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第九章 サルタビコ


 集落に戻ると——光っていた。

 鼻が。

 集落の外。道の端。夜の闇の中に——白い光が浮かんでいた。見覚えがある光。

「……なぜここにいる」

「来た。」

 サルタビコが——地上に立っていた。

 橋の上で見たときより小さく見えた。いや——小さくなったのではない。周りに山があるからだ。橋の上では比べるものがなかった。地上には山がある。木がある。サルタビコは大きいが——山ほどではない。

 しかし——鼻の光は変わらなかった。暗闇の中で白く光っている。

「境界はどうした。守らなくていいのか」

「閉じた。——お前を通した後に。もう誰も降りてこない」

「では——何をしに来た」

「確かめに来た。」

 サルタビコが俺を見下ろした。赤い顔。霧の中で隠していた顔が、地上の夜風に晒されている。

「お前は——地上で何を守るか、見つけたか。」

「…………」

「見つけたなら、剣を抜け。」

 見つけたのか。分からない。コノハナの顔が浮かんだ。花びらが浮かんだ。あの黒い目が。あの声が。

 しかしそれが「守るもの」なのか。会いたい。話したい。名前を呼びたい。それは——守りたいとは違う気がする。

「……まだ分からない」

「分からないか。——ならば剣を抜け。分からないまま振れ。」

「分からないまま振っても——」

「お前はいつも分かってから動こうとする。天の者の癖だ。——地上では、動いてから分かる」

 動いてから分かる。

 抜いた。草薙剣(くさなぎのつるぎ)。雲模様の刃。光っていない。

 サルタビコが——構えた。初めて見た。この男が構えるのは。橋の上では腕を組んで立っていただけだった。息を吐いただけだった。手のひらを出しただけだった。

 今は——両手を前に出していた。指を開いていた。受けるつもりだ。

 走った。

 足が重い。地上の重力が足にかかる。しかし——橋の上より踏み込めた。土があるから。足が沈む。沈んだ分だけ——押し返してくる力がある。

 振った。

 横に。サルタビコの胴に向かって。

 手のひらが来た。受けた。しかし——押し返されなかった。橋の上では弾かれた。今は——止まっているだけ。拮抗している。

「……重くなったな。」

「地上が重いからだ」

「違う。——お前が重くなった。」

 手のひらが押した。押し返した。足を踏ん張った。土を掴んだ。

 ——土を掴んだ。

 足の裏が土を掴む感覚。初めてだった。高天原(たかまがはら)では床を掴めなかった。光の床は滑る。地上の土は——掴める。足の指が土に食い込む。

「もう一回。」

 サルタビコが言った。

 振った。今度は上から。剣を頭上に構えて、振り下ろした。

 サルタビコが片手で受けた。衝撃が腕を伝わった。手が痺れた。しかし——剣は手の中にあった。離れなかった。橋の上では弾き飛ばされかけた。今は握れている。

「三回目。——来い。」

 三回目。

 走った。低く。足が土を蹴った。土が砕けた。踏み込みが強い。自分でも驚くほど。地上の重力が——味方している。体が重い分だけ、踏み込みが深い。

 突いた。刃先をサルタビコの胸に向けて。

 サルタビコが——横に動いた。避けた。初めて。手のひらで受けるのではなく——避けた。

 すれ違った。背中が見えた。赤い顔が振り返っていた。

「……避けたのか」

「受けたら——痛かったからな。」

「…………」

「嘘だ。——受けても痛くはない。しかし、受ける必要がなくなった。」

「どういう意味だ」

「お前の剣に——何かが乗り始めている。力ではない。もっと——柔らかいもの。」

 柔らかいもの。

 剣を見た。雲模様が——

 ——動いていた。

 光ってはいない。しかし——雲模様がゆっくりと渦を巻いていた。刃の中で。嵐のようにではない。風が丘の上の草を撫でるように。

「……動いてる」

「ああ。——動いている。橋の上では微動だにしなかった剣が。」

「なぜだ。何が変わった」

「お前が変わった。——天の者のまま振っていた剣を、地の上で振っている。足が土を掴んでいる。それだけで剣は変わる。」

 足が土を掴んでいる。

 根を張る——とはこういうことか。まだ分からない。しかし——近い気がした。

「もう一度——」

 振ろうとした。力を込めた。さっきの感覚をもう一度。雲模様が動いた感覚を。

 ——暴発した。

 剣から——光が出た。

 出た。しかし——出すぎた。

