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第七章 名前を知った日


 三度目。

 夕方を待たなかった。昼過ぎに丘に登った。あの木の下に行った。

 いた。

 今度は後ろ姿ではなかった。木の根元に座って、膝に花びらを集めていた。俺が来る方角を——見ていた。

 待っていたのか。

「……こんにちは」

 向こうから声をかけてきた。穏やかな声。

「……ああ」

 また「ああ」だった。しかし昨日より声が出た。力が入った。進歩だと思いたい。

「今日は——昼ですね。昨日は夕方でした」

「……待てなかった」

 言ってから気づいた。今の言葉の意味。夕方まで待てなかった。会いたくて。——そういう意味に聞こえる。

 聞こえたらしい。その人の頬が——かすかに赤くなった。花びらと同じ色に。

「……座りますか」

「座る」

 木の根元に並んで座った。間が——空いた。三人分ほど。近くはない。しかし昨日の十歩よりずっと近い。

 花びらが舞っていた。この木は——いつでも花びらを散らしている。風がなくても。

「この木は——いつも花が咲いているのか」

「はい。——この木だけ。他の木は季節がありますが、この木だけは一年中」

「なぜだ」

「分かりません。——昔からそうだと」

「…………」

 聞かなければならないことがある。名前。今日こそ。

 口を開いた。

「名前を——」

「——お嬢さま!」

 声がした。丘の下から。昨日の老婆ではなかった。若い女の声。

「お嬢さま、お父さまがお呼びです!」

 その人が——立ち上がりかけた。

「待ってくれ」

 言えた。今度は言えた。

「名前を——聞きたい」

 その人が——俺を見た。黒い目。近くで見ると——目の中に金色の点があった。光を反射しているのではない。目そのものに金色がある。

「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」

「…………」

「長いですか」

「……いや。——花の名前か」

「はい。木の花が咲くように——と。父がつけました」

「父」

「大山津見神(おおやまつみ)です。——山の神」

 大山津見。山の神。この土地の山を治める神の娘。

「あなたのお名前は」

「——ニニギ」

「ニニギさま」

「…………」

「いいお名前ですね」

 いい名前かどうか考えたことがなかった。名前は最初からあった。誰かにつけられた名前を呼ばれてきただけだ。しかし——この人に呼ばれると、初めて名前をもらった気がした。

「——お嬢さま!」

「はい。——すみません。行かなければ」

「……ああ」

「また——ここに来てもいいですか」

「いい。——俺もここに来る」

「では——また」

 木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)が——丘を降りていった。若い女と一緒に。花びらが後を追った。

 名前を——知った。

 コノハナサクヤヒメ。木の花が咲くように。花の名前を持つ人。

 丘の上で一人残された。花びらが一枚、手のひらに落ちた。握った。潰さないように。

 翌日も行った。

 コノハナは——いた。しかし一人ではなかった。

 侍女がいた。昨日の若い女。それに加えて——もう一人。年配の女。目が鋭い。俺を見て眉を寄せた。

「お嬢さま。あの方はどなたですか」

「天から降りてこられた方です」

「天から。——お父さまはご存じですか」

「……まだ」

「まだ。——お嬢さま。殿方と二人きりでお会いになるのは」

「二人きりではありません。あなたがいます」

「…………」

 侍女が——俺と木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)の間に座った。壁のように。

 会話ができなかった。

 正確には、侍女越しに話すことはできた。しかし——侍女が全ての言葉に反応する。

「いい天気だな」

「はい。——いい天気ですね」

「お嬢さまに話しかけておられるのですか?」と侍女。

「……ああ」

「ならばまず自己紹介をなさるべきでは」

「……ニニギだ。天から来た」

「天から来た——素性は確かですか」

「天孫だ。アマテラスの——」

「確認はお父さまがなさいます。——お嬢さま、そろそろ」

「もう少しだけ——」

「なりません」

 連れていかれた。

 また名前を呼ぶことすらできなかった。

 その翌日。

 行った。コノハナはいた。侍女が——三人に増えていた。

「……増えている」

「お父さまが——心配して」

「心配。何を」

「天から来た男がうろついていると——」

「うろついてはいない。ここに来ているだけだ」

「同じことだと、父は——」

 侍女の壁が厚くなっていた。コノハナの顔が——侍女の肩越しにしか見えない。

 黒い目が。こちらを見ていた。困ったような——しかし笑っているような目。

「……すまない。迷惑をかけているか」

「迷惑では——」

「お嬢さま。お返事なさらないでください」と侍女。

「…………」

 帰った。丘を降りた。何も言えなかった。

 アメノウズメが集落の入口で待っていた。

「どうでした」

「侍女が三人になっていた」

「増えた」

「増えた」

「名前は聞けたんですよね、昨日」

「聞けた。——木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」

「きれいな名前ですね。——で、今日は話せたんですか」

「侍女が——壁だった」

「壁」

「壁だ。目の前に座って塞いでいる」

 アメノウズメが——笑った。腹を抱えて。

「笑うな」

「だって——天孫が侍女に阻まれてるんですよ。サルタビコには剣を抜いて突っ込んだのに。侍女には何もできない」

「侍女を斬るわけにはいかないだろう」

「そりゃそうですけど」

「…………」

「お父さまに会ったらどうですか。大山津見(おおやまつみ)さまに。正面から」

「……正面から」

「娘に会いたいなら父親に筋を通す。——地上ではそういうものだと思いますよ」

「地上では」

「高天原(たかまがはら)にそういう決まりはないですけど。地上は——重いんでしょう? 空気も水も。たぶん人の繋がりも重い。手順を踏まないと動けない」

 手順。

 高天原(たかまがはら)では——欲しいものは手を伸ばせば届いた。会いたい人には歩いていけばよかった。壁がなかった。

 地上には壁がある。侍女という壁。父親という壁。手順という壁。

「……面倒だ」

「面倒でしょうね。——でもニニギさま」

「何だ」

「面倒だから引くんですか」

「…………引かない」

「でしょうね」

 アメノウズメが笑った。今度は——からかう笑いではなかった。

「大山津見(おおやまつみ)さまの屋敷は山の上だそうですよ。集落の人に聞きました」

「聞いたのか」

「聞きました。——ニニギさまが聞かないから、私が」

「…………」

「明日——行きますか」

「行く」

 迷わなかった。

 名前を知った。会いたい。話したい。二人きりで。そのために——父親に会う。山の神に会う。

 サルタビコのときと同じだ。道を塞ぐ者がいるなら——行く。

 ただし今度は剣を抜かない。

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