第18話 線引(5)
ドラッグストアからの帰り道。
二ノ宮と別れた瑞樹は、少し肌寒くなってきた秋の夜道を一人歩きながら、結衣に電話を掛けた。
朱音に真実を告げること。
それを、二人だけの秘密の関係を始める前に、事前に結衣にも了承を得ておきたかったからだ。
通話越しに事情を聞いた結衣は、一瞬だけ沈黙した後、どこかホッとしたような、深刻そうな声色で『私も、全く同じこと思ってた』と言ってくれた。
その後は、少しだけ瑞樹の打ち上げの話をした。カラオケでどんなことがあったかを包み隠さず話して、結衣は『女の子とくっつき過ぎ! 絶対わざとでしょ!』と理不尽に拗ねて、でも最後にはクスクスと笑って聞いてくれた。
二ノ宮とのやり取りや、彼女から叱責されたことも話した。
結衣は『あー、あのコンカフェのツンデレちゃん!』と少しテンションが上がった後、『瑞樹くんのこと、ちゃんと見ててくれたんだね。……その子が一番大人だね』と、静かに理解を示してくれた。
電話を切る間際。瑞樹が、どうしても抑えきれずに『今すぐ会いたいくらい、好きだ』と伝えたら。
少しの照れた間の後、電話越しに結衣から『……私も好きだよ』と、熱を帯びた声が返ってきた。
不思議なもので。
たったそれだけで、瑞樹はどんな現実にも立ち向かえる、無敵になったような力が体の奥底から湧き上がってきたのだ。
スマホをポケットにしまい、瑞樹は覚悟を決めてシェアハウスへの歩みを早めた。
***
シェアハウスに帰り、リビングのドアを静かに開けたら、温かいオレンジ色の照明の下で、一花と朱音が食卓の椅子に並んで座っていた。
どうやら一足先に夕飯を食べた後のようで、マグカップで温かいお茶を啜りながら、小さな声で雑談でもしていたのだろう。
「ただいま」
「あ……おかえり、みーくん。早いね?」
遊は二次会に行ったと連絡があったから、まだ帰って来ていない。
瑞樹も主役として当然二次会に行き、遅くなると思っていたのだろう。一花が少し驚いたように目を丸くした。
「朱音が心配で、一次会で帰って来たんだ。体調はどうだ?」
瑞樹が朱音にそう訊ねると、彼女は熱で火照った赤い顔をパァッと輝かせて笑った。
「瑞樹くんが帰ってきてくれたから、今、一気に元気になった!」
そう言って立ち上がり、フラつく足取りで瑞樹の元に駆け寄ろうとした朱音を、一花が慌てて腕を掴んで制止する。
「はいはい、そんなわけないよ朱音ちゃん。まだ熱、全然下がってないんだから大人しくしてて」
「むー」と不満そうに椅子に座り直す朱音を見ながら、一花がふわっと柔らかく微笑んで瑞樹を見た。
「まだ熱があるけど、それ以外は大丈夫そう。咳も出てないし、ずーっと瑞樹くんの話をしてて元気ではあったんだよ」
「そっか。……これ、頼まれてた風邪薬と、氷枕」
瑞樹がドラッグストアの袋から薬を出して一花に手渡し、合わせて買って来た数種類のスポーツドリンクや栄養ゼリーをテーブルの上に並べていく。
「わぁ……。あたしのために、いっぱい買ってきてくれたんだ。ありがとう、瑞樹くん」
朱音がまた嬉しそうに瑞樹に抱きつこうとして、しかし途端にピタッと空中で手を引っ込めてやめた。
一応、大好きな瑞樹に風邪をうつしてはいけないという自覚はあるらしい。
その不器用な気遣いが本当に可愛らしいなと、瑞樹は朱音のサラサラの金髪の頭を優しく撫でてやると、彼女は猫のようにこの上なく幸せそうに目を細めた。
そのまま瑞樹は、朱音の向かいの席に静かに座り、そして、薬の準備をしていた一花も、朱音の隣の席に座るように目で促した。
「……え? なんだろう?」と、改まった瑞樹の態度に不思議がる二人。
先延ばしにしても、誰も幸せにならない。
今ここで、全てを終わらせなければいけない。
「――二人に、大事な話がある」
瑞樹は一つ大きく深呼吸をして、真っ直ぐに二人を見つめた。
ただ事ではない話であろうことは、瑞樹の張り詰めた空気感で伝わったみたいだ。
そしてどうやら、その内容が朱音にとっては良くないことだと本能で察したみたいで、朱音は隣に座る一花の手を、すがるようにギュッと強く握った。
シンと静まり返ったリビング。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。
真剣な瞳で、三人が見つめ合う。
瑞樹は、膝の上で強く拳を握り締め、静かに口を開いた。
「俺は……結衣と、付き合うことになった」
――カチリ、と。
ほんの少しだけ、世界から音が消え、時が止まったように感じた。
