第八章 二人きりになれない
山を登った。
大山津見の屋敷は山の中腹にあった。道はあったが急だった。地上の重力が足にかかる。高天原なら浮くように登れた場所を——一歩ずつ、足を持ち上げて、置いて、登る。
「ニニギさま。息切れてますよ」
「黙れ」
「水飲みますか」
「……もらう」
アメノウズメから竹筒を受け取った。集落の老人にもらったもの。水を入れて持ち歩く道具。地上の人間はこういうものを作る。高天原には必要なかった。水がどこにでもあったから。
屋敷が見えた。
大きかった。しかし——高天原の宮殿のような威圧感ではなかった。サルタビコのような巨大さでもなかった。
山の一部だった。
岩と木でできている。壁が岩。柱が木。屋根に苔が生えている。山から生えたような屋敷。建てたのではなく——山がそのまま屋敷の形になったような。
門の前に立った。
「……来た」
「はい。——で、何て言うんですか」
「何を」
「娘さんに会いたいんですけど、って」
「……そうは言わない」
「じゃあ何て」
「……考えている」
「考えてから来ればよかったのでは」
「…………」
門が——開いた。
中から人が出てきた。侍女ではなかった。
女だった。若い。しかしコノハナとは——全く違った。
重かった。
体が大きいという意味ではない。背丈はコノハナと同じくらいだった。しかし——存在が重い。立っているだけで地面が沈んでいるような感覚。足元の土が——硬くなっている。踏んだ場所が石になっている。
黒かった。衣が黒い。髪が黒い。全身が暗い色に包まれている。コノハナの花びらのような柔らかさとは正反対。山の影がそのまま人の形になったような女。
目が——灰色だった。黒い衣の中で、灰色の目だけが光っていた。曇り空の色。
「……天から来た方ですか。」
声が低かった。静かだった。
「……ああ。ニニギだ」
「父が待っています。——こちらへ」
名乗らなかった。案内だけして、先に歩き始めた。背中が見えた。髪が黒い。コノハナの髪と同じ黒さ。しかし揺れない。風が吹いても——動かない。石でできているみたいに。
アメノウズメが小声で言った。
「……あの人、すごいですね」
「何がだ」
「重い。——地面が硬くなってました。踏んだところが」
「気づいたか」
「踊る人間は足元に敏感なんです」
屋敷の奥。広い部屋。
座っていた。
大きかった。サルタビコより——いや、大きさの種類が違う。サルタビコは高さがあった。空に向かって大きかった。大山津見は——横に大きい。幅がある。厚みがある。山そのものが座っているような体。
顔は穏やかだった。目は小さい。口元に皺がある。笑っているように見える。しかし——笑っていなかった。観察していた。俺を。
「……天孫が、山に来るとは珍しい」
声が低い。しかしサルタビコのように地面を揺らさない。静かに低い。
「大山津見。——お前の娘に会いに来た」
「娘。——どちらの」
「…………どちらの?」
「俺には娘が二人いる」
二人。
案内した女が——部屋の隅に座っていた。灰色の目でこちらを見ていた。あの女も——娘なのか。
「木花之佐久夜毘売に——会いに来た」
「佐久夜に。——なぜ」
「…………」
なぜ。答えに詰まった。なぜ会いたいのか。
会いたいから会いたい。それ以外の理由がない。高天原では理由がなくても会えた。地上では——理由を聞かれる。
「……丘の上で会った。話したい」
「話すだけか」
「……今は」
「今は。——今はではない先があるのか」
「…………」
大山津見が——笑った。口元だけ。目は笑っていなかった。
「呼んでこい」
侍女が走っていった。
待った。しばらく。
コノハナが——来た。
部屋に入ってきた。花びらが一枚、肩に乗っていた。黒い目が俺を見た。驚いていた。
「ニニギさま——ここに」
「来た。——お前の父に会いに」
「父に——」
