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第18話 線引(4)

 二ノ宮の不器用で優しい声は、もう届かない。


 そのはずだった。


 絶望の淵に立たされ、瑞樹はまた、誰にも理解されない暗い闇の底へと足を踏み入れようとしていた。


 自分勝手で、狡猾で、都合のいい人間関係だけを貪る化け物の自分には、明るい世界を歩く資格などないのだと。


 そうやって一人で結論づけて、逃げるように夜の帳が下りる駅前の喧騒へと消えようとした、そのはずだった。


「――だめーッ!」


 だけど彼女は。


 二ノ宮は、そんな最低な瑞樹を見捨てなかった。


 ドンッ、と。


 後ろから強い衝撃が走り、瑞樹は機械のように前へ進もうとしていた歩みを、物理的に強制終了させられた。


 二ノ宮が、瑞樹の服の袖を――いや、腕そのものを思いっきり両手で引っ張り、強引に引き留めたのだ。


 瑞樹は最初、何が起きたのかわからなかった。


 ぐるぐると頭の中で真っ黒な自己嫌悪が渦を巻き始め、周囲の景色も音も認識できないほど、意識もままならない状態になりかけていた。


 もうこれはいっそのこと、すべてを終わらせてしまおうと、そんな極端な破滅思考に陥りかけた矢先。


 急に前に進めなくなったと思ったら、何かが自分の腕を力強く掴んで、後ろの『現実』へと引き戻す感覚があった。


 そして、それが二ノ宮の細い手だとわかって、永遠に閉じかけていた瑞樹の心が外からの力で無理矢理にこじ開けられたのだ。


 深い水底から引き上げられ、夢から覚めたような感覚で、瑞樹はハッと息を呑んだ。


「瑞樹、くんっ……! ダメ! 一人で勝手に行かないでっ……てっ……!」


 背後で、涙目になった二ノ宮が足を踏ん張って必死に瑞樹の腕を引っ張っていた。


 このまま進行方向への重心を解いたら、思いっきり二ノ宮の方に倒れ込んでしまう。


 そんなことを物理的に考えられるくらいには、気付けば瑞樹の頭は完全に冷静さを取り戻していた。


「ん〜〜ッ!」


 唸り声を上げて引っ張る彼女を見て、なんでこんなことになっているんだろうと考え始めると同時に、ああ、そっか、と直ぐに辻褄が合う。


 二ノ宮に、自分の見ないふりをしていた一番悪いところを指摘されて、それが図星で痛くて嫌で、瑞樹は今、現実から逃げようとしていたのだ。


 そして、それを彼女に止められた。


 実にシンプルで、最高にカッコ悪い。


「逃げっ……んなっ!」


「……二ノ宮……」


 瑞樹が呆然と呟いて振り返ると、二ノ宮はハッとして驚き、急に手を離してしまった。


「――あっ……!」


 背中側に向かって全体重をかけて引っ張っていたせいで、彼女はそのままバランスを崩して後ろに倒れそうになる。


 瑞樹は反射的に手を伸ばし、直ぐに彼女の細い手首を掴んで、手前へと強く引いた。


「わっ……!」


 よろけた二ノ宮の肩を両手で支え、転ばないように真っ直ぐ立たせる。


 二ノ宮は、涙目のまま怒った顔で瑞樹をキッと睨みつけ、詰め寄ってきた。


「……逃げんなし! 何も言わずに自分だけの世界に入って逃げるのが、一番狡い!」


 瑞樹は何も言い返せず、情けなく俯く。


 そんな瑞樹の萎縮した様子を見て、二ノ宮は一際大きなため息を夜風に漏らした。


「……ハァッ……。本当に、面倒臭い性格だね、瑞樹くんって。なんでもかんでも、すぐに最悪の方向に悪く考え過ぎ。……直した方がいいよ、それ」


「……でも、悪いだろ、実際。……俺は、酷いことしてるって自覚してるくせに、それに気付かないふりをしてきたんだ。何度も……何度も何度も。ただ、俺自身が傷付くのが怖くて」


「瑞樹くん」


 二ノ宮は、俯く瑞樹の両手を、下からそっと優しく握りしめた。


 瑞樹の手は、小刻みに震えていた。


 自分でも気付かなかった。


 なんだこれは。恐怖か、自己嫌悪か。


「大丈夫だよ。……大丈夫」


 でも、二ノ宮の温かい手がしっかりと握ってくれて、少しだけその震えはおさまった。


 彼女がまるで迷子をなだめるように、何度も「大丈夫」と言い続けてくれて、乱れていた呼吸も深く、次第に落ち着いて来た。


 その代わりに、今更になって猛烈な恥ずかしさが込み上げてきたけれど。


 二ノ宮が茶化すこともなくただ真剣に、そして優しく見つめてくれたおかげで、変に取り乱すこともなかった。


「……落ち着いた?」


「ああ…………」


 二ノ宮は瑞樹の手を優しく握ったまま、フッと自嘲気味な笑みを浮かべる。


「わかるなー。私も、ネガティブモードに入ったら、アンタと全く同じことするのよねー。……でも、一人で殻に閉じこもっても、なんにも解決しないの。答えは案外シンプルなはずなのに、勝手に遠回りすることが正しいと思っちゃったりしてね」


