第19話 秋空(3)
瑞樹たちの本日の拠点は、丘の頂上に建つ平屋の大きな木造コテージだった。
建物の周囲は高い木製の柵で覆われており、外の視線を完全に遮断するプライベートな中庭が広がっていた。そこには本格的なBBQグリルや、ゆったり座れるアウトドアソファなど、充実した設備が整っている。大きく突き出た屋根のおかげで、雨風や冬の寒さも凌げる造りになっており、快適にアウトドアを楽しめそうだ。
コテージの中に一歩足を踏み入れると、真新しい木の心地よい香りが鼻をくすぐる。
天井が高く開放的な八畳ほどのリビングに、立派なアイランドキッチンが広がる。奥には専用のサウナとシャワールームが完備されており、さらにふかふかのベッドが置かれた寝室も二部屋備えられていて、希望があればそのまま宿泊も可能らしい。
まるでセレブの別荘にでも遊びに来たかのような贅沢な空間に、四人のテンションは否応なしに沸々と上がってきた。
「先輩、探検しましょー! 探検!」
「ちょっと、引っ張らないでよ。子どもじゃないんだからっ!」
結衣が無邪気にはしゃぎ、紗綾香の手を引いて室内をぐるぐると回り出した。
しかし紗綾香も口では子どもみたいと非難しつつ、その表情はまんざらでもない雰囲気で、結衣と一緒にニコニコとルームツアーを楽しんでいるようだった。
瑞樹は背負っていた荷物を床に置いて、隣の遊に訊ねた。
「で、これからの予定はどうなってる?」
遊はスマホの時刻と、大きな窓から見える空模様を確認しながら、静かに答えた。
「今は十三時か……。みんなお昼を過ぎてお腹も空いてるとは思うけど、晴れてるうちに紅葉を見に行きたいかな」
「いいな。この森の中、歩けるのか?」
「うん。敷地を流れる川の淵に、森の奥まで続く遊歩道が作られててね。そこを歩きながら紅葉狩りができるんだ」
「よし、じゃあまずは紅葉だな」
ちょうどそこへ、サウナ室のチェックを終えた結衣と紗綾香がタイミング良くリビングに戻ってきた。
「瑞樹くん、奥にサウナがあったよ! 後で絶対入る!」
「はいはい、後でな。先に森を散策しに行くぞ」
瑞樹は、少し緊張した面持ちの遊に視線を向ける。
「じゃあ、俺たち先に出ようと思うけど……行動は四人一緒の方がいいか?」
遊は不安そうな顔をしながらも、小さく深呼吸をして、ぶんぶんと首を振った。
「……大丈夫。頑張るよ」
瑞樹は笑顔で、遊の背中をポンと叩いた。
「頑張ることじゃない。言っただろ。お前はお前のまま、嘘をつかずにありのままでいればいいんだ。それで絶対に大丈夫だから」
「……うん。そうだね。ありがとう、古河」
遊は柔らかい笑顔を見せて、そして紗綾香の元に歩み寄ると、スッと自然に彼女の手を取った。
「行きましょうか、中村先輩」
紗綾香は一瞬、自分から手を繋いできた遊にびっくりしたように目を開いて、そして、心の底から嬉しそうに目を細めた。
「うん。……あたしたちが先ね」
「そうですね」
遊と紗綾香が、仲良く寄り添いながらコテージを出ていくのを見届けて、広いリビングに瑞樹と結衣が二人きりになる。
「……ふふっ」
結衣がウサギのようにぴょんと飛んで瑞樹の隣に立つと、瑞樹の右腕をギュッと両手で抱き締めた。そのまま掴んだ腕をグッと下に引き寄せられ、瑞樹の体が少し傾く。
結衣は背伸びをして、瑞樹の耳元にスッと顔を近づけ、吐息混じりに囁いた。
「――大好き」
鼓膜を直接撫でるような甘い声が脳内に響き、瑞樹は一瞬クラっと目眩を覚えた。
「なっ……! やめろ、突然!」
顔を真っ赤にして狼狽える瑞樹を見て、結衣は小悪魔のような悪い顔で笑うと、瑞樹の手をキュッと握った。
「私たちも行こー!」
「くっそ……。覚えてろよ、マジで」
「ニヒヒ。負け犬の遠吠えー」
彼女はペロッと赤い舌を出し、全く反省していないどころか、やれるもんならやってみなよと言わんばかりの挑発的なウインクを飛ばしてきた。
***
コテージを出て、丘を下り小川に掛かる木橋を渡ると、そこはもう燃えるような秋の色彩に包まれた森の入り口だった。
整備された遊歩道は、川のせせらぎに沿って森の奥へと続いている。
見上げれば、真っ赤に染まったモミジやカエデ、黄金色に輝くイチョウの葉が幾重にも重なり合い、天然のステンドグラスのように秋の柔らかい日差しを透過させていた。
足元には、ふかふかとした落ち葉の絨毯が敷き詰められており、一歩踏み出すたびにサクッ、サクッと心地よい音が鳴る。
「うわぁ……! すっごく綺麗!」
結衣は、ストールを両手でギュッと握りしめながら、キラキラと目を輝かせて頭上の紅葉を見上げた。
ひんやりとした森の冷たい空気に、結衣の薄い白い息がふんわりと溶けていく。
「本当だな。見渡す限り、赤と黄色だ」
瑞樹も、その圧倒的な自然の美しさに息を呑んだ。
澄み切った清流には、岸辺の赤い紅葉が鏡のように映り込んでおり、時折吹く風が葉を散らして水面を流れていく。
ふと隣を歩く結衣を見ると、彼女は綺麗な形のカエデの葉を拾い上げ、太陽の光に透かして純粋に感動していた。