 白い光ではなかった。金色だった。くすんだ金色。嵐の色。草薙剣(くさなぎのつるぎ)の中に眠っていた力が——制御なしに噴き出した。

 光が——横に飛んだ。

 木が倒れた。三本。光が木の幹を薙いで、なぎ倒した。地面が抉れた。土が飛んだ。

「——止めろ!」

 サルタビコが叫んだ。手のひらが——光を叩いた。光が散った。金色の粒が夜の闇に飛び散って、消えた。

 剣が——沈黙した。雲模様が止まった。光が消えた。

 手が震えていた。

 三本の木が倒れていた。地面に溝ができていた。俺が——やった。剣が——やった。

「…………」

「暴発だ。——力は出た。しかし制御できていない。」

「……分かっている」

「分かっているなら——振るな。制御できない力は味方を傷つける。」

 味方を傷つける。

 木が倒れた方角を見た。——集落があった。あの方角に。握り飯をくれた老人がいる集落が。

 もう少しずれていたら——集落に飛んでいた。

「…………」

 血の気が引いた。

「——天孫。」

「…………」

「力が出ることは分かった。お前と剣は繋がり始めている。しかし——繋がりかけが一番危ない。制御が追いつかない力は、守りたいものを壊す。」

 守りたいものを壊す。

 スサノオ。あの嵐の男。剣の中にいた記憶。あの男も——嵐で何かを壊したのか。守りたくて。

「……この剣の元の持ち主。嵐の神。——あの男も、こうだったのか」

 サルタビコが——黙った。長い沈黙だった。

「……俺は知らない。嵐の神のことは。——しかし、この剣が嵐の力を宿しているなら、嵐と同じだろう。制御できなければ——全てを薙ぐ。」

「……どうすれば制御できる」

「守るものを見つけろ。——見つけて、守ると決めろ。剣は守ると決めた者に応える。振り回す者には暴れる。」

 守ると決める。

 コノハナの顔が浮かんだ。また。しかし——「守る」と決めてはいない。会いたいと思っている。話したいと思っている。二人きりになりたいと思っている。

 それは「守る」ではない。

 ——まだ足りない。

「サルタビコ。——お前はなぜ地上に来た。確かめるためだけか」

「…………」

「境界を閉じた。もう守る場所がない。——お前はこれからどうする」

 サルタビコの鼻の光が——揺れた。

「……俺は——」

「サルタビコさーん!」

 声が飛んできた。集落の方から。明るい声。場の空気に全く合っていない声。

 アメノウズメが走ってきた。

「やっぱりサルタビコさんだ! 光ってたから分かりました!」

「…………」

「地上に来たんですか! すごい! 境界は!」

「閉じた。」

「じゃあこっちにいるんですか! やった!」

「やった——ではない。」

「何でですか。会えたじゃないですか」

「…………」

 サルタビコの鼻の光が——明るくなっていた。暗闇の中で。

「……お前はいつもそうだな。」

「何がですか」

「来る。——呼んでいないのに。」

「呼ばれなくても来ますよ。——光ってるんだから。遠くからでも分かります」

「…………」

 サルタビコが——俺を見た。

「天孫。——もう一度だけ言う。」

「何だ」

「守るものを見つけろ。見つけたら——剣は応える。見つけるまでは振るな。暴発させるな。」

「……分かった」

「それと——」

「何だ」

「倒した木は——直せ。お前が壊したものだ。」

 三本の倒れた木を見た。地面の溝を見た。

「……どうやって直すんだ。木を起こす力はない」

「力で直すな。——手で直せ。」

 サルタビコが歩き出した。集落から離れる方に。山の方に。

 アメノウズメが追った。

「どこ行くんですか」

「山だ。——この辺りの山を見て回る。境界がなくなったから——地上を歩く。」

「一緒に行っていいですか」

「…………好きにしろ。」

 二人が——暗闇の中に消えていった。鼻の光と、明るい声が、遠ざかっていった。

 一人残された。

 倒れた木の前に。溝の前に。

 手で直せ、と言われた。

 ——手で。

 剣を鞘に収めた。膝をついた。溝に手を入れた。土を——掴んだ。戻した。掘れた土を元の場所に。手で。

 重かった。土が。手が。体が。

 しかし——やった。

 倒れた木は起こせなかった。しかし溝は——半分ほど埋められた。手が泥だらけになった。爪の間に土が入った。

 道を作り、田を耕した神がいたと老人は言った。大国主(おおくにぬし)。あの神も——こうやって手で土を触ったのか。

 足の裏が——温かかった。

 五度目。もう気のせいとは思わなかった。


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