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再起動、一九九〇  作者: RSakamoto


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10/12

再起動、一九九〇 第十部 —— 地図の外

一 二〇一五年

フリーの最初の客は、三上の物流会社だった。倉庫の入出荷の突

き合わせ。二十四年前、大学の計算機センターで書いた三百行が、

二十四年かけて、荷物の板になった。

二番目の客は、ロンドンだった。イアンが、五十を過ぎて、自分

の会社を作っていた。「線を守ったやつを探してる」というメール

が、ある朝、届いた。日本の深夜に、ロンドンの昼の会議に出る。

前の人生で、五十代に、そうやって働いていたのと、同じ形だっ

た。ただ、隣の部屋で、子どもが寝ている。

三番目以降の客の話は、ここには書かない。守秘義務がある。

陽は四歳になり、澪は二歳になった。

陽は、恒一の仕事部屋に入るのが好きだった。三つのモニター

と、キーボードと、壁一面の、二十六冊のノート。陽は、ノートを

一冊ずつ引き出して、床に並べた。

「パパ、これ、なに」

「設計」

「せっけい」

「これから作るものの、絵」

陽は、一九九一年の一冊目を開いた。十九歳の字。板の図。

「これ、パパが、かいたの」

「うん」

「へた」

「……そうだね」

陽は、ノートを閉じて、次の一冊を開いた。

澪は、キーボードを叩くのが好きだった。恒一が膝に乗せると、

両手でキーを押した。画面に、意味のない文字が並んだ。澪は、

それを見て、笑った。


二 二〇一六年、七月

父が、倒れた。

新潟の病院から、母が電話をかけてきた。心臓だった。十二年前

に恒一が「検査を受けて」と言った、あの心臓。

恒一は、その夜のうちに、新潟に行った。

父は、生きていた。集中治療室で、管に繋がれて、目を開けていた。

「……恒一か」

「うん」

「大袈裟だ」

「大袈裟でいい」

父は、七十七歳だった。前の人生の父は、六十四で死んだ。十三

年、記憶にない時間を、父は生きた。陽を抱いた。澪を抱いた。千

夏の父と、二升の酒を空けた。

「恒一」

「なに」

「おまえ、二十四年前、墓の前で、煙草やめろって言ったろ」

「言った」

「あれ、なんでだ」

恒一は、父の顔を見た。

「……夢を、見たんだ」

「夢」

「父さんが、早く死ぬ夢」

父は、少し笑った。管が揺れた。

「そうか。じゃあ、当たらなかったな」

「当たらなかった」

「よかった」

父は、目を閉じた。

三日後、父は一般病棟に移った。その年の秋、退院した。

恒一は、新潟からの帰りの新幹線で、初めて、自分の記憶が「役

に立たない」ことを、嬉しいと思った。


三 二〇一七年、十月

「通報案件です」

千夏が、朝食の席で、先に言った。

「顔で、わかる」

「……はい。でも、今回は、小さい」

「小さい?」

「府中です。十月の第三日曜、午後三時。けやき並木の、駅寄

り。男が、刃物で、通りかかった人を刺します。三人。……前の人

生では、三人とも、死にました」

千夏は、箸を置いた。

「小さくない」

「はい。……小さくない。ただ、宮城や、秋葉原と比べて、とい

う意味で」

「わかった。それで、どうするの」

恒一は、コーヒーを見た。

「二〇〇二年に、中野で、同じことがあった。俺は、その場所に

立った。五十メートル、ずれて、間に合わなかった。結果は、

同じだった」

「知ってる。ノートに書いてあった。『変えられない。ずれるだけ』って」

「読んだのか」

「十四冊目。あなた、隠してないでしょ」

千夏は、湯呑みを、両手で持った。

「あのときは、一人だった」

「……はい」

「今は、三人。それと、四冊目の手帳」


四 柏木の手

柏木は、六十七歳になっていた。定年から六年。声だけが、少し

老けていた。

「村瀬さん。夢ですか」

「夢です。今回は、警視庁の管轄です」

「聞きます」

恒一は、話した。日付。時刻。場所。三人。

柏木は、最後まで黙って聞いて、それから言った。

「十月十五日、日曜、十五時、府中、けやき並木。書きました」

「はい」

「村瀬さん。今回、私に、できることが、一つだけあります」

「……なんですか」

「府中署に、後輩がいます。私は、九年前から、あなたの電話を

書いてきた。全部、当たった。それを、後輩には、言えない。言え

ば、私は、頭のおかしい元刑事です。でも、『匿名の情報がある。

日曜の午後、けやき並木に、制服を二人、立たせろ』とだけ、言う

ことはできる。理由は聞くな、と」

「聞いて、もらえますか」

「わかりません。私は、もう、ただの年寄りです。でも、三十

年、刑事をやった年寄りです。一回だけなら、たぶん、聞く」

「……お願いします」

「一つ、条件があります」

「はい」

「あなたは、現場に立たない。中野で、五十メートルずれて、

