳まで真っ赤にさせて、口を手で覆って黙りこくってしまった。
「よしっ、じゃあ寝よー、瑞樹くん!」
顔から火が出そうなほど固まってしまった紗綾香をよそに、結衣は瑞樹の手を引いてルンルン気分で奥の寝室へと誘う。
(……一体、女子の間でどんな秘密の会合が開かれたんだ?)
一抹の不安はあるが、男がそこを探るのも野暮だろうと、瑞樹は考えるのをやめた。
***
ガチャリとドアを開けた先の寝室は、実にシンプルだった。
三畳ほどのコンパクトなスペースの真ん中に、シングルベッドが一つ置いてあるだけ。
テレビもソファもない、完全に寝るだけのための空間だ。
そして結衣が言う通り、普段瑞樹が寝転がっている結衣の家のベッドより、規格が少しだけ大きい。
「ふぅ……」
バタン。
瑞樹は、ベッドの上に大の字で仰向けに横になった。
ふっかふかだ。新品のシーツの、嗅ぎ慣れない清潔な香りがする。
「最高かよ……」
横になった瞬間、全身に溜まっていた心地よい疲労感が一気に押し寄せてきた。
電車に揺られての長時間移動。紅葉を見ながらの森の散策。美味しいBBQに、紗綾香の誕生日会。そして、突然の豪雨と暴風によるお泊まりイベント。
朝から晩まで、まるで陽キャの大学生みたいな、絵に描いたような青春の楽しみ方をしてしまった。
素直に、楽しかった。
普段の結衣と家で過ごすオタク満載なインドアデートとは違って、すべてが新鮮。結衣の無邪気な新たな表情もたくさん見れて、またやりたいなと、心からそう思える一日だった。
「……ねえ、瑞樹くん。どっちかに寄ってよ」
結衣がベッドの横に立ち、ジト目で瑞樹を上から見下ろしている。
「やだね。今夜は、このベッドは俺が一人で広々と使う」
「ふーん?」
――結衣のこの『ふーん』は、ヤバい。
「うそ、ごめっ——」
瑞樹が危機を察知して謝ろうとした時には、もう遅かった。
「とぉっ!」
「――ぐふっ!」
結衣が、大の字で寝ている瑞樹の上に、ガバッとカエルのようにぺったりと飛び乗ってきた。
旅館の浴衣の薄い生地越しに、シャワー上がりの結衣の柔らかい体と、火照った甘い体温が直に伝わってくる。
瑞樹の胸元のすぐ近くで、結衣の規則的で可愛い呼吸音が聞こえてくる。
ドクッ、ドクッ、ドクッ。
瑞樹の心臓のテンポが、強制的に早くなる。
「……今日、すごい楽しかった」
結衣が、瑞樹の胸に顎を乗せたまま呟いた。
自身の胸の高鳴りを抑えるように、小さく、少し切なげに。
「そうだな……。紅葉なんて、ただ葉っぱが赤いだけで見て何が楽しいかと思ってたけど」
「んー、相変わらず夢がないなー」
「うん。でも……結衣と見ると、すげえ楽しかった」
紅葉とか、花火だってそうだ。
瑞樹は、一般的に綺麗と言われるそれらの良さが、昔からよくわからなかった。
人は多いし、見ることしかできないし。綺麗だとは思うけど、良くも悪くもただの景色じゃないか、と。
しかし、今日結衣と見た紅葉は、本当に心から綺麗だと思ったし、良かった。
理由はわかってる。
結衣と過ごす時間そのものが瑞樹にとって楽しくて、景色を見て感動する結衣が見せるその笑顔が、瑞樹にとっての最高の幸せになってるからだ。
そしてそれは、どうやら結衣にとっても同じことだったみたいだ。
「まあ……私も実は、同じなんだー。正直、絶景とか自然とかあんまり興味なかったけど。……瑞樹くんと一緒だったから、すごく楽しかったみたい」
えへっ、と。結衣は瑞樹の胸から上目遣いで覗き込んで、愛らしく笑った。
「たまにはいいかもね、こういうアウトドアな遊びも」
「まあな。でも、やっぱり家の中でダラダラ過ごして、アニメ観たりゲームするのが一番だよな」
「うん。一番は瑞樹くんとおうちでオタク満喫。その次に瑞樹くんとアウトドア陽キャごっこかな」
「ははっ」
結衣が、どっちにも『瑞樹くんと』と当たり前のように付けてくれるのが嬉しくて、可愛いくて。瑞樹は思わず声に出して笑ってしまった。
結衣は、いきなり笑った瑞樹の顔を訝しげに見つめる。
「……なに? なんかバカにされた気がする」
「してないよ。全然」
瑞樹は、上に乗る結衣の背中に腕を回し、そのままギュッと抱き締めた。
上に乗られてもちっとも重くない、その華奢で小さな体を、力強く、けれど壊さないように優しく。
「……くるしぃ」
「ちょっとだけ、我慢して。……結衣成分を吸い取ってるから」
「ん……」
結衣が、赤い顔をして嬉しそうに瑞樹の胸に顔を埋めた。
パチン、と。
瑞樹が手を伸ばして部屋の照明を消す。
しばらくの間、二人は暗闇の中でそうしてただ鼓動を重ね合わせ、そのまま静かに寝てしまおうと思っていた。
――その時だった。
薄い壁一枚を隔てた隣の部屋——つまり、遊と紗綾香のいる寝室から、艶っぽく、切なく、そしてひどく甘い声が、静寂の壁をすり抜けて微かに聞こえてきたのだ。
