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再起動、一九九〇  作者: RSakamoto


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8/12

再起動、一九九〇 第八部 —— 三月十一日

一 二〇一一年、二月

息子が生まれたのは、二月の終わりだった。

陽、と名づけた。千夏が決めた。恒一は、反対しなかった。二〇二六年の

記憶に、この子はいない。名前を選ぶ資格が、自分にあるとは思えなかった。

府中の産院で、恒一は、初めて陽を抱いた。四十歳。前の人生で

は、この年、府中の同じ街の別の部屋で、一人で、発注システムの

レイテンシを削っていた。

陽は、軽かった。三千グラム。恒一が三十五年かけて削ったマイクロ秒より、

ずっと重くて、ずっと軽かった。

退院した夜、千夏は、陽を寝かしつけてから、恒一に言った。

「三月十一日」

「……はい」

「何が、起きるの」

恒一は、答える前に、長く息を吸った。

三年前の秋葉原で、恒一は千夏に、日付と、人数と、場所を言っ

た。千夏は、携帯を貸した。刑事が来て、名刺を置いていった。あ

の夜から、千夏は「通報案件」の話をするとき、必ず、先に日付を

言うようになった。

「地震です。宮城の沖。津波が来ます。……二万人、死にます」

千夏は、しばらく何も言わなかった。

「二万人」

「はい」

「通報、するの」

「……できません」

「なぜ」

「誰に、何を言えばいいのか、わからないんです。秋葉原は、交

差点と、時刻と、一台のトラックでした。今回は、東北の海岸線、

全部です。警察に電話して、二万人を高台に上げてくれと言って、

誰が動きますか」

千夏は、陽の寝ている布団を見た。

「柏木さんは」

恒一は、名刺を思い出した。三年間、一度も使っていない番号。

「……かけます。でも、あの人にも、できることはないと思いま

す」

「それでも、かける」

「はい」

「じゃあ、それが、今回の通報です」

千夏は、そう言って、陽の布団を直した。

「あとは、私たちの分を、ちゃんとやりましょう。水と、米と、

電池と、ガソリン。あなたは会社で、できることをやって」


二 できること

恒一は、会社で、二つのことをした。

一つは、三月の第二週に、システム部の災害訓練を入れたこと

だった。年に一度やっている訓練を、今年は三月に、と言った。理

由は「年度末の前に、一度やっておきたい」。誰も、疑わなかっ

た。訓練は三月九日、水曜日。データセンターの切り替え、バック

アップからの復旧、自宅からの接続確認。全部、やった。

もう一つは、柏木への電話だった。

三月一日の夜、恒一は、自分の携帯から、初めて名刺の番号にかけた。

「柏木です」

「村瀬です。三年前の」

「……ええ。覚えています」

「夢を、見ました」

電話の向こうで、柏木は、何も言わなかった。待っていた。

「三月十一日、金曜日、午後二時四十六分。宮城の沖で、大きな

地震です。津波が来ます。岩手から、福島まで。……死者は、二万人」

長い沈黙があった。

「村瀬さん」

「はい」

「私は、警視庁の刑事です。宮城は、管轄外です。津波は、犯罪ではない」

「知っています」

「それでも、かけてきた」

「約束したので」

「誰と」

「妻と」

柏木は、少し笑ったようだった。

「わかりました。私に、できることは、一つだけです。この電話

の日時を、手帳に書いておく。三月一日、二十一時十七分。それだけです」

「それで、十分です」

「村瀬さん」

「はい」

「もし、当たったら。私は、あなたに、もう一度会いに行きます。

 刑事としてではなく」

「……わかりました」

電話は切れた。


三 三月十一日、十四時四十六分

恒一は、大手町の開発室にいた。

揺れが来る前の一分間、恒一は、モニターの右下の時計を見てい

た。十四時四十五分。隣の席の若い社員が、コーヒーを飲んでいた。

十四時四十六分。

揺れた。

長かった。恒一が知っているどの揺れより、長かった。前の人生

でも、この揺れの中にいたはずだった。だが、記憶の中の揺れは、

もっと短い。人間は、知っている揺れを、短く記憶する。

棚が倒れ、モニターが落ち、若い社員が机の下に潜った。恒一

は、潜らなかった。立ったまま、揺れが終わるのを待っていた。

