再起動、一九九〇 第六部 —— 通報
一 二〇〇八年、六月七日
土曜日の夜だった。静岡から帰って、三か月後。
府中の部屋——まだ結婚前で、千夏は週末だけ来ていた——で、
恒一はテレビを消して、千夏に言った。
「明日、秋葉原で、人が死にます」
千夏は、洗い物の手を止めた。
「何人」
「七人。怪我は、十人」
「時間は」
「昼過ぎ。十二時半ごろ。歩行者天国に、トラックが突っ込んで、
そのあと、刃物です」
千夏は、水を止めて、タオルで手を拭いた。
「通報案件ですね」
「はい」
「する?」
「します。今から」
三年前、ロンドンのパブで、千夏に約束した。次にわかったら、
私にだけじゃなくて、通報してください。信じてもらえなくても。
調べられても。
十八年、恒一は、それをしなかった。神戸も、サリンも、九・一
一も、七・七も。理由は、いつも同じだった。信じない。証拠がな
い。何も変わらない。
だが、あのパブで、千夏は「それでも」と言った。
「どこに」
「万世橋署。あそこの管轄です」
「名前は」
「言いません。言えば、明日の午後には、私が容疑者です」
「……そうですね」
千夏は、恒一の向かいに座った。
「じゃあ、私の携帯から、かけてください。村瀬さんの番号じゃ
なくて」
「なぜ」
「あなたの番号から、事件の前の晩に、警察に電話がかかった記
録が残る。私の番号なら、まだ、言い訳が立つ。友達が変な夢を見
たって言ってた、で済む」
恒一は、千夏を見た。
「巻き込みます」
「巻き込まれます。三年前から、そうです」
千夏は、携帯を、テーブルの上に置いた。
恒一は、それを取って、番号を押した。
二 電話
「万世橋警察署です」
「あの、変な話なんですが」
「はい」
「明日の昼、秋葉原の歩行者天国で、事件が起きるかもしれません」
「……どういった」
「トラックが、交差点に突っ込みます。中央通りと、神田明神通
りの角です。そのあと、運転していた男が、刃物で、周りの人を刺
します。十二時半ごろです」
電話の向こうで、少し間があった。
「失礼ですが、それは、どこで聞かれた情報ですか」
「……聞いたのではなくて。夢のようなものです。当たらないか
もしれません。でも、当たったら、七人死にます」
「お名前を」
「言えません」
「この番号は」
「知り合いのものです。私は、名前を言えません。ただ、明日の
昼、あの交差点に、人を一人でも多く、立たせておいてください。
それだけです」
「あの、もしもし——」
恒一は、電話を切った。
手が、震えていた。
千夏が、その手を、上から押さえた。
「した」
「しました」
「よかった」
「何も、変わらないと思います」
「それでも、した」
その夜、二人は眠らなかった。
三 六月八日
十二時三十三分。
テレビが、速報を出した。秋葉原。トラック。刃物。
恒一は、画面を見ていた。千夏は、隣で、恒一の手を握っていた。
死者は、最初三人と報じられ、夕方には七人になった。
何も、変わらなかった。
「村瀬さん」
「はい」
「私、いま、二つのことを思ってます」
「……はい」
「一つは、あなたが、本当のことを言ってたってこと。三年間、
保留してたけど、もう、疑ってはいない。保留は、まだ、閉じないけど」
恒一は、何も言えなかった。
「もう一つは、それでも七人死んだってこと。あなたが電話して
も、私が携帯を貸しても、何も変わらなかった」
「はい」
「それを、あなたは、十八年、知ってた」
「はい」
千夏は、恒一の手を、もっと強く握った。
「これから、毎回、こうなるの?」
「たぶん」
「毎回、電話して、毎回、何も変わらなくて」
「……たぶん」
「わかりました」
千夏は、テレビを消した。
「じゃあ、毎回、私の携帯を貸します。それが、私の役目です」
四 柏木
刑事が来たのは、一週間後だった。
千夏の携帯に、番号が残っていた。当然だった。千夏は、その電
話を、正直に受けた。「友人が、変な夢を見たと言って、私の携帯
からかけました。私が貸しました」。
刑事は、柏木といった。五十代、小柄で、目が眠そうで、話し方
が遅かった。
府中の部屋に、千夏と恒一が並んで座り、柏木は向かいに座った。
「村瀬さん。夢、ですか」
「はい」
「トラックと、刃物と、十二時半と、交差点の名前まで、夢で」
「……はい」
柏木は、手帳を見ながら、ゆっくりと言った。
「正直に言います。私は、あなたを疑っています。犯人とは別の
人間が、前日の夜に、あれだけ正確に電話をかけてきた。普通な
ら、共犯か、計画を知っていた人間です」
「そう思うのが、普通だと思います」
「でもね」柏木は手帳を閉じた。「犯人は、あなたを知らない。
徹底的に調べました。接点が、一つもない。あの男は、前の晩、携
帯の掲示板に予告を書いた。あなたは、それを読んでいない。読め
る立場でもない。書き込みの時刻より、あなたの電話のほうが、
四時間早い」
恒一は、黙っていた。
「だから、私には、二つしか残らない。あなたが、私の知らない
方法で、あの男と繋がっていたか。あるいは、本当に、夢を見た
か」
「……はい」
「どっちですか」
恒一は、千夏を見た。千夏は、恒一を見なかった。まっすぐ、柏
木を見ていた。
「夢です」
柏木は、長い間、恒一を見ていた。それから、名刺を一枚、テー
ブルに置いた。
「わかりました。今日は、これで帰ります。ただ、村瀬さん。も
し、また、夢を見たら、この番号にかけてください。署の代表じゃ
なくて、私の携帯に」
「……信じるんですか」
「信じません。でも、四時間早かった。それは、事実です。事実
は、私の仕事です」
柏木は、立ち上がった。玄関で、靴を履きながら、振り返らずに
言った。
「篠原さん。携帯、貸したのは、いい判断でした。村瀬さんの番
号だったら、私は、もっと違う態度で来ています」
ドアが閉まった。
千夏が、息を吐いた。
「あの人、たぶん、信じてる」
「まさか」
「信じてないけど、事実は仕事だって言った。あれは、保留の顔
です。私と同じ」
恒一は、名刺を見た。柏木の携帯番号。
それが、次に鳴るのは、三年後だった。
(第六部 了)




