↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
再起動、一九九〇  作者: RSakamoto


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/12

再起動、一九九〇 第九部 —— 有給

一 二〇一三年、春

娘が生まれた。

澪、と名づけた。今度は、恒一が決めた。千夏が「あなたが決め

て」と言ったからだ。二〇二六年の記憶にない子どもの名前を、恒

一は、二日考えて、決めた。

陽は二歳になっていた。妹を、最初の一週間、敵だと思っていた

らしく、澪が泣くたびに恒一の膝に登った。二週目に、敵ではない

と判断したらしく、澪の頭を撫でるようになった。撫で方が乱暴

で、千夏が「優しく」と一日十回言った。

四月、恒一は、会社に辞表を出した。


二 理由

部長は、辞表を受け取って、しばらく黙っていた。

「理由を聞いていいか」

「自分の設計を、自分のものにしたいんです」

「……どういう意味だ」

恒一は、少し考えた。二十二年、ノートに書き続けたものを、ど

う説明すればいいか。

「私は、大学のころから、自分のノートに設計を書いています。

会社では、会社のコードを書きました。それは会社のものです。

ノートは、私のものです。その線を、二十年、引き続けてきました」

「知ってる。おまえの、あの線の話は」

「四十を過ぎて、思ったんです。ノートの設計を、ノートの中に

置いたままで終わらせたくない。自分の名前で、自分の責任で、動

かしたい」

部長は、腕を組んだ。

「フリーか」

「はい」

「食えるのか」

「わかりません」

「ローン、あるだろ」

「あります。あと、三十二年」

「……子ども、二人だろ」

「はい」

部長は、長く息を吐いて、辞表を机の引き出しに入れた。

「三か月、有給が溜まってる。全部使え。それから、辞めろ」

「ありがとうございます」

「それと、村瀬」

「はい」

「三月に訓練を入れたのは、おまえだ。あれがなかったら、うち

は、あの月曜日、開けなかったかもしれない。俺は、それを、誰に

も言ってない。おまえも、言わなくていい」

「はい」

「行け」

前の人生でも、恒一はフリーになった。四十七歳のときだった。

理由は、もっと曖昧だった。疲れた、というだけだった。

今回は、四十三歳。理由は、ノートだった。


三 三上

三上に、辞めたと言った。大井町の中華屋は、なくなっていた。

代わりに、品川の、チェーンの居酒屋だった。

「フリー? おまえが?」

「ああ」

「線は、どうすんだよ」

「引き直す。今度は、自分と、客の間に」

三上は、ビールを飲んで、笑った。

「じゃあ、最初の客は、俺だ」

「金融には、手を出すなって言った」

「もう出してない。会社潰れたんだから。今の会社は、物流だ。

倉庫の、荷物の、突き合わせ。おまえの、板と同じだよ。入ってく

る荷物と、出ていく荷物を、突き合わせる」

恒一は、少し考えた。

「……いいだろう。ただし、今度は、金を取る」

「当たり前だ。餃子じゃ、家族は食えない」

三上は、名刺を出した。営業部長。前の人生では、三上はこの会

社にいなかった。三上の人生も、恒一の人生も、もう、記憶の地図

から、ずいぶん遠くにいた。

四 公園

有給の三か月、恒一は、毎朝、陽を公園に連れて行った。

澪は、まだ首が座ったばかりで、千夏と、家で寝ていた。千夏

は、澪と一緒に、昼まで寝る権利を主張し、恒一は、それに従った。

府中の、家から歩いて十分の、小さな公園だった。滑り台と、砂

場と、ブランコが二つ。朝の九時には、誰もいなかった。

陽は、二歳半で、ずっと喋っていた。

「パパ、あれ、なに」

「ハトだね」

「ハト、なんで、あるいてるの」

「飛ぶのが、めんどくさいんだと思う」

「めんどくさい」

「うん」

