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再起動、一九九〇  作者: RSakamoto


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再起動、一九九〇 エピローグ —— 四十一冊

二〇五八年、十一月

父は、布団の中で死んだ。


椅子の上ではなく、布団の中で。朝、母が気づいた。八十八歳だった。前の晩、いつもどおり、九時に風呂に入り、十時に寝た。缶ビールは、誕生日以外、最後まで飲まなかった。


四十九日が終わった日、母は、陽と澪を、仕事部屋に呼んだ。


仕事部屋は、半分が母のもので、半分が父のものだった。父の半分には、モニターが三つと、キーボードと、壁一面の棚。棚には、ノートが四十一冊と、古い手帳が四冊、並んでいた。


「これ、あんたたちに」


母は、八十五歳で、腰が曲がっていたが、声は変わっていなかった。


「全部?」


「全部。ノートは、パパの。手帳は、柏木さんっていう人の。私が三十五年、預かってた。今日から、あんたたちが預かって」


陽は、四十七歳になっていた。父と同じ仕事をしていた。父の設計を、父より速くしたのは、二十代のときだった。父は「じゃあ、いい」とだけ言った。


澪は、四十五歳で、字を書く仕事をしていた。父のノートの二十九冊目の最後のページに、七歳のとき、勝手に「みお」と書いたことを、まだ覚えていた。


「ママ」澪が言った。「これ、何のノートなの。パパ、設計って言ってたけど」


「設計よ。半分は」


「もう半分は」


母は、一冊目を、棚から取った。一九九一年。表紙が、黄色く焼けていた。


「読めば、わかる。わからなくてもいい。パパも、最初は、わかってなかったから」


一冊目

陽が、開いた。


十九歳の字。鉛筆で書いた、板の図。売りと買い。


「へた」


陽は、四歳のときと、同じことを言った。母が、笑った。


「あんた、四歳のときも、そう言った」


「覚えてる」


ページをめくると、最後のほうに、一行だけ、違う字で書いてあった。設計ではなかった。


「知っていることと、できることは、違う」


「これ、なに」


「パパが、十九のときに、決めたこと」


三十五冊目

澪が、開いた。二〇二六年。


最後のページに、日付と、二行。


「二〇二六年九月 深夜三時 何も起きなかった。隣に、二人いた」


「二人って」


「私と、陽」


「あの夜、私、寝てた」


「寝てた。それでよかったの。パパも、そう言ってた」


澪は、その二行を、長く見ていた。


「ママ。パパ、何かを、待ってたの?」


母は、少し考えてから、言った。


「待ってた。三十六年。……でも、来なかった。来なかったことが、パパの、いちばんの逆転」


「意味が、わからない」


「わからなくていい。手帳を読めば、少し、わかる。全部は、わからない。私も、全部は、わからなかった。辻褄が合うところまでは、わかった。それで、十分だった」


二ページ

「ママ」


陽が、四冊の手帳を、まだ開かないまま、言った。


「一つ、聞いていい」


「なに」


「パパが、二〇〇八年に、秋葉原のことを、前の晩に知ってた。二〇一一年に、三月十一日のことを、十日前に知ってた。それが本当なら」


「本当よ」


「じゃあ、株も、知ってたよね」


母は、少し笑った。


「知ってた」


「日経平均も、為替も、どの会社が潰れるかも」


「知ってた。全部。一九九〇年の四月から」


陽は、棚の四十一冊を見た。


「でも、うちは、築十二年の建売で、ローンが三十五年だった」


「そう」


「パパは、株を、一株も」


「一株も。パパの証券口座は、最後まで、空だった。自分の会社の持ち株会も、入らなかった。三上さんの会社の株も、一パーセントを断った。二〇一〇年代に、あの、なんだっけ、ビットコイン。あれも、知ってた。一円も、買わなかった」


澪が、聞いた。


「なんで」


母は、棚から、一冊目のノートを、もう一度取った。開いて、途中の、破られた跡のあるページを見せた。二ページ分、糊の跡だけが残っていた。


「ここに、書いたのよ。十九のときに。日経平均の、年末の値。翌年の値。潰れる銀行の名前。マイクロソフト、インテル、アマゾン、アップル。どれをいつ買って、いつ売れば、いくらになるか。二ページ」


