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再起動、一九九〇  作者: RSakamoto


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4/12

再起動、一九九〇 第四部 —— ロン ドン

一 二〇〇三年、九月

辞令は、九月の頭に出た。

英国子会社への長期出張。期間、二年。業務、欧州取引所接続と

執行システムの構築支援。

課長は辞令を渡しながら言った。

「向こうは、ロンドン証券取引所とユーロネクストに繋いで、機

関投資家の注文をさばく新しいシステムを作ってる。接続と、執

行。日本のやり方を知ってて、英語が読めるやつが要る。おまえ、

英語できたよな」

「読めます」

「喋れる?」

「……読めます」

課長は笑った。「まあ、行けば喋れるようになる」

恒一は三十三歳になっていた。

前の人生でも、この出張はあった。同じ年、同じ辞令。だが前の

自分は、二年間、カナリー・ワーフのオフィスとフラットの往復し

かしなかった。英語は最後まで喋れず、日本人だけで固まって、二

年後に何も変わらずに帰ってきた。

今回の恒一の英語は、少し違う。三十五年、英語の技術文書を読

み、二〇一〇年代からはオンラインの会議で、聞き取れないままに

頷き続けた。喋る練習はしていない。だが、耳は少しだけ開いている。

十九歳の口に、五十七歳の耳。

出発の前日、恒一は実家に電話した。父が出た。

「イギリスか。気をつけろ」

「うん」

「煙草、やめたぞ」

「……そう」

「一年前にな。言ってなかったか」

言っていなかった。恒一は、受話器を握ったまま、少し黙った。

父が死んだのは、前の人生では二〇〇四年の二月だった。あと五か月。

「父さん。来年の冬、検査、受けて。心臓」

「なんだそりゃ」

「いいから」

父は笑って、「おまえは母さんと同じことを言う」と言った。


二 カナリー・ワーフ

ロンドンの子会社は、カナリー・ワーフの高層ビルの十八階にあった。

窓の外に、テムズ川と、ドッグランド・ライト・レイルウェイの

高架が見えた。オフィスには、日本人が八人、イギリス人が四十

人、インド人が十人、その他が十五人いた。

初日、恒一のマネージャーになったのは、イアンという四十代の

スコットランド人だった。

「ムラセ。日本の発注ゲートウェイを作ったと聞いた」

「作りました。一部を」

「一部?」

「全部は、一人では作れません」

イアンは、少し目を細めて、それから笑った。

「いい答えだ。ここには、全部を一人で作ったと言う人間が多す

ぎる」

恒一のデスクは、イギリス人のプログラマ二人の間だった。左の

トムは二十八歳で、ケンブリッジを出て、金融しか知らなかった。

右のプリヤは三十歳で、ムンバイ出身で、恒一と同じくらいの英語

を、恒一の倍の速さで喋った。

最初の三週間、恒一はほとんど喋らなかった。

聞いた。会議の英語の、七割はわかった。三割はわからなかっ

た。わからない三割を、会議のあとで、プリヤに聞いた。プリヤは

面倒がらずに教えてくれた。

「あなたの英語、変わってる」四週目に、プリヤが言った。「単

語は、すごく専門的。でも、文は、子供みたい」

「そうだと思う」

「どこで勉強したの」

「本と、……画面で」

プリヤは笑った。「じゃあ、喋る練習をしなさい。毎日、ランチ

で」


三 二〇〇四年、二月

その日は、水曜日だった。

前の人生で、父が死んだ日。

恒一は朝から、時計を見ていた。日本との時差は九時間。父が倒

れたのは、記憶では、夕方の六時ごろ。ロンドンの朝の九時。

九時を過ぎた。電話は鳴らなかった。

十時。十一時。昼。

恒一はランチに行かず、デスクで、コードを書いていた。手は動

いていたが、頭は動いていなかった。

三時、恒一は席を立って、ビルの下の公衆電話から、実家にかけ

た。日本は深夜零時。

母が出た。