間に合わなかったんでしょう。立っても、何もできない。

あなたがやることは、もう、電話で終わりです。あとは、

私と、制服に、任せる」

恒一は、答えに詰まった。

「村瀬さん」

「……わかりました」

「奥さんも、立たせない」

「はい」


五 十月十五日

日曜日、午後三時、恒一は家にいた。

陽は六歳で、庭で、澪と、ボールを蹴っていた。千夏は、キッチ

ンにいた。恒一は、仕事部屋で、モニターの前に座って、何も見て

いなかった。

けやき並木は、家から、歩いて十五分だった。

三時。三時五分。三時十分。

サイレンが、遠くで、鳴った。

恒一は、立ち上がらなかった。立たない、と約束した。

三時四十分、柏木から、電話が来た。

「村瀬さん」

「はい」

「起きました。三時十二分。けやき並木の、駅寄り」

「……はい」

「二人、怪我をしました。一人は、腕。一人は、背中。……二人

とも、命に別状はない」

恒一は、受話器を握った。

「三人目は」

「いない。制服が、二人、立っていた。男が包丁を出した瞬間

に、一人が走った。三人目を刺す前に、押さえた」

恒一は、何も言えなかった。

「村瀬さん。聞こえてますか」

「……聞こえてます」

「一人、減った。それだけです。二人は、怪我をした。それは、

変わらなかった。私は、それを、喜んでいいのか、わからない」

「……私も、わかりません」

「でも、書いておきます。『三人のはずが、二人。死者、

なし』。手帳に、初めて、そう書く」

電話が切れた。


六 その夜

陽と澪を寝かしつけてから、千夏が、仕事部屋に来た。

「柏木さんから、聞いた」

「……はい」

「どう」

恒一は、椅子の背に、もたれた。

「わからない。二人は、刺された。腕と、背中。前の人生では、

三人が死んだ。今日は、誰も死ななかった。それは、俺がやったこ

となのか。柏木さんがやったことなのか。それとも、最初から、こ

の世界では、そうなるはずだったのか」

「わからないの」

「わからない。中野のときは、ずれて、間に合わなかった。今日

は、ずれたのか、ずれなかったのか、それすら、わからない。制服

が立ってたから、男が、場所を変えたのかもしれない。変えなかっ

たのかもしれない」

千夏は、恒一の隣の、自分の椅子に座った。

「じゃあ、私が言う」

「……」

「今日、誰も死ななかった。それは、事実。柏木さんが、

手帳に書いた。事実は、柏木さんの仕事。それで、いいでしょ」

「……いい」

「あと」千夏は、少し笑った。「あなた、今日、現場に立たなかった。

それが、いちばんの進歩」

恒一は、笑わなかった。だが、少し、息を吐いた。

「中野で、俺が立ってたのは、たぶん、自分のためだった。

 何かをしたかった。何かをした、と思いたかった」

「うん」

「今日は、何もしなかった。電話をかけただけで。それで、

 一人、減った」

「うん」

「……変えられないんじゃなかった」

「そう」

「ずれるだけでも、なかった」

「そう。ずれるから、変わることもある。ずれるから、変わらな

 いこともある。あなたが、十九のときから知ってたことと、この世

 界は、同じじゃない。だから、良くも、悪くも、動く」

恒一は、二十八冊目のノートを開いて、最後のページに書いた。

「二〇一七年十月十五日 三人のはずが、二人。死者、なし。

 俺は、家にいた」

その下に、十四冊目に書いた一行を、もう一度、書いた。そし

て、線で消した。

「変えられない。ずれるだけ」

消した線の横に、書いた。

「変えられないこともある。ずれるから、変わることもある」


七 二〇一八年

陽が、小学一年生になった。

ランドセルは、千夏が選んだ。陽は、青がよかったのに黒になった、

と一日中怒っていた。恒一が「黒もかっこいい」と言うと、

「パパは、わかってない」と言った。

その通りだった。恒一は、七歳の男の子のことを、何もわかって

いなかった。二〇二六年の記憶には、七歳の男の子はいない。

その春、恒一は、陽に、小さなコンピュータを買った。手のひら

に乗る、基板だけの機械。画面とキーボードを繋いで、テーブルの

上に置いた。

「パパ、これ、なに」

「コンピュータ」

「ちいさい」

「小さくても、コンピュータ」

陽は、キーボードを叩いた。何も起きなかった。

「うごかない」

「まだ、何も書いてないから」

「なにを」

「動かし方を」

恒一は、陽の隣に座って、一行、打った。画面に、「こんにち

は」と出た。

陽は、それを、じっと見ていた。

「ぼくも」

「いいよ」

陽は、恒一の真似をして、打った。間違えた。画面に、赤い文字

で、エラーが出た。

「こわれた」

「壊れてない。間違えただけ」

「ちがいは」

「間違えたのは、直せる」

陽は、もう一度、打った。今度は、「こんにちは」が出た。

陽は、笑わなかった。じっと、画面を見ていた。

恒一は、その横顔を見て、一九九一年の夏の、計算機センターを

思い出した。三百行が、一発でコンパイルが通って、動かしたら、

