再起動、一九九〇 第五部 —— 線の どっち側
一 二〇〇六年、一月
ライブドアに検察が入った夜、恒一と千夏は、神楽坂の蕎麦屋にいた。
テレビが、六本木ヒルズの映像を流していた。千夏は蕎麦を食べながら、
それをちらりと見て、言った。
「明日、うちの照合、地獄ですね」
「たぶん」
「村瀬さん、知ってました?」
恒一は、箸を止めた。
ロンドンのパブの夜から、半年。「保留」は、まだ続いていた。
千夏は、あの夜の話を、それきり一度も蒸し返さなかった。ランチ
を重ね、東京に戻ってからは、週末に会うようになり、恒一は千夏
の実家が静岡で、父親が茶農家で、弟が一人いることを知った。千
夏は恒一の実家が新潟で、父が煙草をやめたことを知った。
そして、あの質問が、今、初めて、蕎麦屋で、軽い調子で戻って
きた。
「……知ってました」
「そう」
千夏は蕎麦をすすった。
「これは、通報案件ですか」
「違います」
「なんで」
「誰も死にません。株は落ちますけど」
「株が落ちて、死ぬ人もいますよ」
恒一は、少し黙った。
「……そうですね。でも、それを言い出すと、明日の相場も、来
月の金利も、全部になります。線を引かないと、何もできなくなる」
「線」千夏は、湯呑みを持ち上げた。「村瀬さん、その言葉、好きですね」
「よく言いますか」
「ロンドンで、三回は聞きました」
千夏は、湯呑みを置いた。
「じゃあ、聞きますけど。線は、どこですか。人が死ぬかどう
か?」
「……たぶん」
「たぶん」
「はっきり決めていません。決めると、決めた線の内側で、何も
しないことの言い訳になるので」
千夏は、それを聞いて、しばらく恒一を見ていた。
「ずるい答え」
「はい」
「でも、正直な答え」
「……はい」
「ライブドアの株、私、持ってないですし」
恒一は、笑った。
「篠原さん、すごいな」
「何が」
「普通、もっと聞きます。何をどこまで知ってるのか、どうして
知ってるのか。今夜、いくらになるのか」
千夏は、蕎麦の最後の一口を食べて、言った。
「聞いても、わからないと思うんです。私、システムのことも、
村瀬さんの頭の中のことも、わからない。わかるのは、村瀬さん
が、あの日、私にタクシーに乗れと言ったことと、あの日から半
年、通報が必要になるようなことが、まだ起きていないことだけ」
「起きたら、言います」
「約束、覚えてますね」
「覚えています」
「じゃあ、保留は、続けます」
「まだ、保留ですか」
「まだ、保留です。半年で辻褄が合う話じゃないでしょう、これ」
千夏は、会計の伝票を取った。
「今日は、私が出します。株で儲けてないので、割り勘にする理由がない」
恒一は、言い返せなかった。
蕎麦屋を出ると、神楽坂の坂の上に、月が出ていた。千夏が、坂
を下りながら、ふと言った。
「村瀬さんは、線を引くのが上手ですね」
「そうですか」
「引かれた側のことは、あんまり考えてないけど」
それは、あとで、三上のときにも聞くことになる言葉だった。
二 二〇〇六年、秋
三十六歳の誕生日に、恒一は千夏を、中野の部屋に呼んだ。
初めてだった。
六畳と四畳半。本棚が三つ。机が一つ。その机の上に、大学ノー
トが、十八冊積んであった。
千夏は、ノートを見て、言った。
「これ、何ですか」
「設計です。一九九一年から」
「見ていいですか」
「……はい」
千夏は一冊目を開いた。十九歳の字。鉛筆で書かれた、板の図。
売りと買い。
「読めない」
「読めなくていいです」
「でも、きれいですね。字が、だんだん変わってる」
千夏は、一冊目から、十八冊目まで、ぱらぱらとめくった。二〇
〇一年の五反田の紙が、綴じ込んであるのを見つけた。二〇〇四年
のロンドンの、英語のメモも。
最後のページに、四つのルールがあった。
一、会社のコードは、一文字も見せない。 二、会社の顧客、
取引所、仕様、障害、いかなる情報も口にしない。 三、金も株も、
受け取らない。 四、三上の会社のサービスが、証券や金融に近づ
いたら、その日にやめる。
「これは?」
「線です」
「線」
「自分と、会社と、他の人の間の。それを守るために、書きました」
千夏は、しばらくそのページを見て、それからノートを閉じた。
「村瀬さん」
「はい」
「私、この線の、どっち側ですか」
恒一は、答えられなかった。
千夏は笑って、「じゃあ、今度までに決めといてください」と
言った。
三 二〇〇七年
三上の会社が、金融に手を出そうとしたのは、その年の春だった。
工業部品のオークションで、売り手の工場が、売掛金を早く現金
化したい、と言い出した。三上は、その売掛金を買い取って、手数
料を取る仕組みを考えた。ファクタリング。銀行ではないが、金融だ。
大井町の中華屋で、三上は言った。
「村瀬。これ、やっていいと思うか」
「俺に聞くな」
「聞いてる」
恒一は、餃子を見た。
「三上。二〇〇二年に、約束した」
「……覚えてる」
「やるなら、俺は、今日でやめる。それだけだ。やるかどうか
は、おまえが決めろ」
三上は、餃子を三個食べてから、言った。
「やる」
「わかった」
「怒ってるか」
「怒ってない。おまえの会社だ」
「……六年、ありがとうな」
「餃子で、もらった」
それきりだった。三上の会社は、ファクタリングを始め、翌年の
秋に、それが致命傷になる。恒一は知っていた。だが、言わなかっ
た。線の外側の話だ。
その夜、恒一は、十九冊目のノートの最後のページに、日付と一行だけ書いた。
「三上と、線を引き直した。五反田は、終わり」
千夏に、その話をした。
千夏は、聞いて、「寂しいですね」と言った。
「寂しい?」
「六年、毎週土曜日ですよね。それが、餃子で終わり」
「終わりでいいんです。線だから」
「村瀬さんは、線を引くのが上手ですね。引かれた人のことは、
あんまり考えないけど」
神楽坂で聞いたのと、同じ言葉だった。
恒一は、今回も、言い返せなかった。
四 二〇〇八年、三月
千夏の父に会いに、静岡に行った。
茶畑の中の、大きな古い家だった。千夏の父は六十五歳で、日焼
けした顔で、恒一を玄関で三秒見て、「上がれ」と言った。
夕飯のあと、縁側で、千夏の父が煙草に火をつけた。
「システムだって?」
「はい」
「証券の」
「はい」
「儲かるのか」
「……普通です」
千夏の父は、煙を吐いて、言った。
「千夏は、三十五だ。おまえは三十八。遅いな」
「遅いです」
「なんで、遅くなった」
恒一は、茶畑の暗い斜面を見た。
「線を引くのに、時間がかかりました」
千夏の父は、よくわからない、という顔をして、それから笑った。
「まあ、いい。千夏が決めたなら、いい」
帰りの新幹線で、千夏が言った。
「父、あんな笑い方、初めて見た」
「そうなんですか」
「線を引くのに時間がかかった、って。何言ってんだこいつ、
って顔してたけど、嬉しそうだった」
恒一は、窓の外の、富士山を見た。
十九歳の春、上越新幹線の中で、自分は「この世界に干渉してい
いのか」と考えていた。
三十八歳の春、東海道新幹線の中で、隣に千夏がいる。
これは、干渉ではない。
これは、自分の人生だ。
(第五部 了)