「なに、こんな時間に」

「父さんは」

「寝てるわよ。どうしたの」

「……いや。元気?」

「元気よ。先月、検査行ったの。あんたが言うから。なんもな

かった。お医者さんが、煙草やめてよかったですねって」

恒一は、公衆電話のガラスに額をつけた。

「そう」

「どうしたの、恒一。声、変よ」

「なんでもない。寒いだけ」

電話を切って、恒一はテムズ川を見た。

父は死ななかった。

十四年前、新潟の墓の前で「やめたほうがいいよ」と言った。そ

れだけだ。それだけで、父は、記憶にない日を、生き始めた。

小さな干渉が、大きな差分になった。

そして、ここから先の父の人生を、恒一は知らない。

初めて、恒一は、知らないことを、怖いと思わなかった。


四 二〇〇四年、春から秋

システムは、予定より三か月遅れていた。

ロンドン証券取引所の新しい接続仕様が、途中で変わった。ユー

ロネクストの仕様は英語とフランス語で、どちらも間違っていた。

トムは怒り、プリヤは笑い、イアンは会議を増やした。

いちばんの問題は、試せないことだった。

ユーロネクストの試験環境は、週に二日、決まった時間しか開か

ない。開いても、板は薄く、約定はまばらで、注文を分割して出す

仕組みを、本気で試すことができなかった。トムは「本番で試すし

かない」と言い、イアンは「それは駄目だ」と言った。

恒一は、シミュレータを書いた。

一九九一年の三百行を、二〇〇四年の機械の上で、ユーロネクス

トの仕様どおりに。板を持ち、注文を受け、値段優先、時間優先で

突き合わせて、約定を返す。それに、過去一か月の本番の気配デー

タを流し込んで、板を動かした。週に二日ではなく、いつでも、何

度でも、同じ一日を再生できる偽の取引所。

三週間かかった。誰にも頼まれていなかった。

「これは、なんだ」

イアンが、恒一の画面を見て言った。

「ユーロネクストです。偽物ですが」

イアンは、しばらく画面を見て、それから、トムを呼んだ。トム

は、十分間、恒一の偽の取引所に注文を投げ続けて、「本物より、

素直だ」と言った。

その偽物の上で、恒一は、執行の仕組みを書き直した。板をメモ

リに映す部分と、大きな注文を、時間と出来高に合わせて小さく分

けて出す部分。VWAP、TWAPと呼ばれる、機関投資家向けのやり

方。一九九一年に相手から作り、一九九五年に日本の板で書き直

し、二〇〇一年に五反田で鉛筆で書いた考え方を、二〇〇四年のロ

ンドンの板の上で、もう一度書いた。

今回は、前より速かった。そして、初めて、本番の前に、一か月

分の一日を、何百回も走らせてから出した。

イアンが、レビューの席で言った。

「ムラセ。シミュレータは、会社のものだ。ここで書いた」

「はい」

「じゃあ、こっちは。この執行の設計は、誰のだ」

「私のです」

「会社の?」

「いいえ。私のノートの」

イアンは、少し困った顔をした。

「それは、ちょっと面倒だな。うちは、ここで書いたものは全

部、会社のものになる」

「知っています。ここで書いたものは、会社のものです。ノート

は、日本の私の部屋にあります」

「……なるほど。線を、引いているんだな」

「はい」

イアンは頷いた。「いい。それでいい。ただ、その線は、自分で

守れ。誰も守ってくれないから」

夏の終わり、恒一は初めて、会議で自分から発言した。三十秒く

らいの、拙い英語。終わったあと、トムが「今のは、正しい」と

言った。それだけだった。

十月、システムは動いた。本番の初日、ユーロネクストの約定

は、偽物の上で見た数字と、ほとんど同じ形をしていた。

イアンが、その夜、パブで言った。

「三週間、勝手にやってたな」

「はい」

「次からは、先に言え。……でも、あれがなかったら、十月には

出せなかった」

それが、イアンからの、最初の評価だった。


五 二〇〇五年、七月七日

千夏に会ったのは、その年の春だった。

篠原千夏。三十二歳。日本の本社から、オペレーション部門の応