「ぼくも、めんどくさい」

「何が」

「くつ」

陽は、靴を脱いで、砂場に入った。恒一は、止めなかった。

四十三歳。三十五年、マイクロ秒を削ってきた自分が、砂場の縁

に座って、二歳半の息子が、砂に靴を埋めるのを見ている。

前の人生には、この九時がなかった。

九時は、会社にいる時間だった。四十三歳の九時は、監視画面の

前で、前夜のバッチの結果を見ている時間だった。十九歳の九時は、

予備校の一時間目だった。五十七歳の九時は、深夜三時に椅子で

寝落ちして、そのまま、机の上で目を覚ます時間だった。

この九時は、誰の記憶にも、なかった。


五 最後の週

有給の最後の週、月曜日の朝だった。

いつもの砂場で、陽は、靴を埋めて、掘り出して、また埋めていた。

恒一は、言った。

「陽。パパ、来週から、お仕事に行くんだ」

陽は、掘るのをやめた。

「おしごと」

「うん。だから、来週からは、朝の公園は、ママと来て」

陽は、しばらく、砂を見ていた。それから、顔を上げて、言った。

「パパ、おしごと、いかなくていいよ」

「……なんで」

「もう、おもちゃ、いっぱいあるでしょ。おかね、かせがなくて

いいから、らいしゅうも、いっしょに、こうえん、おさんぽしようよ」

恒一は、何も言えなかった。

砂場の縁に座ったまま、陽を見ていた。陽は、答えを待ってい

た。二歳半の顔で、真面目に、答えを待っていた。

104

二〇二六年の記憶を、恒一は、全部持っている。株価も、金利

も、地震の日付も、テロの時刻も。三十五年分の設計も。ノート

は、二十四冊になった。

そのどこにも、この台詞はなかった。

この台詞に、どう答えればいいのかも、なかった。

恒一は、砂場に、靴のまま入った。

陽の隣に、しゃがんだ。

「陽」

「なに」

「パパね、お仕事、行くよ」

「……なんで」

「おもちゃは、もう、いっぱいある。それは、そうだ。お金も、

しばらくは、ある。それも、そうだ」

「じゃあ」

「でもね、パパは、お仕事、したいんだ」

陽は、恒一を見た。

「したいの?」

「うん。パパは、ずっと、パパのノートに、いろんなものを書い

てきた。陽が生まれる、ずっと前から。それを、ちゃんと動かした

いんだ。パパの名前で」

陽は、たぶん、半分もわからなかった。だが、頷いた。

「じゃあ、いい」

「いいの?」

「うん。でも、どようびは、こうえん」

「土曜日は、公園」

「にちようびも」

「日曜日も」

陽は、靴を、砂から掘り出した。

「はい」

恒一は、靴を受け取って、砂を払った。


六 夜

その夜、陽と澪を寝かしつけてから、恒一は、千夏に、砂場の話をした。

千夏は、聞いて、少し笑って、それから、笑うのをやめた。

「あなた、なんて答えたの」

「お仕事、したいんだ、って」

「……本当に?」

「本当に」

千夏は、湯呑みを両手で持った。

「前の、あなたは」

千夏が、恒一の「前の人生」のことを、そう呼ぶようになったのは、

震災のあとからだった。

「前の俺は、四十七で会社を辞めた。疲れたからだ。したいことは、

 なかった。あったのかもしれないけど、忘れてた」

「今は」

「今は、ある」

「ノート」

「ノートと」

恒一は、寝室のほうを見た。

「土曜と、日曜」

千夏は、湯呑みを置いた。

「陽の台詞、ノートに書いといたら」

「設計のノートに?」

「設計より、大事でしょ」

恒一は、二十四冊目のノートを開いて、最後のページに、日付と、

陽の台詞を、ひらがなのまま、書いた。

書き終えて、しばらく、それを見ていた。

自分がこのノートに書いてきたものは、全部、二〇二六年の記憶

から始まっている。三百行も、板の図も、ロンドンの英語のメモも。

この一行だけが、そうではなかった。

(第九部 了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。