第19話 秋空(7)
「――ごめん、結衣!」
瑞樹は、情けない声を上げて逃げた。
とてもじゃないが、このまま結衣と二人きりの密室で、しかも真っ裸になるなんて、耐えられる気がしなかったからだ。
普段はオタク特有の強がりで対抗していても、相手は自分が本気で惚れている女の子だ。これ以上あの艶かしい衣擦れの音を聞き続けていたら、間違いなく理性が一瞬で吹き飛ぶという確固たる自信があった。
(あいつ……俺がどれだけお前のことを好きか、ちゃんとわかってんのか……?)
ガチャリと慌てて脱衣所のドアを開け、外の廊下に逃れ出た瑞樹。
ゆっくりと肩で息をしながら脱衣所の方を振り向くと、ドアの向こうから「瑞樹くんのヘタレー! ざぁこ! ざーこ!」と、瑞樹の限界を面白がって罵る結衣の明るい声が聞こえてくる。
「……っ、俺が悪うございました!」
瑞樹が負けを認めて大きくそう言い放つと、中から「ふふふっ」と悪戯が成功して満足したような、可愛らしい笑い声が聞こえてきた。
「俺はリビングにいるから。サウナとシャワー、ゆっくり楽しんでこい」
「はーい。待っててねー」
瑞樹は、火照った顔を抑えながら深いため息を吐き、足早にリビングへと戻った。
***
暖かい間接照明が灯る、広々としたリビング。
窓の外ではバチバチと激しい雨が屋根を叩きつけているが、室内は静かで平和な空気が流れていた。
部屋の中央にある大きなソファでは、いつの間にか寝室から出てきた紗綾香が、クッションを抱いて膝を抱えるように座っていた。
そして彼女の視線は、リビングから中庭に繋がる大きな窓に向けられ、その先の景色――遊の姿を真っ直ぐに捉えていた。
「……」
瑞樹は小さく咳払いをして、紗綾香の座るソファへと近づいた。
「あ、古河くん。……てっきり二人でシャワーかと」
咳払いで気付いた紗綾香が振り返り、ほんのりと赤くなった顔で悪戯っぽく呟いた。
「いや、さすがにそこまでの勇気はなくて……。遊は、外の片付けですか?」
窓の外、雨除けの屋根がある中庭で、一人動き回っている遊の姿が見える。
オレンジ色のフェアリーライトに照らされながら、BBQの皿やコップ、ゴミなど、出しっぱなしにしていたものをテキパキと片づけているようだった。
「俺も手伝ってきますね」
瑞樹がそう言って中庭へ向かおうと歩き出すと、紗綾香がスッと手を伸ばし、瑞樹の腕を取って無理矢理ソファの隣の席に座らせた。
「えっと……?」
「せっかくだから、二人で少し話そうよ。……遊くんのこと。片付けは『僕に任せろ』って言ってたから、ここは彼の男気に任せよ?」
紗綾香が優しく微笑む。
瑞樹がチラッと窓の外に視線を向けると、丁度、片付けの手を止めた遊と目が合った。
遊は瑞樹を見て小さくコクコクと頷いており、それが「手伝いはいらないから、そこにいて」という合図だと察した瑞樹は、紗綾香に付き合うことにした。
そして遊は、瑞樹の隣へと視線を飛ばすと、フッと柔らかい笑顔になった。瑞樹の前にいる紗綾香と目が合って、無言で笑い合ったのだろう。
瑞樹はソファに深く座り直り、静かに口を開いた。
「……あの遊の自然な笑顔、最近よく見ますか?」
「え? あ、うん。ここ一カ月くらいかな。二人きりの時、少しずつ見せてくれるようになったね。付き合い始めの頃は、能面みたいな無表情で何を考えてるかわからなかったけど。ふふっ」
「遊は、昔からそういう奴だったんですよ」
瑞樹は、窓の外でテキパキと動く遊の背中を見た。
「……あいつの過去の話は、聞きましたか?」
紗綾香は、抱えていたクッションを少しだけ強く握りしめ、小さく頷いた。