援で来ていた。金融の裏側、約定のあとの決済と照合を、十年やっ

ている人だった。

最初の会話は、障害の夜だった。

深夜、ユーロネクスト向けの約定が三件、照合から漏れた。原因

はシステムだった。恒一が書いた執行の部分ではなかったが、恒一

が直すことになった。

千夏は、オペレーション側から、漏れた三件の手作業の照合をし

ていた。

「村瀬さん、これ、明日の朝までに直りますか」

「直ります」

「本当に?」

「本当です」

千夏は、しばらく恒一を見て、言った。

「じゃあ、信じます。直らなかったら、私が朝、パリに電話して謝るので」

直った。朝の四時に。千夏は、それまで帰らなかった。

帰りのタクシーの中で、恒一は、記憶を探した。

前の人生でも、この出張はあった。同じ年、同じオフィス。

ユーロネクストの照合漏れも、たぶん、あった。日本の本社から、

オペレーションの応援が来ていたことも、たぶん、あった。

だが、顔が、出てこなかった。名前も。

前の人生の恒一は、二年間、オフィスとフラットの往復しかしな

かった。障害が起きれば直し、直せば帰った。誰が照合をしていた

か、誰が朝まで待っていたか、見なかった。

つまり、彼女は、あのときも、そこにいた。同じ夜に、同じ三件

を、手で照合していたかもしれない。そして、前の恒一は、彼女

に、一言も言わなかった。「直ります」とも、「本当です」とも。

恒一は、タクシーの窓に映る、三十四歳の自分の顔を見た。

前の人生で失ったものは、株でも、時間でもなかった。見なかっ

たもの、だった。

それから、二人は、たまにランチを一緒に食べるようになった。

プリヤが「あの人は誰」と聞き、恒一が「同僚」と答え、プリヤが

「嘘」と言った。

七月六日の夜、恒一は、フラットで、眠れなかった。

明日の朝、地下鉄で、爆弾が爆発する。三か所。それから、バス

が一台。五十二人が死ぬ。

前の人生でも、恒一はこのオフィスにいた。あの日、イアンが全

員の名前を呼んで、全員がいた。それは、覚えている。オフィスか

ら、死んだ人間は出なかった。

だから、千夏も、無事のはずだった。

だが、恒一は、前の人生の千夏を、覚えていなかった。顔も、名

前も。全員がいた、という記憶の中に、彼女が入っていたのかどう

か、確かめようがない。応援で来ていた日本人が、あの朝、たまた

ま休んでいたのか、たまたま遅れたのか、たまたま、いつもの線に

乗らなかったのか。

そして、この世界は、ずれる。八王子の白線が、二台分。中野の

花が、五十メートル。ずれて、結果が変わらなかったこともある。

ずれて、結果が変わることも、たぶん、ある。

前の人生で無事だった人間が、今回も無事だという保証は、

どこにもなかった。

恒一は、天井を見ていた。

電話をかければ、彼女は、自分を変な男だと思う。理由を聞かれ

る。答えられない。かけなければ、明日の九時に、いつもの線で、

いつもの駅に向かう。たぶん、無事だ。たぶん。

たぶん、で、済ませられるか。

中野で、自分は、五十メートル先に立っていた。何もできなかっ

た。あのとき、コンビニの「はやし」さんに、「明日の六時は、商

店街を歩くな」と言うことは、できたはずだった。言わなかった。

変な男だと思われるのが、嫌だったからだ。それだけの理由で。

夜が明けかけたころ、恒一は、決めた。

七月七日の朝、恒一は千夏に電話した。

七時半。千夏は、シティのフラットから、地下鉄で通っている。

「篠原さん、今日、タクシーで来てもらえませんか」

「……なんで」

「理由は、言えません。お願いします。タクシー代は、私が出します」

電話の向こうで、千夏は少し黙った。

「村瀬さん、変なこと言うんですね」

「はい」

「わかりました。タクシーで行きます」

八時五十分、ロンドンの地下鉄で、爆弾が爆発した。三か所。

それから、バスが一台。

オフィスのテレビの前に、全員が集まった。イアンが、全員の名

前を、一人ずつ呼んだ。全員いた。