「それで」


「破って、流しで燃やした。その夜のうちに」


陽は、糊の跡を、じっと見ていた。


「もったいない」


「もったいない。あんたの言うとおり。パパも、そう思ったって。何十回も」


「じゃあ、なんで」


母は、ノートを閉じた。


「パパが、言ってたのは、二つ。一つは、未来を知ってるなら、何も要らなくなるってこと。速度も、設計も、三十五年も。知ってることを順番に実行すればいい。それは、自分の人生を、全部いらないものにすることだって」


「もう一つは」


「線」


「線」


「パパは、線を引く人だった。会社と自分の間。自分と三上さんの間。自分と客の間。あんたたちと、パパの記憶の間。いちばん最初に引いた線が、これだった。知っていることと、できることの間。……未来の株価は、知っていること。それを使うのは、できること。パパは、その線を、越えなかった。十九のときに決めて、八十八まで、一度も」


澪は、しばらく黙っていた。


「それ、偉いの?」


母は、少し考えた。


「世間的には、偉くはないでしょうね。株で稼いでいるなら、私、もっと楽だったし。ローンも、なかった。……でも、こんな決断を、できる人が、他にいるとも思えない」


陽が、笑った。父の顔で、初めて、笑った。


「でもね」母は言った。「パパが、その線を越えてたら、たぶん、私は、パパと結婚してない」


「なんで」


「線を越える人だったら、あんなふうには、生きてなかったから。未来がわかってて、それでも会社に行って、注文を送るシステムを、こつこつ直してた。ロンドンで、障害を、朝の四時まで、一緒に直した。もし、知ってることを全部お金に換える人だったら、そもそも、あの夜、私の隣で、システムを直してない」


「……」


「あのころパパが持ってたのは、二十冊のノートと、中野の賃貸の部屋と、三上さんの餃子だけだった。稼ぐより、線を守るほうを選ぶ人だった。……そういう人だから、私、信じた。辻褄が合ったの」


陽は、手帳の一冊目を、開いた。


手帳

四冊の手帳は、刑事の字で書かれていた。


一冊目の最初のページに、日付があった。二〇〇八年六月七日。時刻。番号。「秋葉原 トラック 刃物 十二時半 七人」。その下に、小さく、「四時間早い」。


陽は、それを読んで、顔を上げた。


「ママ」


「なに」


「これ、パパが」


「パパが、電話した。私の携帯から」


陽は、二冊目を開いた。二〇一一年三月一日。「宮城 津波 二万人」。


三冊目。二〇一七年十月。「府中 けやき並木 三人」。その横に、あとから足した字で、「三人のはずが、二人。死者、なし」。


同じ三冊目。二〇二〇年一月十四日。


四冊目の最後。二〇二三年二月。「村瀬さんからの電話、なし。十五年で、初めての静かな年。よいこと」。


陽は、手帳を閉じた。父と同じ顔で、笑わずに、長く、棚を見ていた。


「パパは」


「なに」


「知ってたんだ。ずっと」


「知ってた。あんたが生まれる、二十一年前から」


「それで、何もしなかった」


「何もしなかったんじゃない」母は、棚の四十一冊を、手で示した。「これを、書いた。それと、電話をかけた。それと、あんたたちを、公園に連れてった。……パパにできたのは、それだけ。それだけを、三十六年、やった」


澪が、聞いた。


「なんで、教えてくれなかったの」


「教えたら、あんたたちが、抱えることになるから。パパは、一人で抱えるのが、どういうことか、知ってた。だから、私と、柏木さんの、三人で止めた。あんたたちは、地図の外で育てるって、パパが決めたの」


「地図の外」


「そう。パパの記憶にない場所。あんたも、陽も、最初から、そこにいた」


散歩

その日、母は、二人を、なかなか帰さなかった。


お茶を淹れ直して、父の椅子に、澪を座らせた。陽には、棚の下の段の、別のノートを出した。設計のノートではなかった。表紙に、日付だけが書いてある、薄いノートが、十冊ほど。


