再起動、一九九〇 第三部 —— 線を引く
一 二〇〇〇年、十一月
三上から電話があったのは、ITバブルが崩れ始めて二か月後だった。
「村瀬、飲もう」
中野の居酒屋で、三上は最初のビールを一口で半分空けた。
「やばい」
「何が」
「全部」
三上が移ったベンチャーは、工業部品のネットオークションを
やっていた。工場の余剰在庫を、ネットで売る。買い手は町工場。
仕組みは単純で、市場は確かにあった。金も集まった。春までは。
作ったのは、三上の大学の同期だった。岡田という男で、商社を
辞めて、自分の金と、親の金と、集めた金で始めた。三上は、その
二人目だった。肩書きは取締役。担当は「システムと営業」。
株は五パーセント。
「俺、コード書けないのに、システム担当だぞ」三上は、春に恒
一に言っていた。「でも、岡田より、わかる。それだけで、担当になった」
そのときは笑い話だった。
「秋に予定してた増資が飛んだ。投資家が全員、手を引いた。社
員は二十人、キャッシュはあと五か月分」
「岡田は」
「金策で、走り回ってる。……正直、あいつ、もう、逃げ道を探
してる顔をしてる」
「サービスは動いてるのか」
「動いてる。動いてるけど、遅い。取引が増えると落ちる。外注
に作らせたやつが、ひどい」
恒一はビールを飲んだ。
前の人生でも、三上はこの会社にいた。二〇〇二年の春に潰れ
て、三上は半年失業して、別の会社に入った。恒一はその話を、後
になって聞いただけだった。あのころの自分は、立会場の閉鎖のあ
との残務で、誰の話も聞いていなかった。
「村瀬。おまえ、見てくれないか。うちのシステム」
「無理だ」
「なんで」
「うちの会社は、兼業禁止だ」
「金は払わない。いや、払えない」
「そういう問題じゃない」
三上は黙った。それから、ジョッキの底を見ながら言った。
「わかってる。わかってて言ってる。おまえしか知らないんだよ、
注文を板で突き合わせる仕組みを、本当に速く作るやり方を。
大学で、取引所の偽物を作ったって言ってたろ」
恒一は、答えなかった。
その夜、中野の部屋で、就業規則を最初から最後まで読んだ。
兼業の禁止。会社の情報の外部持ち出しの禁止。競業の禁止。
工業部品のオークションは、証券会社の競業ではない。金を受け
取らなければ、兼業でもない。会社の情報を一行も持ち出さなけれ
ば、持ち出しでもない。
だが、それは規則の話だ。
恒一が本当に考えていたのは、別のことだった。
自分の大学ノートは、誰のものか。
二 線
ノートは十二冊になっていた。
一九九一年の夏、大学の計算機センターで書いた三百行から始
まって、一九九九年の立会場閉鎖まで、恒一が仕事の外で書き続け
た設計。会社に入ってからは、会社で書いたコードは一行もノート
に写していない。逆に、ノートの設計は、会社のシステムの中に、
形を変えて入っている。
境界は、恒一の頭の中にしかなかった。
二〇二六年の自分なら、迷わなかっただろう。ノートの設計は自
分の知的財産で、会社のコードは会社のものだ。三十五年、その線
を引き続けてきた。フリーになってからは、その線が生活そのもの
だった。
二〇〇〇年の三十歳の自分に、その線を引き直せるか。
恒一は、一週間考えた。
そして、ルールを四つ、ノートの最後のページに書いた。
一、会社のコードは、一文字も見せない。 二、会社の顧客、取
引所、仕様、障害、いかなる情報も口にしない。 三、金も株も、
受け取らない。 四、三上の会社のサービスが、証券や金融に近づ
いたら、その日にやめる。
書き終えて、三上に電話した。
「土曜の夜なら、話は聞く。それだけだ」
三 二〇〇一年、冬から春
土曜の夜、三上の会社の事務所は、五反田の雑居ビルの四階に
あった。
二十人の会社に、机は三十あった。半分は空いていた。春に採用
した人間の半分が、秋に辞めたからだ。
三上がシステムの構成図を広げた。恒一は、それを見て、二分で
問題がわかった。
「ここだ」
「どこ」
「注文を受けるたびに、データベースに書いて、読んで、また書
いてる。一回の取引で、六回ディスクに行ってる。取引が増えれ
ば、当然詰まる」
「じゃあ、どうすれば」
恒一は、白い紙を一枚もらって、鉛筆で、板を書いた。
売りと買いを、価格ごとに並べる。全部メモリに置く。注文が来
たら、まずメモリで突き合わせて、約定だけを後からディスクに書
く。落ちたときのために、注文の到着だけは先に記録しておく。
一九九一年の三百行、あの偽の取引所の、いちばん基本の考え方
だ。恒一の本業は、板に注文を送る側だった。だが、送る側は、受
ける側がどう動くかを、知らなければならない。