千夏は、恒一のデスクの横に立って、テレビを見ていた。

「村瀬さん」

「はい」

「あとで、話があります」


六 その夜

カナリー・ワーフの、川沿いのパブだった。地下鉄が止まってい

るので、誰も帰れない。パブは満員で、誰もが小さな声で喋っていた。

千夏は、最初の十分、何も言わなかった。

ビールを頼み、来たビールに口をつけず、テレビの続報を見てい

た。死者の数が、画面の下で増えていった。三十七。四十一。

「村瀬さん」

「はい」

「私、いま、すごく怖いんです」

恒一は、何も言わなかった。

「朝、電話がかかってきて、理由は言えないけどタクシーで来い

と言われて。変な人だなと思って、でも、まあいいかと思って、タ

クシーに乗りました。そうしたら、地下鉄が爆発した。私が、いつ

も乗る線が」

千夏は、ようやくビールを一口飲んだ。

「これ、照合だと、どう考えるかわかりますか」

「……わかりません」

「数字が合わない伝票が出てきたとき、私は、理由を三つ考えま

す。入力ミスか、システムの不具合か、誰かが意図的にやったか。

三つ目が、いちばん多い」

恒一は、ジョッキを握った。

「村瀬さんが、今朝の電話をかけられた理由も、三つしか思いつ

かないんです。一つ、偶然。二つ、あなたが、あの人たちの仲間

か、仲間に近いところにいる。三つ、あなたは、どこかで、あれが

起きることを知ってしまって、誰にも言わなかった」

「偶然ではありません」

「じゃあ、二つ目か、三つ目」

「……三つ目です」

千夏は、恒一をまっすぐ見た。

「五十人以上、死んでます」

「知っています」

「知ってて、私にだけ電話した」

「はい」

「警察には」

「していません」

「なぜ」

恒一は、考えた。十五年、誰にも言わなかったことを、どう言え

ばいいのか、わからなかった。

「私は、たまに、先のことがわかる気がします」

「気がする」

「はい。理由は説明できません。夢のようなもので、当たること

もあるし、当たらないこともある。当たったときは、たいてい、悪

いことです」

「それを、そのまま、警察に言うのは」

「言えません。日付と、場所だけを、名前も証拠もなく、外国人

が電話で言って、信じますか」

千夏は、少し黙った。

「信じないでしょうね」

「私が警察なら、電話をかけてきた人間を調べます。それだけです」

「それでも、かけるべきだったんじゃないですか」

その言葉は、恒一が十五年、自分に言い続けてきたものだった。

「……そうかもしれません」

千夏は、ジョッキを両手で持って、しばらく画面を見ていた。死

者の数が、四十九になっていた。

「村瀬さん。前にも、ありましたか。こういうこと」

恒一は、嘘をつくこともできた。だが、この人は、直ると言った

言葉を、朝の四時まで信じて待った人だ。

「ありました」

「いつ」

「……いくつか。大きなものも」

「大きなもの」

「二〇〇一年の、九月」

千夏の顔が、変わった。

「あれも」

「はい」

「あれも知ってて、何もしなかった」

「はい」

「神戸は」

「……はい」

千夏は、ジョッキを置いた。手が、少し震えていた。

「あなた、何者ですか」

「わかりません」

「ふざけないでください」

「ふざけていません。本当に、わからないんです。わかっている

のは、たまに先のことがわかること、それを誰にも証明できないこ

と、そして今朝、それを使って助けられる人が、あなた一人だった

ことだけです」

「私一人」

「電話をかけて、理由を言わずにタクシーに乗れと言って、聞い

てくれる人が、他にいませんでした」

千夏は、しばらく黙っていた。パブの喧騒が、二人の間を通り過

ぎていった。

「それは、答えになってません」

「……はい」

「私が助かったのは、うれしいです。それは本当です。でも、今

の話を聞いて、あなたを信じることはできません」

「はい」

「あなたが嘘つきなら、私が知ってる中で、いちばん悪い嘘つき