 二ノ宮はそう言って、そっと瑞樹の手を離した。


「性格はすぐには変えられないと思うんだ。瑞樹くんって、根本がすごく優しい人間だから、お願いされたら断れないし、全力で相手の力になってあげる人だよね。今回学祭に協力してくれて、それはすごい肌で感じたのよ。……それって凄く良いことだけど、状況によっては、それが一番残酷にもなるのよね」


 とりあえずさ! と、二ノ宮はパンッと手を打って空気を変えた。


「その朱音ちゃんに、言うべきことはちゃんとハッキリ言った方がいいと思うの。話はそれから、というか。……えっと、そもそも朱音ちゃんが瑞樹くんのことを好きなんだよね? それとも、まさかの逆だったりする?」


 瑞樹は、静かに首を横に振った。


「朱音のことは、めちゃくちゃ大事だ。家族のように思ってる……。だけどそれは、恋愛的な意味での好きとは違う。俺が好きなのは、ずっと……」


「あのショートの可愛い子、よね。……だとしたら、やっぱり瑞樹くんが一番最初にするべきは、朱音ちゃんに一区切りをつけさせることだよね」


「……そう……だな」


 結衣との取り決めで、『両想いではあるけど、あくまで友達のまま』という、歪でオタク的な関係になっている。


 だけどそれは、瑞樹と結衣の二人が自分たちだけで楽しむためのものであって、純粋に瑞樹へ好意を寄せてくれる朱音の気持ちを、根本から踏み躙っているとも言えるのだ。


『付き合ってないなら、あたしはまだ諦めない。いつかあたしに靡くかもしれないし』


 朱音は、そう信じている。もしかしたら自分に振り向いてくれるかもしれないという、僅かな希望に縋っている。


 少し前ならまだ、その夢を追うことに瑞樹は口出し出来なかったけど。今はもう、結衣と実質お互いを一番だと認め合ったも同然なのだ。


 その決定的な事実を隠して、朱音にまだチャンスがあるかのように夢を見させ続けるのは、この上ない残酷なことだ。


――本当に、馬鹿だ。


 結衣との秘密の関係の楽しさを優先させることしか考えていなかった。


 朱音の真剣な気持ちと、その未来をもっと考えてやるべきだった。


 瑞樹は全部わかっていたのに、その現実から目を背けていた。「朱音が『私が勝手にやるから大丈夫』と言ってるからいいだろう」と、都合よく解釈して甘えていたのだ。


 愚かだ。


 そうして瑞樹は、二ノ宮から事実を突きつけられて、背けていた醜い現実を見ざるを得なくなって。


 それに耐えきれずに逃げようとしたのだ。


(こんな人間が、結衣の隣に立つに相応しいのか……)


 また黒い考えが湧いて来て、瑞樹はそっと心の奥に蓋をした。


 今、自分を卑下している暇はない。まずやるべきことは、二ノ宮が言うように、朱音にちゃんと真実を告げることだ。


 先ほどまでの、すべてを投げ出したいという狂気じみた眼差しが、どこか清々しく静かな光を宿し始めていた。


「……ありがとう、二ノ宮」


 瑞樹が憑き物が落ちたような顔で言うと、二ノ宮は安心したように、綺麗に微笑んだ。


「うん。そのようね。……まっ、別に? 瑞樹くんがこれからどうなろうが、私の知ったこっちゃないんだけど?」


 プイッと、わざとらしくそっぽを向く二ノ宮に、瑞樹は思わず声を出して笑って返した。


「ハハハ。それはさすがに無理があるだろ。二ノ宮には、そういうテンプレートなツンデレは向いてないな」


「……うん。向いてない」


 二ノ宮が、照れ隠しのようにニカっと白い歯を出して笑った。


 その屈託のない笑顔は、コンカフェで作っていた妹の笑顔よりも、ずっと魅力的だった。


 瑞樹も微笑み返すと、大きく伸びをして空を仰ぎ、呟いた。


「……さて。帰るか」


「……はい? いや、朱音ちゃんの薬は?」


 キョトンとして目を丸くする二ノ宮に、瑞樹もキョトンとして返す。


「えっ? いや、区切りをつけるって決めた以上、優しく看病するとか、そういう思わせぶりな行動もやめた方が良くないか?」


「いやいや、極端すぎでしょ! 風邪引いてるのに放ったらかしにするのは、ただの冷血人間よ! 看病と区切りは別!」


「……そ、そうか。……じゃあ、やっぱり買ってく」


 瑞樹の極端すぎるポンコツ具合に、二ノ宮は呆れ果てて肩をすくめた。


 二人は顔を見合わせてフッと吹き出すと、並んで駅前の明るいネオンの方へと振り返り、ドラッグストアへ向かって歩き出した。

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