終わった。

「……村瀬さん、なんで、立ってたんですか」

「わからない」

嘘だった。立っていたのは、知っていたからだ。この揺れで、こ

のビルは崩れない。知っていたことを、自分の体は、信じていた。

それから、システム部は、戦場になった。

だが、恒一が三月九日に訓練したとおりに、動いた。データセン

ターは切り替わった。取引所は、その日、開いたままだった。翌週

の月曜、市場は開いた。

部長が、夜中に、恒一の席に来た。

「村瀬。訓練、三月にしたの、おまえだよな」

「はい」

「……なんで」

「年度末の前に、と思って」

部長は、恒一を、長く見た。

「そうか」

それ以上、聞かなかった。


四 帰り道

電車は、全部止まっていた。

恒一は、夜の十時に、会社を出た。大手町から府中まで、三十キ

ロ。歩くしかなかった。

甲州街道は、人で埋まっていた。誰もが、西に向かって歩いてい

た。スーツの男。ヒールを手に持った女。コンビニは、パンも水もなかった。

恒一は、歩きながら、テレビの映像を思い出していた。会社で、

夕方に見た、津波の空撮。前の人生でも見た。だが今回は、隣に、

震える若い社員がいた。

二万人。

何も、できなかった。柏木に電話した。訓練を三月に入れた。水

と米を買った。それだけだ。

千夏の携帯は、繋がらなかった。メールも届かなかった。

深夜二時、調布のあたりで、ようやく一通、届いた。

「陽と一緒に、無事。家の中、めちゃくちゃ。水、出てる。ゆっ

くり帰ってきて」

恒一は、道端に、しゃがみこんだ。

隣を歩いていた知らない男が、「大丈夫ですか」と言った。

「大丈夫です」

立ち上がって、また歩いた。

府中に着いたのは、朝の五時だった。千夏が、玄関で、陽を抱い

て立っていた。

「おかえり」

「……ただいま」

「テレビ、見た?」

「見た」

千夏は、恒一の顔を見て、それから、陽を、恒一に渡した。

「抱いて」

恒一は、陽を抱いた。生まれて十二日。

「二万人」千夏が言った。

「はい」

「あなたは、それを、二十一年、知ってた」

「はい」

「そして、今日、それが、本当に起きた」

「……はい」

千夏は、恒一の肩に、額をつけた。

「保留、終わり」

「え」

「もう、いい。もう、十分。辻褄が、合った。合ってほしくな

かったけど、合った」

恒一は、陽を抱いたまま、動けなかった。

「これからは、保留じゃなくて、一緒に、抱えます。それでいい

ですか」

「……はい」

朝日が、廊下に差し込んでいた。


五 柏木、ふたたび

柏木が来たのは、四月だった。

府中の部屋は、片づいていた。棚は壁に固定され、本は減っていた。

柏木は、玄関で、靴を脱がなかった。

「上がりません。今日は、これだけ言いに来ました」

「……はい」

「三月一日、二十一時十七分。手帳に書いてあります」

「はい」

「私は、それを、誰にも見せません。見せれば、あなたは、この

国で、いちばん奇妙な人間になる。それは、あなたのためにも、

私のためにも、ならない」

「ありがとうございます」

「ただ、村瀬さん」

柏木は、眠そうな目で、恒一を見た。

「あなたが、これを、一人で抱えていたのは、何年ですか」

恒一は、少し考えた。

「……二十一年です」

「二十一年」柏木は、それを、ゆっくり繰り返した。「私は刑事

を三十年やって、いろんな人間を見ましたが、二十一年、それを

黙っていた人間は、初めてです」

「黙っているしか、なかったので」

「そうでしょうね」

柏木は、少し笑った。

「私は、来年、定年です。そのあとは、ただの、暇な年寄りで

す。夢を見たら、それでも、かけてください。当たらなくていい。

当たってほしくない。ただ、書いておきます」

柏木は、ドアを開けて、出ていった。

千夏が、奥から、陽を抱いて出てきた。

「あの人、もう、保留じゃないね」

「……はい」

「三人になった」

「三人」

「一緒に抱える人。私と、あなたと、柏木さん」

恒一は、玄関の外の、春の光を見た。

二〇二六年の記憶の中に、柏木はいなかった。千夏も、陽も。

一人で抱えていたものが、三人になった。

それが、この世界で、恒一が初めて、自分で作った差分だった。

(第八部 了)

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