↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
再起動、一九九〇  作者: RSakamoto


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/12

再起動、一九九〇 第七部 —— 知らない道

一 二〇〇八年、九月十五日

結婚式は、十月の予定だった。

九月十五日、月曜日、リーマン・ブラザーズが破綻した。

恒一は、その朝、会社にいた。前の晩から、いた。土曜日に

ニューヨークで報道が始まったときから、月曜の朝の東京市場の開

場に向けて、システム部は全員が出社していた。

課長——今は部長になっていた——が、開発室で言った。

「村瀬。今日、何が起きると思う」

「売りが、殺到します。注文の量は、たぶん、過去最高。発注の

処理と、取引所への接続が持つかどうかが、全部です」

「持つか」

「持ちます」

「根拠は」

恒一は、少し考えた。

根拠は、二〇二六年の記憶だ。前の人生でも、この日、システム

は持った。だが、それは前の人生の話で、この世界のシステムは、

恒一が一九九一年から書き続けた設計が、二〇〇四年のロンドンを

経て、また入っている。前より速い。前より単純だ。

「一九九九年から、九年、この日のために書いてきました」

部長は、その答えを、たぶん、大袈裟だと思っただろう。だが頷いた。

九時、市場が開いた。

注文が、来た。

恒一は、モニターの前で、数字を見ていた。注文を受けてから取

引所に届くまでの時間。板ミラーの遅れ。キューの長さ。全部、見

たことのある数字だった。全部、想定の中だった。

持った。

昼の休憩に、恒一は屋上で、千夏に電話した。

「大丈夫?」

「大丈夫。そっちは」

「地獄。でも、全部、辻褄は合ってる」

「よかった」

「ねえ、村瀬さん」

「なに」

「これも、知ってた?」

「知ってた」

「式、延ばす?」

恒一は、屋上から、大手町のビルの間の空を見た。

「延ばさない。こういう日に、ちゃんと式を挙げるのが、俺たちらしい」

千夏は、笑った。

「照合と、システムだもんね」


二 二〇〇八年、十月

式は、新潟だった。

父の希望だった。父は六十九歳で、四年前に死ぬはずだった人

だった。式の間、父は、ずっと妙な顔をしていた。泣きそうで、

怒っているようで、それを隠そうとして、隠せていない顔。

母は、普通に泣いた。

三上が来た。会社は、その月、傾いていた。ファクタリングで買

い取った売掛金が、リーマンのあとで、次々に焦げ付いていた。三

上は、それを一言も言わなかった。祝儀を渡して、「餃子、また食

おう」と言った。

イアンから、電報が来た。英語で三行。「線を守ったな。

おめでとう。給料は今も二倍出す」。

プリヤからは、メールが来た。「嘘じゃなかった」と、一行だけ。

千夏の父は、新潟の酒を、恒一の父と、二人で二升空けた。

式の最後、恒一は、控え室で、一人になった。

三十八歳。

二〇二六年の自分は、五十七歳で、独身で、府中の賃貸マンショ

ンで、深夜三時に椅子の上で眠った。誰にも、辻褄を見せなかっ

た。父は三十四のときに死に、母は五十のときに死に、三上とは年

に一度、電話で話すだけだった。

その人生が、悪かったとは思わない。三十五年、一つのことを彫

り続けた。それは、本物だった。

だが、あの人生には、この控え室はなかった。

控え室のドアが開いて、千夏が入ってきた。白い着物で、もう着

替えに行く時間だった。

「何してるの」

「……考えてた」

「何を」

「知らない道のことを」

千夏は、恒一の隣に座った。

「知らないの、怖い?」

「怖くない。……前は、怖かったけど」

「じゃあ、いいじゃない」


三 二〇一〇年、九月

四十歳の誕生日に、恒一は一人で、八王子に行った。

十年前と同じ、駐車場。白線は、六台分のままだった。

恒一は、缶ビールを開けた。

この十年で、いくつかのことが起きた。三上の会社は、二〇〇九

年に、潰れた。三上は半年失業して、今は、別のベンチャーの、技

術ではなく営業の責任者をしている。前の人生より七年遅れて、同

じところに着いた。恒一は、それを、自分のせいだとも、自分のお

かげだとも思わなかった。

父は生きている。七十一歳。去年、心臓に小さな手術をした。そ

れは、恒一の知らない手術だった。医者は「早く見つかってよかった」

と言った。

母は、健康診断に毎年行っている。二〇一九年の冬のことを、恒

一はまだ知らない。知らないままで、いい。

そして、二人は、府中に家を買った。築十二年の、中古の建売。

三十五年ローン。頭金は、二人の貯金を合わせたもので、恒一のほ

うが少なかった。恒一の会社に近く、千夏の会社に近く、静岡と新

潟の、どちらにも中途半端に遠い場所。前の人生で、恒一が五十七

歳で一人で、賃貸の部屋に住んでいた街。今は、二人で、ローンの

ある家に住んでいる。

未来を知っている人間が、三十五年ローンを組む。恒一は、銀行

の窓口で判を押しながら、それを、少し可笑しいと思った。

千夏は、この夏、妊娠がわかった。

恒一は、缶ビールを、半分だけ飲んだ。

二〇二六年の記憶の中に、この子は、いない。

千夏も、いない。父の手術も、六台分の白線も、二〇〇四年のロ

ンドンで、自分から三十秒間発言した自分も、いない。

ここから先、自分の頭の中の地図は、もう、この世界の道と、ほ

とんど重ならない。

あと十七年。

五十七歳の九月、二〇二六年、あの深夜三時に、何かが起きる。

それが何かを、恒一は知らない。前の人生では、ただ椅子の上で

眠っただけだった。今回は、たぶん、違う。この世界は、自分が変

えた覚えのないところで、ずれ続けている。白線は、二台分、消え

たままだ。

その日、自分の隣には、千夏がいる。たぶん、十五歳になった子

どもがいる。

それだけが、二〇二六年の自分が持っていなかったものだ。

恒一は、缶を、駐車場の白線の上に置いた。

飲み残しを、そのままにして、駅に向かった。

中央線の音が、聞こえた。

(第七部 了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。