大山津見が咳払いをした。山が咳をする音は——サルタビコのときとは違った。もっと地面に近い音。
「佐久夜。この男は天孫だそうだ。お前と話したいと言っている。——話せ」
「……はい」
コノハナが——座った。俺の向かいに。近い。丘の上より近い。しかし——
大山津見がいた。横に。
侍女がいた。後ろに。
灰色の目の女がいた。部屋の隅に。
二人きりではなかった。
「…………」
「…………」
向かい合って座っている。話せと言われた。しかし——七人の目がこちらを見ている。大山津見。侍女三人。灰色の目の女。そしてアメノウズメ。コノハナ以外の全員が俺を見ている。
「……天気が——いいな」
「……はい。いいですね」
——何を言っている。
天気の話か。会いたくて山を登って、父親に啖呵を切って、それで出てきた言葉が「天気がいいな」か。
アメノウズメが後ろで口を押さえていた。笑いを堪えている。
「……あの。——外で話せないか」
「外。——庭でよければ」
「庭で——」
「お嬢さまには私がお付きします」と侍女。
「私も行きます」と別の侍女。
「俺も立ち合おう」と大山津見。
全員来る気だった。
庭に出た。広い庭。山の斜面を利用した庭。岩が並んでいて、苔が生えていて、水が流れている。
コノハナが花のそばに立った。庭に咲いている花。あの木の花とは違うが——花のそばに立つとコノハナの周りにも花びらが舞い始めた。この人のそばでは花が散る。
「きれいだ——」
言いかけた。
「何がだ」と大山津見。
「……花が」
「花か。——花だけか」
「…………」
探られている。完全に。言葉の一つ一つを量られている。
コノハナが——小さく笑った。困ったような笑い。
「父。——少しだけ」
「少しだけ何だ」
「少しだけ——離れていてくださいませんか」
「なぜ」
「……お花の話をしたいので」
「花の話なら聞かれても構わないだろう」
「…………」
コノハナが俺を見た。黒い目の中の金色の点が——揺れた。「すみません」と言っている目。
仕方ない。花の話をした。大山津見に聞かれながら。侍女に見られながら。灰色の目の女に観察されながら。
花の名前を聞いた。庭に咲いている花の。一つずつ。コノハナが一つずつ教えてくれた。
「これは山吹。これは椿。これは藤。——この白いのは」
「梅だ」
大山津見が答えた。コノハナが答える前に。
「梅は俺が植えた。強い木だ。冬に咲く」
「…………」
花の話のはずが大山津見の植樹の話になった。
二人きりになれなかった。
日が暮れた。
屋敷を出た。山を降りた。
アメノウズメが隣を歩いていた。暗い山道を。
「ニニギさま」
「何だ」
「花の名前、たくさん覚えましたね」
「覚えたくて覚えたんじゃない」
「でも覚えた。——山吹、椿、藤、梅」
「…………」
「大山津見さま、手ごわいですね」
「手ごわい。——サルタビコは力の壁だった。大山津見は——存在の壁だ。隣にいるだけで何も言えなくなる」
「お父さんですからね。娘を守りますよ」
「守る——俺は敵じゃない」
「お父さんからすれば、娘に近づく男は全員敵です」
「…………」
「でもニニギさま。一つ良いことがありました」
「何だ」
「コノハナさま。——『少しだけ離れていてください』って、お父さまに言いましたよね」
「……言った」
「あの人も——二人きりになりたかったんですよ」
「…………」
「ニニギさまだけが追いかけてるんじゃない。——向こうも、こっちを見てる」
足が——止まった。
暗い山道で。月が木の間から見えていた。
「……そうか」
「そうです。——だから諦めないでください。諦めるつもりないでしょうけど」
「ないな」
「でしょうね」
山を降りた。集落に戻った。
花の名前を四つ覚えた。コノハナの名前を呼ぶことは一度もできなかった。
しかし——「少しだけ離れていてください」を、あの人は父に言った。
それだけで——山を登った甲斐があった。




