再起動、一九九〇 第十一部 —— 深 夜三時
一 二〇二三年、柏木
柏木が死んだのは、三月だった。
知らせは、千夏の携帯に来た。柏木の娘からだった。
「父から、亡くなったらこの番号に電話するように言われていました」。
葬儀は、小さかった。刑事の同僚だった老人が何人か、娘夫婦、
孫が二人。恒一と千夏は、いちばん後ろに座った。
焼香のあと、娘が、紙袋を千夏に渡した。
「父から、篠原さんに、と。中は、見ていません。見るなと言われました」
手帳が、四冊入っていた。
三冊目までは、知っていた。四冊目は、知らなかった。
家に帰って、千夏が、四冊目を開いた。最後の書き込みは、二月
だった。震える字で、二行。
「村瀬さんからの電話、なし。十五年で、初めての静かな年。よ
いこと」
その下に、もう一行。
「篠原さんへ。これは証拠ではなく、記録です。使い方は、
あなたが決めてください」
千夏は、手帳を閉じて、仕事部屋の棚の、恒一のノートの隣に置いた。
「ここでいい?」
「……いい」
「三人が、二人になった」
「二人」
「でも、手帳が四冊ある。だから、二人と、四冊」
恒一は、棚を見た。三十二冊のノートと、四冊の手帳。三十六冊。
二 二〇二四年、名前
その年、恒一は、ノートの設計を、外に出した。
三十三年、書き続けたもの。三百行の偽の取引所から始まった、
板を映して、注文を分けて、送る仕組み。ロンドンで動き、三上の
倉庫で荷物の板になり、名前を伏せて何社かで動いたもの。それ
を、自分の名前で、誰でも読める場所に置いた。
大成功は、しなかった。
読んだ人間は、世界に何百人かいた。何人かが、手紙をくれた。
その中に、プリヤがいた。「三十年前に、あなたの隣で見ていたも
のと、同じ形をしている。でも、ずっと単純になっている」。イア
ンからは、三行。「線を守ったな。これは、おまえのものだ」。
陽が、十三歳で、それを読んだ。
「パパ、これ、一冊目のノートの、あれ?」
「そう」
「へたな字の」
「へたな字の」
陽は、画面を、長く見ていた。笑わなかった。
「ぼくなら、ここ、こうする」
「言ってみて」
陽は、言った。恒一は、聞いた。半分は、間違っていた。半分
は、恒一が二〇二六年の記憶の中でも、まだ試していないことだった。
「……やってみて」
「いいの」
「いい。おまえのだ」
三 二〇二六年、四月
健康診断に行け、と言ったのは、千夏だった。
「あなた、何年、行ってない」
「……六年」
「フリーになってから、一回も行ってないでしょ」
「行った。一回」
「五十のときね。六年前」
恒一は、言い返せなかった。
「お父さんに、煙草やめろって言って。お母さんに、毎年行けっ
て言って。それで、自分は六年」
「……はい」
「九月の前に、行って」
千夏は、九月の意味を、言わなかった。言う必要がなかった。
府中の、駅前の病院だった。血液を取られ、心電図を取られ、エ
コーの冷たいジェルを塗られた。恒一は、天井を見ていた。合板で
はなかった。白い、石膏ボードの天井。
診察室で、医者は、五十くらいの女性だった。
「村瀬さん。不整脈が出ています」
「……はい」
「心房細動、というものです。今すぐ、どうということはありま
せん。ただ、放っておくと、夜中に、心臓が止まる種類のものです」
恒一は、医者の顔を見た。
「夜中に」
「ええ。眠っているときに。特に、条件が重なると」
「条件」
「お酒は」
「……ほとんど、飲みません。誕生日に、缶ビール一本くらい」
「睡眠薬は」
恒一は、答えようとして、止まった。
「今は、飲んでいません」
「今は」
「はい」
医者は、カルテに何か書いて、顔を上げた。
「以前は」
恒一は、しばらく黙っていた。
「……昔、少し。眠れなくて。市販のものを、たまに」
「お酒と一緒に?」
「たぶん」
「それは、この不整脈がある人には、いちばん危ない組み合わせです。
呼吸が浅くなって、心臓が、夜中に、気づかれずに止まる。
朝まで、誰も気づかない」
恒一は、椅子の背に、もたれた。
「先生」
「はい」
「それは、椅子の上でも、起きますか」
医者は、少し不思議そうな顔をした。
「椅子?」
「机で、そのまま、眠ったときに」
「起きます。むしろ、そのほうが」
「……そうですか」
「村瀬さん、大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「カテーテルの治療をお勧めします。夏までに。一泊で済みます」
「受けます」
四 二〇二六年、四月、夜
千夏は、聞いて、長く黙っていた。
仕事部屋。三十四冊のノートと、四冊の手帳。恒一は、机の椅子
に座っていた。二〇二六年の、あの椅子ではない。だが、椅子だっ
た。
「前のあなた」
「……はい」
「寝落ちじゃ、なかった」
「なかった、と思う」
「酒と、睡眠薬」
「少し。……最後の二年くらい。缶チューハイを一本と、
薬局で買える弱いやつを、たまに。眠るために」
「眠れなかったの」
「眠れなかった。理由は、覚えてない。たぶん、なかった。
父さんが死んで、母さんが死んで、三上とは年に一回電話して、
仕事は、削るだけだった。悪くなかった。悪くなかったけど、
夜が、長かった」
千夏は、恒一を見ていた。
「前の人生で、私、ロンドンにいた?」
「……いた、と思う。同じ年に、同じ応援が、来ていたはずだ」
「私に、会った?」
「会ったはずだ。覚えていない」
「顔も?」
「顔も、名前も」
千夏は、しばらく黙った。
「ひどい」
「ひどい」