「うん。……あたしのような普通の家庭で育った人間には、想像も出来ないような残酷な世界で生きてきたんだなって……。でも、だからって、あたしは彼を可哀想だと思って特別扱いはしないけどね」
そう言って気丈に笑う紗綾香の表情を見ただけで、瑞樹の胸の奥に底知れぬ安心感が溢れ出した。
彼女のことは、今日一日で知ったばかりだ。下手したら、また遊の心を弄んで悲しませるような、そんな一時的な存在の可能性だってゼロではない。
だけど不思議と、中村紗綾香というこの芯の強い女性なら絶対に大丈夫だと、そう確信させてくれる何かが彼女にはあった。
「……ねえ、古河くんから見て、遊くんってどんな子なの?」
ふと、紗綾香がそんなことを聞いてきた。
一番近くで彼を見てきた親友としての意見が、聞きたかったのだろう。
瑞樹は、言葉を選ぶようにポツポツと話し始めた。
「遊は……めちゃくちゃ優しいやつです。感情が無いように見えて、実は誰よりも友達思いで。大切な人に何かあったら、自分のことのように怒ったり、悲しんだりします。……それこそ、自分の身を挺して守るような。二階から躊躇いもなく飛び降りたり」
「っ……!」
瑞樹が笑って言うと、紗綾香は少し顔を赤くし、視線を逸らした。
「あいつは『他人のことなんて信じられない』っていつも言ってますけど、俺は思うんです。……本当は誰よりも他人を信じたいからこそ、他人に期待をしたいからこそ、傷つかないように自分に厳しく、壁を作っているんじゃないかって」
他人への期待をやめた末に、遊は自分自身にも期待しなくなった。
自分なんて誰からも愛されないと思い込むようになり、自分の幸せな未来を自ら捨てて生きてきた。
でもそれは、心の底にある『期待したい』『自分の期待に応えて欲しい』という、純粋な感情の裏返しにも思えた。
だって遊は、瑞樹たち幼馴染や、血の繋がらない今の両親には心を開いて、ありのままの自分を出してくれているから。その家族に向ける一面が遊の本来の姿だとするなら、それ以外はすべて、自分を守るための偽りの仮面だ。
そんな窮屈な仮面は、外したいに決まっている。
十数年一緒に生きてきて、瑞樹はごく最近になってやっとそれに気付いたのだ。
他人を拒絶する性格のまま社会の闇に溶け込むのではなくて、遊は本当は人を信じられた頃の自分に戻りたいんだろうな、と。
「遊は、今すごく変わってきてます。中村先輩と出会って、変わることを恐れなくなって、ありのままの自分でいようとしてます。……だから、なんていうか。不器用だけど、誰よりも優しくて強い奴ですよ、遊は」
黙って瑞樹の言葉を聞いていた紗綾香は、深く微笑むと、ふうっと息を吐いて天井を仰いだ。
「……うん。あたしの思ってた通りだ」
口元を優しく緩ませる紗綾香。
「まだ少しの期間しか付き合ってないし……というか、あんまり会ったり出来てないけど。それでも、遊くんがすごく優しい人なんだなっていうのは、一緒にいると痛いほど伝わってくるんだよね」
紗綾香は、窓の外の雨音を聞きながら続ける。
「過去の話を聞いた時もね。遊くん、すごい震えながら、絞り出すように話してくれたんだ。……聞けば聞くほど、本当はあんな辛いこと、誰にも話したくなかっただろうにって思えてね。だけど、あたしには隠さずに話してくれた。……それは、遊くんが過去を乗り越えようとするくらい強くなった証拠だなって、あたしなりに勝手に結論付けてたの」
紗綾香は瑞樹に向き直ると、大人の女性の、けれど恋する少女のような、とびきり優しい笑みを零した。
「すっごい不器用なくせに、あたしのために無理して頑張っちゃって。誰もが振り返るイケメンなくせに、中身はカッコ悪くて、子どもみたいに我を通そうとして。……ほんと、最高にカッコよくて、愛おしくて、大好きになったんだ、あたし」