「これは、パパが、六十を過ぎてから書いてたやつ。仕事じゃない」


陽が、開いた。設計の図は、なかった。文字だけだった。父の字で、細かく。


「散歩の、メモよ」母が言った。「パパ、晩年、毎日、歩いてた。府中の、多磨霊園のあたりから、浅間山まで。二時間くらい。歩きながら、考えるのが、好きだったの。帰ってくると、思いついたことを、これに書いてた」


澪が、一冊、手に取った。ページの半分が、物理の話だった。恒一の、下手な図。何本もの線が、束になったり、分かれたりしている。


「これ、なに」


「宇宙が、一つじゃないっていう話。パパ、七十のころ、物理の本ばっかり読んでた。素人向けの、分厚いやつ。多次元宇宙論、っていうんだって。宇宙は、いくつもあって、少しずつ違う。片方でこうなったことが、もう片方では、少し違う」


陽は、その図を、長く見ていた。父の顔で。


「……白線」


「そう」母は、笑った。「あんた、気づいた。パパも、たぶん、それを、考えてたのよ。自分の人生の、白線のずれを。片方で八台分、片方で六台分。それは、別の宇宙なんじゃないか、って。素人の思いつきだって、本人も書いてる。でも、七十過ぎて、それを、真面目に調べてた」


澪が、別の一冊をめくった。今度は、物理ではなかった。漢文の、書き下しのようなものが、写してあった。その横に、父の考えが、書き込まれている。


「こっちは」


「東洋の、昔の哲学。老子とか、荘子とか、華厳経とか。パパ、そっちも読んでた。物理と、並べて。……あのね、パパが言うには、二千年前の中国やインドの坊さんが、言葉で言おうとしてたことと、今の物理学者が、数式で言おうとしてることが、ときどき、同じ形をしてるんだって。世界は一つに見えて、実は分かれてる。分かれてるのに、繋がってる。時間は、まっすぐには流れない。ぜんぶ、両方に、書いてある、って」


「パパが、それを、証明したの?」


「まさか」母は、また笑った。「証明なんて、できない。パパも、できないって、わかってた。ただ、面白がってたの。数式と、お経が、同じことを、違う言葉で言ってる。それを、並べて、眺めるのが、好きだった」


陽が、聞いた。


「これ、どこかに、出したの」


「ブログ。日記みたいなやつ。読んでたのは、世界に、何十人か。設計のほうを読んでた人とは、また別の、何十人か。パパ、それで、じゅうぶんだって言ってた。何十人が、面白がってくれれば、それで、書いた甲斐がある、って」


澪は、そのノートを、膝に置いた。


「知らなかった」


「言わなかったからね、パパ。仕事の話は、するけど。散歩で何を考えてるかは、聞かれないと、言わない人だった」


父のこと

帰り際、玄関で、澪が、ふと言った。


「ママ。私、正直に言うとね。子どものころ、パパのこと、ちょっと、変な人だと思ってた」


母は、驚かなかった。


「そうでしょうね」


「なんか、いつも、少し、遠くを見てた。私たちのこと、大事にしてくれてたのは、わかる。公園にも、いっぱい連れてってくれたし。カレーも、作ってくれた。でも、なんか、ここにいるのに、ここにいないみたいな。全部、前に見たことがある、みたいな顔をするときが、あった」


「あった」母は、頷いた。「あんたたちには、そう見えてたのね」


「うん。でも」澪は、膝のノートを、抱え直した。「今日、これ読んで、少し、わかった。パパ、たぶん、いろんなことを、知りすぎてたんだね。それで、遠くを見てた。でも、散歩して、宇宙とか、お経とか、そういう、答えのないものを考えてるときだけ、ここにいる人になってた気がする。知らないことを、考えてるときだけ」


母は、澪の頭に、手を置いた。八十五歳の、皺の寄った手で。


「よく、わかったね」


陽は、玄関で、靴を履きながら、言った。


「俺は、逆だった」


「逆?」


「俺は、パパのこと、変だと思ったこと、ない。パパの設計を、初めて速くしたとき、パパ、『じゃあ、いい』って、それだけ言った。悔しかった。もっと、なんか、言えよって。でも、あとで、わかった。あれは、『おまえのだ』っていう意味だった。パパは、自分のものを、簡単に、人に渡す人だった。設計も、散歩の考えも、ブログも。何十人でいいって。……あんなふうに、なりたいけど、俺には、まだ、できない」