「私、あの夜、朝の四時まで待ってたのに」
「前の俺は、直して、帰った。誰が待ってたか、見なかった」
「……それで、二十年後に、椅子の上で」
「そうだ」
千夏は、湯呑みを置いた。
「自暴自棄」
「そこまでじゃ、なかった。……いや、そうだったのかもしれな
い。自分では、わからなかった。眠れないから飲む。飲んだから、
薬が要らないと思って、でも、たまに、飲む。それだけだった。誰
も、見てなかったから」
「そして、椅子の上で」
「椅子の上で」
千夏は、立ち上がって、棚から、一九九一年の一冊目のノートを
取った。開いて、十九歳のへたな字を、見た。
「あなた、これを書いたとき、自分が、どうやって死んだか、
知らなかった」
「知らなかった。寝落ちだと思ってた。三十六年、そう思ってた」
「今、知った」
「今、知った」
千夏は、ノートを閉じた。
「じゃあ、それが、あなたの逆転だね」
「逆転」
「あなた、ずっと、九月に何が起きるかって、心配してた。
白線とか、駐車場とか、ずれの原因とか。でも、たぶん、何も起きない」
「……」
「起きるはずだったことが、起きない。それだけ。それが、逆転」
恒一は、椅子の背に、もたれた。
「地味だな」
「あなたの人生、ずっと地味でしょ」
千夏は、ノートを、棚に戻した。
「手術、私が付き添う。陽に、留守番させる。澪の面倒も、陽に」
「陽が、怒る」
「怒っていい。十五歳だから」
五 二〇二六年、七月
手術は、一泊で終わった。
麻酔から覚めたとき、天井は、白い石膏ボードだった。隣に、千
夏が座っていた。
「終わった?」
「終わった。先生が、きれいに焼けたって」
「……そうか」
「陽から、メッセージ。澪が、晩ごはんを食べないって。
パパのカレーか餃子じゃないと」
独身時代から時々作っていたカレーと餃子だけは、子供達には
母親がつくる料理よりも評判がいい。
「教えてない」
「知ってる。だから、陽が、あなたのノートを探したらしいの。
レシピが、あるんじゃないかって」
「ない」
「なかったって。三十四冊、全部見て、なかったって、怒ってた」
恒一は、笑った。胸が、少し痛んだ。
「帰ったら、書く」
「設計のノートに?」
「設計より、大事だから」
六 二〇二六年、九月、深夜
その夜、恒一は、眠らなかった。
眠れなかったのではない。眠らないことに、した。
仕事部屋。三つのモニターは、消してあった。机の上に、三十五
冊目のノートが、開いてあった。最後のページ。まだ、何も書いて
いない。
缶ビールは、ない。薬も、ない。
二時半、千夏が、湯呑みを二つ持って、入ってきた。何も言わず
に、恒一の隣の、自分の机の椅子に座った。半分もらった仕事部屋の、
彼女の半分。
二時四十五分、陽が、入ってきた。
「起きてたのか」
「コード書いてた」
「動いた?」
「動かない」
「直せる?」
「直せる。間違えただけだから」
陽は、床に座って、ノートパソコンを開いた。画面の光が、陽の
顔を照らした。笑っていない。画面から、目を離さない。
澪は、寝ていた。それでいい。
二時五十九分。
恒一は、時計を見た。
三十六年前、八王子の六畳で目を覚ました朝、自分は、まず状況
を記録した。障害が起きたとき、最初にやることは、何が起きたか
を正確に記録することで、なぜ起きたかを考えることではない。
三時。
何も、起きなかった。
三時一分。
何も、起きなかった。
千夏が、湯呑みを、机に置いた。陽が、キーボードを叩いた。
窓の外で、遠くを、車が一台通った。
恒一は、シャープペンを取って、三十五冊目の最後のページに、
書いた。
「二〇二六年九月 深夜三時 何も起きなかった。隣に、二人いた」
書き終えて、それを、しばらく見ていた。
ずれの原因は、わからないままだ。白線の二台分も、駐車場がア
パートになった理由も、わからない。たぶん、一生わからない。
だが、三十六年前に自分が思ったことは、たぶん、最初から間
違っていた。この世界は、前の世界の複製ではなかった。複製なら、
白線は八台分だったはずだ。
これは、最初から、ただの世界だった。自分が、十九歳の四月
に、目を覚ました、ただの世界。前の世界の記憶を持った人間が、
一人、紛れ込んだだけの。
再現しない障害は、障害ではない。
ただの、人生だ。
「パパ」
「なに」
「動いた」
陽が、画面を見せた。恒一は、見た。動いていた。
「よかった」
「よくない。遅い」
「……そうだな」
「どうすればいい」
恒一は、椅子から立って、陽の隣に、しゃがんだ。四十三歳の砂
場で、そうしたように。
「見せて」
三時十二分。
夜は、まだ、明けていなかった。だが、朝は、来る。それを、恒
一は、今度は、知っていた。知っていて、そして、初めて、確かめ
る必要がなかった。
七 翌朝
八時、恒一は、陽を連れて、八王子に行った。
理由は、言わなかった。陽も、聞かなかった。中央線の車内で、
陽はノートパソコンを開いて、遅いコードを直していた。煙草の煙
は、なかった。誰も、新聞を読んでいなかった。
アパートは、そのままだった。三階建て。白い外壁。一階に、自
転車が四台。
「ここ、なに」
「昔、パパが住んでた。十九のとき」
「へえ」
陽は、アパートを、三秒見て、それから、また画面を見た。
「パパ」
「なに」
「ここ、直った」
恒一は、画面を覗いた。直っていた。
「速い?」
「速い」
「じゃあ、いい」
二人は、駅に向かって、歩き出した。
後ろで、中央線の音がした。
(第十一部 了)