本当は『好き同士だけど友達のまま』という歪な関係なのだが、ここでそんな中途半端な事実を伝えれば、朱音は絶対に諦めきれずに希望を抱いてしまう。だから、これは朱音を諦めさせるための、瑞樹なりの『決定的な嘘』でもあった。
朱音の顔を見るのが、ひどく怖かった。
彼女がボロボロと泣き出してしまうんじゃないかと思って。
これまでの半年間の思い出がフラッシュバックして、そんな自身の罪悪感から逃げたくて、今すぐ視線を逸らしてしまいたかった。
だけど、ここで逃げたら二ノ宮に引き留められた意味がない。
区切りをつけなければいけない。
自分に都合のいい曖昧な関係を、終わらせなければいけない。
だから瑞樹は、逃げ出したい心を必死に縛り付け、真っ直ぐに朱音の瞳を見つめ続けた。
残酷で、痛いほどの視線を、大好きな幼馴染に浴びせ続けた。
永遠にも似た数秒の沈黙の後。
朱音が、ポツリと。震える唇から、その心情を漏らした。
「……そっか」
そのたった一言に。
その、今にも泣き出しそうなのに、歯を食いしばって必死に耐えている表情に。
彼女のすべての感情が、痛いほどこもっていた。
朱音は、優しすぎるのだ。
自分がここで泣き喚いたら、瑞樹を深く傷つけ、迷惑が掛かる。瑞樹を悪者にしてしまうと、そう思っているのだ。
だから、彼女は必死に涙を堪えている。
でも、そんな無理をして笑おうとする顔を見せられたら、痛いほどに伝わってしまう。
悲しい。悔しい。
本当に、本当に、瑞樹のことが大好きだったと。
瑞樹は、手を伸ばしたかった。
優しさは、出してはいけない。
「ごめん」と言って抱き締めたりしてはいけない。
それは相手への優しさじゃなくて、瑞樹自身が罪悪感から逃れ、自分を守るための自己満足の逃避でしかないのだから。
本当の優しさは、彼女が前に進めるように、完全に断ち切って、終わらせてあげることなんだ。
「……朱音の想いに、応えてやることは出来ない。俺は、結衣が好きだ」
決定的な言葉の刃を、もう一度、深く突き立てる。
「……うん。……わかったよ、瑞樹くん」
朱音は、搾り出すような細い声でそう言うと、椅子から立ち上がり、瑞樹を見ないまま、ゆっくりとリビングのドアを開けて出ていった。
痛い。
胸が、張り裂けそうに痛い。
でもこれは、瑞樹が最初からちゃんと拒絶して諦めさせなかった、その責任の重さがなす罰の痛みだ。
すべて受け止めなければいけない。
この痛みを、一生心に刻まなきゃいけない。
瑞樹は重い沈黙の中、ずっと朱音の隣で黙っていた一花へと視線を向けた。
彼女は――。
「……あ、れ……? なんで……私……」
一花の大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙がとめどなく流れていた。
「……一花……?」
瑞樹がたまらず声を掛けると、一花はハッとして、自分の頬を濡らす涙に驚き、力一杯に両手で涙を拭う。
しかし、拭っても拭っても、瞳の奥からとめどなく溢れ出てくるのだ。
「……どうしたんだろ、私。……アハ、アハハ……」
涙で顔をグシャグシャにしながら、おどけてみせる一花は、ガタッと音を立てて立ち上がった。
「……朱音ちゃんのとこ、行ってくるね。お薬も、ちゃんと飲ませないといけないから……っ」
「あ、ああ……」
「……明日には普通になるだろうから。みーくんも、明日からは今まで通り、普通に接してね……?」
「……わかった……」
「ご、ご飯……ラップしてあるから、適当に温めて、食べてね」
「ありがとう……。あ、一花っ……」
瑞樹が、その小さな背中に向かって思わず手を伸ばすが、一花はその手を取らず、振り返らずに無理に笑って、そして逃げるようにリビングから出て行った。
一人残されたリビング。
瑞樹は、力無く食卓の椅子に深く座り込んだ。
テーブルに残された、朱音の飲みかけのマグカップと、一花が座っていた椅子の温もり。
一花は、朱音の恋をずっと一番近くで応援していた。だから、朱音が振られたことが悲しくて泣いたのだ。
最初はそう思おうとした。
けれど。
瑞樹には、わかってしまったのだ。
あの一花自身の感情が制御できずに溢れ出した、戸惑いの涙の本当の意味を。
瑞樹は、誰もいない静かな空間で、両手で顔を覆い、小さく震える声で呟いた。
「……気付きたくなかったな……それは……」
一番近くで、いつも笑顔で二人を見守ってくれていた彼女の、秘められた想いに。
残酷な真実に気付いてしまった瑞樹の心は、取り返しのつかない喪失感に支配されていた。