「これ……そんなに単純なのか」
「単純だ。単純なやつが速い」
三上は紙を見つめていた。
「これ、おまえの会社のやつと同じか」
「違う」恒一は言った。「これは、俺のノートのやつだ。うちの
会社のは、これより古くて、これより複雑で、これより遅い」
嘘ではなかった。会社のシステムには、九〇年代の制約と、途中
で変わった仕様と、何度も入った緊急パッチの跡がある。ノートの
設計には、それがない。
だが本当のことを言えば、両方とも、同じ二〇二六年の記憶から
生まれていた。それだけは、三上にも、誰にも、言えなかった。
「土曜だけだからな」
「わかってる」
「書くのは、おまえらだ。俺は書かない」
「……わかってる」
三月まで、毎週土曜の夜、恒一は五反田に通った。
書かなかった。ただ、三上の会社の若いプログラマが書いたコー
ドを読み、紙に鉛筆で、どこが遅いかを書いた。若いプログラマは
二十四歳で、最初は恒一を怪しんでいたが、三週目には、恒一の書
いた紙をファイルに綴じるようになった。
四月、新しい突き合わせ部分が動いた。
取引は、落ちなくなった。
四 二〇〇一年、五月
上司の課長が、恒一を廊下で呼び止めた。
「村瀬。最近、土曜に会社来ないな」
「はい」
「前は、毎週いたのに」
「休んでます」
課長は、しばらく恒一を見て、言った。
「なんか変わったな。悪い意味じゃない。前は、土日も会社にい
て、なんか、ここしか居場所がない、みたいな顔してた」
「そう見えましたか」
「見えた。まあ、いい。休め」
課長は去った。
恒一は、廊下の窓から、大手町のビルの間の空を見た。
前の人生の三十歳は、たぶん、あの顔をしていたのだ。土曜も日
曜も会社にいて、ここしか居場所がなくて、誰の話も聞いていなかった。
今も、自分は会社の人間だ。会社のコードを書き、会社の障害を
直し、会社の給料をもらっている。土曜の夜に五反田で紙に鉛筆で
書いているのは、自分の知っていることの、ごく一部だ。
だが、その一部は、会社の中では誰にも渡せないものだった。
線を引いたから、渡せた。
五 二〇〇一年、九月十一日
その夜、恒一は五反田にいた。
事務所のテレビが、ニューヨークの映像を流し始めたとき、三上
が「なんだこれ」と言った。若いプログラマが、キーボードから手
を離した。
恒一だけが、画面を見なかった。
知っていた。この日を、一九九〇年の四月から、十一年間、知っ
ていた。
そして、この日についても、自分は何もできなかった。誰に、何
を、言えばよかったのか。
「村瀬、見ろよ、これ」
「見てる」
「見てないだろ」
恒一は顔を上げて、画面を見た。二本の塔。煙。
「三上。明日から、しばらく市場が荒れる。うちの会社は、たぶ
ん一週間、戦場になる」
「……わかった。しばらく来なくていい」
「そうする」
恒一は事務所を出て、山手線に乗った。
車内で、誰も喋っていなかった。携帯電話の画面を、みんなが見ていた。
十一年前、京王線の車内は煙草の煙で白かった。今は、青白い携帯の光で満ちている。
前の人生で、この夜、自分はどこにいたのだろう。たぶん会社
だ。たぶん、翌朝の取引所の開場に向けて、システムの負荷を確認していた。
今回も、明日はそうする。
それだけが、自分にできることだった。
六 二〇〇二年、四月
三上の会社は、潰れなかった。
増資は結局来なかった。
岡田は、二〇〇一年の夏に、いなくなった。辞めた、というよ
り、消えた。大手のメーカーに、部長待遇で拾われたと、あとで聞
いた。自分の株は、額面で三上に押しつけていった。「おまえがや
りたいなら、やれ」と、置き手紙のような一枚の紙に書いて。
三上は、やった。やりたかったわけではない。社員が、まだ十五
人いて、辞めた岡田の代わりに、誰かが社長の名前で銀行に行かな
ければならなかった。それだけだった。
「俺、社長だぞ。笑えるだろ」
「笑えない」
「だよな」
社員は二十人から十一人に減った。三上は役員報酬をゼロにし
て、事務所を五反田から大井町の、もっと小さいビルに移した。
だが、サービスは動いていた。取引は増えていた。町工場の人間
が、朝の五時に、家のパソコンから部品を買った。システムは落ちなかった。
前の人生では、この春、この会社は消えていた。
これは、自分が変えたものだ。
初めての、はっきりした差分だった。
三上が、大井町の事務所で言った。
「村瀬、株、持ってくれ。一パーセントでいい。岡田の分が、俺のところで余ってる」
「いらない」
「なんでだよ。おまえがいなかったら、うちはないんだぞ」
「いらない。俺は、うちの会社の人間だ。株を持った瞬間に、そ