すぐ落ちた。あのときの自分は、笑っていた。

陽は、笑わない。だが、画面から、目を離さない。

似ていない。似ていなくて、いい。


八 二〇一九年、冬

母は、生きていた。

前の人生で、母が死んだ冬。恒一は、その日付を、カレンダーに

書かなかった。父のときのように、数えなかった。

だが、その日、恒一は新潟に電話した。

母が出た。

「なに、急に」

「別に」

「変な子ね。五十になっても」

「……うん」

「健康診断、行ったわよ。毎年言うから」

「うん」

「何もなかった。お父さんも、元気。陽と澪に、お年玉、

 多めに入れとくって」

「多めじゃなくていい」

「いいの。私が決める」

恒一は、受話器を握ったまま、少し黙った。

三十年前、八王子の緑の公衆電話で、テレホンカードを差し込ん

で、この声を聞いた。あのとき、自分は、この声を、二〇一九年の

冬より先で聞くことはないと、知っていた。

今、二〇一九年の冬に、この声がある。

「母さん」

「なに」

「ありがとう」

「なにが」

「健康診断」

母は、笑った。

「本当に、変な子」


九 二〇二〇年、一月

「通報案件です」

千夏が、朝食の席で、先に言った。恒一が、何も言う前に。

「顔で、わかる」

「……はい」

「日付は」

「日付は、ないんです。今回は。始まってる。もう、始まってる」

恒一は、二〇二六年の記憶にある、二〇二〇年を、話した。

千夏は、聞いて、コーヒーを飲んだ。

「柏木さんに」

「かけます。あの人、もう、七十ですけど」

「マスクと、消毒液と、米」

「はい」

「陽の学校と、澪の保育園は」

「三月に、休みになります」

「私の会社は」

122

「四月から、家です」

千夏は、頷いた。

「じゃあ、仕事部屋、半分、私がもらう」

「……はい」

柏木に電話した。定年から八年、柏木は、声だけ、少し老けていた。

「村瀬さん。夢ですか」

「夢です。今回は、長いです」

「聞きます」

恒一は、話した。柏木は、最後まで、黙って聞いた。

「……わかりました。書いておきます。一月十四日、二十時三分」

「はい」

「村瀬さん。これ、私が書き始めて、十二年です。手帳が、三冊

目になりました」

「……はい」

「三冊、全部、当たってます。一つだけ、人数が違った。府中の、

 あれです。……それが、いちばん、いい記録です」

「はい」

「私は、それを、誰にも見せていません。でも、一つだけ、決めました」

「なんですか」

「私が死んだら、その手帳は、あなたの奥さんに渡るように、

 してあります。あなたにではなく」

恒一は、驚いた。

「なぜ、妻に」

「あなたは、一人で抱える人だから。奥さんは、一緒に抱える人だから」


十 二〇二〇年、九月

五十歳の誕生日に、恒一は、一人で、八王子に行った。

駐車場は、なくなっていた。

三階建ての、小さなアパートが建っていた。新しい。白い外壁。

一階に、自転車が三台。

白線は、もう、六台分も、八台分も、なかった。

恒一は、缶ビールを、開けなかった。持ってきていなかった。代

わりに、陽が今朝、押しつけてきた、小さなラムネの瓶を、ポケッ

トから出した。

「パパ、たんじょうび、これ」

九歳の陽は、もう、恒一の仕事部屋で、自分のプログラムを書い

ている。動かない。動かないのを、直している。笑わない。画面か

ら、目を離さない。

七歳の澪は、字を書くのが好きだ。恒一のノートの、二十九冊目

の最後のページに、勝手に、「みお」と書いた。恒一は、消さなかった。

父は、八十一歳。母は、七十九歳。二人とも、新潟にいる。二人

とも、記憶の外にいる。

千夏は、四十七歳。仕事部屋の半分を、本当にもらった。

三上は、物流会社の役員になった。イアンは、会社を売って、引

退した。プリヤは、ムンバイで、自分の会社を持っている。柏木

は、七十歳で、手帳を書き続けている。

ラムネの瓶を、恒一は、アパートの前の、自転車の脇に置いた。

「あと、六年」

二〇二六年の九月。深夜三時。

前の人生では、椅子の上で、意識が途切れた。それだけだった。

それが、始まりだった。

今回は、何が起きるのか、恒一は知らない。この世界は、白線が

二台分消えたところから、駐車場がアパートになるところまで、恒

一の知らない場所で、ずれ続けてきた。ずれの原因は、まだ、わか

らない。

だが、その夜、隣に、千夏がいる。柏木の手帳は、三冊ある。陽

は十五歳で、澪は十三歳だ。

そして、恒一のノートは、三十冊を超える。三百行から始まっ

て、荷物の板になり、ロンドンで動き、三上の倉庫で動いた設計。

二〇二六年の記憶から始まったが、もう、二〇二六年の自分が知ら

ない設計。

一人で抱えていたものは、もう、一人のものではなかった。

恒一は、アパートに背を向けて、駅に向かった。

中央線の音が、聞こえた。

(第十部 了 —— 四十代 終)

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