(……これが俺たちの初めてのデートみたいなものなんだよな)
今までも一緒にいる時間は長かったが、それは結衣の部屋でゲームをしたり、近所のオタクショップを冷やかしたりする日常の延長だった。
こうして、お互いにしっかりとお洒落をして、遠出をして、大自然の美しい景色を二人で並んで歩く。
そんな、普通の恋人たちがするようなデートは、今日が初めてなのだ。
そう意識した途端、隣を歩く結衣の横顔が、いつも以上に大人びて、それでいて等身大の女の子らしく見えてきて、瑞樹の心臓がドクン、ドクンと大きな音を立て始めた。
「……瑞樹くん、見て見て!」
「ん? なんだ?」
「この葉っぱ、すっごく赤くて綺麗! ほらっ」
結衣が拾った真っ赤な落ち葉を、瑞樹の顔の前にスッと差し出してくる。
その手首から覗く白い肌と、マスタードイエローのカーディガンの袖口。そして、葉っぱの横から覗き込んでくる、少しだけはにかんだような結衣の瞳。
彼女もまた、この初めてのデートという非日常の空気に当てられて、内心ドキドキしているのが伝わってきた。頬が赤いのは、決して冷たい風のせいだけではないはずだ。
「……ああ。綺麗だな。結衣の服にも、よく似合ってるよ」
「キザー。……でもありがとう」
少しだけ照れくさそうに笑い合いながら、二人はつかず離れずの距離で、サクッ、サクッと落ち葉を踏みしめて歩き続けた。
森の冷たい空気と、隣からふわりと香る結衣の甘い匂い。そのすべてが新鮮で、瑞樹はただ並んで歩いているだけで、胸が幸福感で破裂しそうだった。
ふと視線を前方にやると、数十メートル先を歩く遊と紗綾香の背中が見えた。
彼らもまた、この美しい紅葉の世界を二人きりで楽しんでいるようだった。遊が足元の悪い場所でさりげなく紗綾香の手を引き、紗綾香が嬉しそうに微笑み返す。
そんな二人の姿が遊歩道の緩やかなカーブを曲がり、大きな木々の影に隠れて完全に見えなくなった。
この直線には、もう他の観光客の姿もない。
静かな森の中、完全に瑞樹と結衣の二人きりになった。
「あ、遊くんたち、見えなくなっちゃった――」
結衣が前を向いたままそう言いかけた、その瞬間。
瑞樹は、スッと無言で結衣の背後に回り込み。
彼女の小さな肩を両手で掴むと、そのまま自分の胸にスッポリと収めるように、背中から優しく抱きすくめた。
「――ひゃっ!?」
突然のバックハグに、結衣の口から小さな悲鳴が漏れる。
瑞樹は、彼女の華奢な体を腕の中に閉じ込めたまま、結衣の耳元へと静かに顔を寄せた。もこもことしたストールの隙間から、シャンプーの良い香りが鼻をくすぐる。
「……み、瑞樹、くん……? だ、だめだよ、こんなとこで――」
戸惑って振り返ろうとする結衣の耳に、唇が触れるか触れないかのギリギリの距離で、瑞樹はわざと低く甘い声で囁いた。
「――さっきのお返し」
「……えっ」
「俺も……すげえ好き、結衣」
カプッ、と。
言葉の最後に、結衣の耳たぶにだけ、かすかに唇と歯を落とす。
「――――っ!!!」
結衣の体が、ビクンと大きく跳ねた。
背中越しに伝わってくる彼女の心拍数が、爆発したかのようにドクドクと跳ね上がっているのがわかる。
振り返った結衣の顔は、周りのどの紅葉よりも真っ赤に染まり上がり、大きな瞳には涙目になるほど動揺が浮かんでいた。
「……っ! ず、ずるい……! そういうの、ずるい……!」
「お互い様だろ。俺だって、さっき心臓止まるかと思ったんだからな」
「むぅ……でも耳は……ちょ……ちょっとえっちだぞ!」
結衣は茹でダコのように真っ赤な顔のまま、恥ずかしさを誤魔化すように瑞樹の腕の中で身をよじり、「この! この!」と瑞樹の胸を叩いた。
しかし、その口元はだらしなく緩みきって、最高に幸せそうな笑みを浮かべていた。
「……おーい、古河ー! いるかー? こっちすごいぞー!」
前方から、カーブの先にいる遊の声が響いてきた。
「やばっ。行くぞ、結衣」
「……うんっ」
瑞樹が名残惜しく体を離して歩き出そうとすると、結衣は瑞樹が着ているマウンテンパーカーの右ポケットに自分の冷たい手を突っ込み、瑞樹の温かい手を探り当てて、自分から指を強く絡ませてきた。
恋人繋ぎだ。
「……このままね」
赤らんだ顔をストールに半分埋めながら、結衣がボソッと呟く。
「……おい。バレたらただの友達設定が崩れるぞ?」
「そのギリギリを攻めるから……すごいドキドキするんだよ、これ。バレちゃいけないハラハラの中でイチャイチャするの、ヤバイっしょ?」
その無敵の可愛さと、ギュッと握り返してくる力の強さに、瑞樹はもう抗う術を持っていなかった。
「……そうだな。癖になりそうではある」
瑞樹は、ポケットの中で結衣の小さな手をしっかりと握り返した。
落ち葉を踏む二人の足音が、再び紅葉の森に重なって響いていく。
秋の冷たい風の中で、ポケットの中で繋がれた二人の手だけが、火傷しそうなほどに熱く火照っていた。