そうか。
彼女は、瑞樹が十数年掛けてやっと気付いた遊の複雑な本心に、付き合って僅か数ヶ月で、とっくに気付いていたんだ。
遊と真っ直ぐに向き合い、その心根を深く探り合ったことで得た確かな気付き。
そして彼女は、遊の今の両親と同じように、彼を変える決定的なキッカケになったんだ。
紗綾香であれば、絶対に遊を裏切ることはないと確信できた、あの不思議な納得感は、きっとこれだ。
彼女は、圧倒的に他の人間とは違う。
遊の抱える闇も弱さも、すべてを心から想ってくれて、受け入れてくれるだけの、大きくて深い器がある。
遊を精神的に支えるのはもう、瑞樹ではない。
彼女の隣こそが、遊の生きる場所だ。
瑞樹は、ソファに座ったまま、紗綾香に向けて深く頭を下げた。
「……遊を、未来永劫よろしくお願いします」
「ちょ、重っ! 急に何!?」
紗綾香は突然の重すぎる言葉に苦笑いしつつも、嬉しそうに頬を赤くした。
「でもまあ、ずっと遊くんの隣にいた一番の理解者の古河くんに認められたのなら、彼女としてはすごく嬉しいかな。合格点もらえた気分」
「はい。あなたしかいません」
「――ちょっと古河。僕の中村先輩にも手を出そうとしてる?」
「ええっ!?」
不意に背後から声がして振り返ると、いつの間にか遊が中庭から帰ってきていた。
てっきりリビングの大きな窓のドアから入ってくると思っていたが、外を回って玄関から入ってきたらしく、全く気付かなかった。
まとめ終わったゴミ袋を両手に下げた遊が、ジト目で、疑うような視線を瑞樹と紗綾香に向けている。
「僕の、だってさ。古河くん」
うっとりとした目で遊を見つめる紗綾香は、ソファから立ち上がって、濡れた遊の腕にピトッと飛びついた。
「遊くんって、本当にカッコいいよねーって話を二人でしてただけよ」
そう言って、背伸びをして遊の頬にチュッと軽くキスをする紗綾香。
突然の愛情表現に、たどたどしくそれを受け入れた遊から、一瞬で瑞樹への疑惑の視線が消え去った。
「ち、ちょっと中村先輩……。古河の前では、流石にはずいっす……」
「えー、いいじゃん。今日一日、あっちの二人に散々見せつけられてきたんだもん。これくらいお返しよ」
甘えるように腕に抱きつく紗綾香。
顔を真っ赤にして固まる遊。
「……ちょっと待て、遊。さっきの『中村先輩にも』ってなんだ。『も』って。まるで俺が、いろんな女性に手を出してる最低な男みたいじゃないか」
「いや、それは古河、言葉の綾というか……でも実際、周囲の女子をタラシ込んでるというか……」
「お前も、そういう軽口を言うようになったんだな……」
二人の漫才のようなやり取りに、紗綾香がクスクスと笑い出す。
「ねえ、遊くん。……あたしたちは正真正銘の恋人同士だし、今からシャワー、一緒に入る?」
瑞樹と紗綾香から別々のベクトルで一気に攻められて、完全にキャパオーバーになりタジタジの遊。
いつもはクールな彼が、困り果てて慌てふためくその様子が実に人間臭くて、いかにも年相応の等身大の天音遊っぽくて、瑞樹はなんだか無性に嬉しくなった。
瑞樹と紗綾香は、お互いに目を合わせると、「ふふっ」と小さく声に出して笑い合った。
それを見逃さなかった遊は、焦ったように口を開く。
「ちょっ……! なんかあったのか古河! 今の目を合わせた意味深な笑顔はなに!?」
「『やっぱりあなたしかいません』の合図だ」
「『わかりました、任せて』の合図よ」
瑞樹と紗綾香が息を合わせて一緒に答えると、遊はまるで飼い主に置いていかれた捨て犬のように、不安げに瞳を震わせたのだった。