『……っ、あ……ゆう、くんっ……ダメっ…………こえ、ちゃうからっ……』
それが誰の、そしてなんの最中の声なのかは、瑞樹でも考えなくとも容易に理解できた。
「――――っ!?」
瑞樹の眠気が一瞬で吹き飛び、脳がカッと熱を持って強制的に覚醒してしまう。
瑞樹がギギギとロボットのように視線を結衣の方へ向けると、彼女もまた暗闇でもわかるほど顔を熟れたトマトのように赤くさせて、目をまん丸に見開いていた。
言葉を交わさずともわかる。
結衣も、今隣の部屋で何が行われているのかを正しく理解したのだ。
瑞樹の胸元を掴む、結衣の手の力がギュッと強くなる。
「なぁ……これ、聞こえてるぞって教えた方がよくないか……? 壁を叩いたりしてさ……」
自然と空気を読んで囁き声で話す瑞樹に、結衣は顔を真っ赤にしたまま、ふるふると首を横に振った。
「ダ、ダメだよっ……。紗綾香先輩たち、さっきこういうお泊まりは初めてって言ってたから……きっと二人とも、すごい勇気を出したと思うの……。そこに水を差すようなことするのは……ちょっと、気が引けるかも……」
結衣の言う、彼らの覚悟を尊重したい気持ちはわからんでもないが。
しかし、これをずっとBGMとして聞いてなくちゃいけないとなると、健康な男子高校生である瑞樹も、いろいろともたなくなってきそうだった。
段々と、隣から聞こえてくる紗綾香の甘ったるい声が、先ほどよりも大きくなり始めた。
もはや、隣に瑞樹たちがいることを忘れているかのような、もしくはわざと聞かせようとしてるとしか思えないような、そんな切羽詰まった声量になってきている。
「もぉ〜っ! あんなに壁薄いから気を付けてねって忠告してあげたのに〜!」
囁きながら必死に抗議する結衣が、恥ずかしさのあまり瑞樹の体の上でグニグニと身をよじって動き悶える。
その摩擦で、結衣のはだけた浴衣の裾から、白くて柔らかな太ももが顔を出し、同じくはだけた瑞樹の太ももと、生々しく擦り合わさった。
「――っ、くっ……!」
結衣のさらさらの肌の質感を直に感じて、瑞樹はビクッと体を硬直させた。
結衣は自分がどれだけ危険な爆弾になっているのか何もわかっていないのか、ジトっとした視線を壁と瑞樹の顔へと往復させては、「うぅっ……」と恥ずかしそうに瑞樹の胸に顔を埋める、という動作を何度も繰り返している。
瑞樹はギリッと唇を噛み締めて、頭の中で想像上の般若心経を猛スピードで唱え始めた。
そうでもしないと、理性のタガがどうにかなって外れてしまいそうだった。
「……ね、ねぇ、瑞樹くん……」
視線を下げると、結衣が涙目で、潤んだ瞳でこちらを上目遣いに見つめていた。
「ど、どうした……?」
どうしたもこうしたもないが、完全に語彙力を喪失した瑞樹の、最大限の反応だった。
「今だから言うけど。私って……自分でも引くくらい、えっちなんだよね……」
「なっ……! そ、それは知ってたぞ……。結衣は実は、俺なんかよりずっとむっつりで変態女だとなっ!」
「ば、ばれてたか……」
そりゃあそうだ。
あの公園の滑り台でのことも、ゲーセンの暗闇の筐体での出来事も。思い出すだけで汗が噴き出そうな恥ずかしいあれこれは、ほぼすべて結衣が発端と言っても過言ではないのだから。
というか、結衣の様子が明らかにおかしい。
目が熱っぽくトロンとしてきて、眠そうな、それでいてやけに艶っぽい、アニメでよく見るいわゆるメスの顔つきになっている。
この状況ならいつも、小悪魔的な微笑みで瑞樹の反応を弄ってくるはずなのに。
「ねぇ、瑞樹くん……あんまり、聞いちゃやっ」
「えっ?」
結衣がギュッと眉を顰めて、瑞樹を独占するように真っ直ぐに捉えた。
「……紗綾香先輩で、興奮しちゃやっ……」
胸元を握る彼女の指先が白くなるほど力が込められ、その視線には、他の女の影すら許さないという強烈で切実な独占欲が張り付いていた。
「っ……! む、無理言うな! 聞きたくなくても、勝手に聞こえてくるんだよ!」
「じゃあ絶対、反応しないで。……反応したら、切り落とすから」
可愛い顔をしてとんでもなく怖いことを言い出す結衣だが、その瞳は本当に悔しそうに顔を歪めている。
逆の立場だったらと、想像しなくても結衣の嫉妬の気持ちはよくわかる。
だけど、無理だ。
隣から絶え間なく、そして規則的に聞こえてくる紗綾香の艶かしい声が、嫌でも密着している隣の二人の状況を想起させて、瑞樹の脳内をピンク色に染め上げてくるのだ。
瑞樹は目を強く瞑って、再び般若心経を頭で大音量で流す。
考えるな。
考えるな考えるな考えるな……!
「……そうだ。……瑞樹くん、ゲームしよ」
結衣がふと、真っ赤な顔のまま、何かを思いついたように提案してきた。
「ゲーム……?」
目を開けると、結衣の顔にいつものあの悪戯っぽい小悪魔の笑みが、完全に復活していた。