母は、二人を、見た。


「二人とも、パパの、別のところを、見てたのね」


「そう」澪が言った。「私は、遠くを見てるパパ。陽は、渡すパパ」


「それで、いい」母は言った。「パパは、一人だったけど、いろんな面が、あったから。一人で、全部、抱えてたから。……あんたたちが、半分ずつ、覚えててくれたら、パパは、たぶん、じゅうぶん」


八王子

翌週、三人で、八王子に行った。


母が、来ると言った。「腰が」と言っていたのに、その朝、いちばん早く支度をして、玄関で待っていた。


「ママ、大丈夫?」


「大丈夫。ここだけは、行っておきたいの」


中央線で、府中から、少し。陽が、母の腕を支えた。


アパートは、なかった。四階建ての、新しいマンションが建っていた。一階に、コンビニ。


「ここ、なに」澪が言った。


母は、しばらく、マンションを見上げていた。それから、言った。


「パパが、十九のとき、住んでたところ。六畳一間で、風呂もなくて、トイレは共同だったって。……ここから、パパの、二回目が、始まったの」


「二回目」


「パパは、ここで、朝、目を覚まして。それから、六十九年、生きた。全部、ここから」


澪が、マンションを見た。ただの、新しいマンションだった。


「何も、ない」


「何もない」母は、頷いた。「パパも、五十のときに、ここに来て、そう言ってたって。駐車場で、白線が六台分だった、って。八台分のはずだったのに、って」


「八台分?」


「パパの記憶では、ね。……でも、ママは、思うの。パパが、いちばん、この場所を、好きだったのは、白線の数が、合わないからじゃない。ここで、パパは、まだ、何も知らなかったからよ」


「知らなかった?」


母は、コンビニの脇の、自転車置き場のあたりを、指した。


「パパはね、いろんなことを、知りすぎてた人だった。それは、あんたたちも、知ってるでしょう。でも、この場所にいた一年だけは、パパは、まだ、これから何をするか、決めてなかった。ノートも、白紙だった。……パパにとって、ここは、たぶん、いちばん、自由だった場所なの」


陽が、ポケットから、小さなラムネの瓶を出した。空の。父の机の引き出しに、三十年以上、入っていたものだった。九歳のとき、父の誕生日に、押しつけたやつ。


「これ、パパが、ずっと持ってた」


母が、それを見て、笑った。


「覚えてる。あんたが、あげたやつ。パパ、あれを、宝物みたいに、しまってた。中身は、その日のうちに、飲んだくせに」


陽は、その瓶を、どこに置けばいいか、しばらく迷っていた。


「陽」母が言った。「捨てないで、持って帰りなさい」


「え」


「パパは、この場所に、何も残さなかった。設計も、ブログも、あんたたちも、全部、ここじゃない、別のところで作った。ここは、始まりの場所。何もなかった場所。……だから、何も、置かなくていいの。パパが、そうしたように」


陽は、瓶を、ポケットに戻した。


澪が、聞いた。


「ママは、なんで、ここに来たかったの」


母は、マンションを、もう一度、見上げた。


「パパが、死ぬ前の年に、一度、二人で、ここに来たの。歩けるうちに、って。パパ、この前で、長いこと、立ってた。それで、言ったの。『ここで、目が覚めたときは、一人だった。今日は、三人だ』って」


「三人」


「私と、パパと、それから」母は、少し、言葉を切った。「パパの、前の人生の、独りぼっちの自分。それも、連れてきた、って。三人だって」


澪は、その言葉を、聞いていた。


「今日は、四人だね」


母は、澪を見た。


「四人」


「私と、陽と、ママと、パパ」


母は、しばらく黙って、それから、頷いた。


「そうね。四人」


三人は、マンションに背を向けて、駅に向かって、ゆっくり歩き出した。母の歩調に合わせて。


後ろで、中央線の音がした。


前の世界にも、この世界にも、同じ音で。


(了)

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