れが崩れる」
「そんなに、大事か。あの会社が」
恒一は少し考えた。
「会社は、どうでもいい。大事なのは、線だ」
三上は、わかったような、わからないような顔をした。
「じゃあ、せめて飯を奢らせろ」
「それはいい」
大井町の中華屋で、三上は餃子を三人前頼んだ。
「なあ。おまえ、この先も、こういうことするのか。人の会社
に、土曜の夜だけ、鉛筆で」
「わからない」
「俺は、思うんだけどな。おまえ、いつか、会社やめるよ」
恒一は餃子を食べながら、答えなかった。
二〇二六年の自分は、フリーだった。会社をやめたのは四十代
だ。それが今回も同じかどうかは、もうわからない。駐車場の白線
の数が違う世界で、自分の人生だけが記憶どおりに進む保証は、ど
こにもない。
「なあ、三上」
「なに」
「工業部品のオークション、絶対に、金融には手を出すな。株とか、為替とか、そっちには」
「なんで」
「線を、越えるからだ」
三上は餃子を口に入れて、頷いた。
「わかった。約束する」
その約束が守られるかどうかも、恒一は知らなかった。
七 二〇〇二年、九月、中野
九月の第二土曜日を、恒一は五年前から知っていた。
中野の、駅の北口の商店街。夕方の六時過ぎ。男が、包丁を持っ
て、歩いている人を、後ろから刺す。一人が死に、二人が怪我をす
る。犯人は、その場で取り押さえられる。
前の人生では、ニュースで見ただけだった。当時、恒一は中野に
住んでいた。事件の翌朝、通勤路に、花が置いてあった。死んだの
は、四十代の女性。名前は、覚えていない。顔も、知らない。
今回は、違った。
恒一は、中野に住んでいる。商店街のコンビニに、毎晩、寄る。
レジにいるのは、いつも同じ、四十代の女性だった。名札に「はや
し」とあった。恒一が「どうも」と言うと、「お疲れさま」と言
う。それだけの関係だった。
前の人生で花が置かれていた場所は、そのコンビニの、二軒隣だった。
「はやし」さんかどうかは、わからない。四十代の女性は、この
商店街に、何百人といる。だが、恒一は、毎晩、名札を見るたび
に、思うようになっていた。
通報はしなかった。理由は、いつもと同じだった。信じない。
証拠がない。何も変わらない。
だから、自分で行くことにした。
八 六時
土曜日、五時半、恒一は商店街に立っていた。
花が置かれていた場所の、前。八百屋と、時計屋の間。人通りは
多かった。土曜の夕方だった。
六時。何も起きなかった。
六時五分。六時十分。恒一は、通り過ぎる男の、全員の手を見
た。包丁を持っている手は、なかった。
六時十四分、後ろで、悲鳴が上がった。
恒一は、振り返った。
五十メートル、駅寄りだった。
走った。人が、逆に走ってくる。押し分けて、着いたとき、男が
一人、地面に押さえつけられていた。押さえているのは、八百屋の
主人と、知らない若い男だった。男の手から、包丁が、二メートル
先に転がっていた。
倒れているのは、三人。
一人は、女性だった。恒一は、その顔を見た。
「はやし」さんではなかった。
知らない人だった。四十代の、知らない女性。血が、アスファル
トに広がっていた。
恒一は、その場に、立っていた。何もできなかった。何も、して
いなかった。五十メートル先で、六時から十四分、通り過ぎる男の
手を見ていただけだった。
九 ずれ
翌朝、花が置かれていた。
前の人生と同じ場所ではなかった。五十メートル、駅寄り。八百
屋の前ではなく、パン屋の前。
恒一は、その前を、通勤路として通った。
八王子の駐車場の白線が、六台分だった。前の人生では、八台分
だった。あのときは、まだ、ただの違和感だった。
今は、違う。
五十メートル、ずれた。ずれたから、自分は間に合わなかった。
ずれなければ、間に合ったのか。それも、わからない。間に合っ
て、何ができたのか。包丁を持った男の前に、自分が立って、何が
できたのか。
そして、結果は、同じだった。一人が死に、二人が怪我をした。
人数は、変わらなかった。場所だけが、ずれた。
手順を守っても、ずれる。ずれるのに、結果は同じ。
その夜、恒一は、コンビニに寄った。「はやし」さんは、レジにいた。
「お疲れさま」
「……どうも」
恒一は、缶コーヒーを一本買って、店を出た。
「はやし」さんは、生きている。だが、それは、恒一が何かをし
たからではなかった。最初から、「はやし」さんではなかっただけだ。
大学ノートの十四冊目の最後のページに、恒一は、一行だけ書いた。
「変えられない。ずれるだけ」
それが、二〇〇八年まで、恒一が誰にも電話しなかった理由の、
いちばん深いところにあった。
(第三部 了)