です。今朝の電話を、あとから自分の手柄にするために、五十人が

死んだ日を使ってる」

「はい」

「あなたが本当のことを言ってるなら、あなたは、十五年か二十

年か知りませんけど、そういうものを一人で抱えて、誰にも言わず

に、毎朝会社に来て、システムを直してた」

恒一は、答えなかった。

「どっちも、私には、確かめようがない」

「……はい」

千夏は、ビールを飲み干した。

「保留にします」

「保留」

「照合で、合わない伝票を、すぐには処理しないときがありま

す。証憑が足りないとき。一週間、机の端に置いておく。辻褄が合

うか、合わないか、それまで待つ」

「わかりました」

「一つだけ、約束してください」

「なんですか」

「次に、そういうことがわかったら、私にだけじゃなくて、通報

してください。信じてもらえなくても。調べられても。それでも、

かけてください」

恒一は、ジョッキを見た。

十五年、自分がしなかったことだった。理由は、いくらでもあっ

た。信じない。証拠がない。調べられる。何も変わらない。全部、

本当だった。

だがこの人は、それを全部わかった上で、「それでも」と言って

いる。

「……約束します」

「じゃあ、今日は、帰ります。地下鉄が動いてないので、歩いて」

「送ります」

「いいです。一人で考えたいので」

千夏は立ち上がって、コートを取った。ドアの前で、一度だけ振

り返った。

「村瀬さん。タクシー代、あとで請求します」

それが、その夜の最後の言葉だった。

パブの外を、サイレンが通り過ぎた。


七 保留

一週間、千夏は、恒一のデスクに来なかった。

、恒一のデスクに来なかった。

ランチも、来なかった。廊下ですれ違うと、会釈だけした。プリヤが

「喧嘩したの」と聞き、恒一は「わからない」と答えた。

恒一は、その一週間、自分が何をしたのかを、何度も考えた。

言った。初めて。十五年で、初めて。

言ったあとで、相手は、自分をテロリストの仲間か、五十人を見

殺しにした人間か、その両方かもしれない、と言った。そして、そ

れでも、次は通報しろ、と言った。

前の人生には、なかった会話だった。

八日目の朝、千夏が、恒一のデスクの横に立った。

「タクシー代、二十三ポンドでした」

恒一は、財布から、二十五ポンドを出した。

「お釣りは、いいです」

「じゃあ、もらいます」

千夏は、二十五ポンドをポケットに入れて、言った。

「保留、続けます」

「はい」

「ランチも、続けます」

「……はい」

「辻褄が合うまで、何年かかるか、わかりませんけど」

千夏は、それだけ言って、自分の席に戻った。

プリヤが、隣で、小さく「嘘じゃなかったのね」と言った。

恒一は、何が嘘じゃなかったのか、聞かなかった。


八 二〇〇五年、十二月

二年の出張は、十二月で終わった。

帰国の前日、イアンが恒一を呼んだ。

「ムラセ。うちに残らないか。正式に。給料は、日本の二倍出す」

「ありがとうございます。でも、帰ります」

「なぜ」

恒一は、少し考えて、言った。

「父が、生きているので」

イアンは、その答えの意味を、たぶん理解しなかった。だが、頷いた。

「わかった。線は、守れよ」

「はい」

千夏は、恒一より一か月早く、東京に戻っていた。

ヒースローの出発ロビーで、恒一は公衆電話から、東京の千夏の

携帯にかけた。

「明日、着きます」

「はい」

「……あの」

「なんですか」

「東京で、また、ランチを」

「ランチだけですか」

恒一は、受話器を握ったまま、答えに詰まった。

三十五歳。前の人生では、この年、誰とも、こういう会話をしな

かった。四十歳でも、五十歳でも、五十七歳でも、しなかった。

だから、この先の台詞を、恒一は知らない。

「……ランチだけじゃ、ないです」

「じゃあ、待ってます」

搭乗の案内が、流れた。

(第四部 了)

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