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第六章 日向の夕暮れ


 朝。あの丘に行った。

 あの木はあった。花が咲いていた。薄い桃色の花。昨日と同じ。風が吹けば花びらが舞う。

 ——誰もいなかった。

 木の下に立った。見渡した。丘の周りの草原。森の縁。川の光。

 いない。

「ニニギさま。何してるんですか」

「……散歩だ」

「同じ場所に三回来て散歩ですか」

「三回目か」

「三回目です。——昨日の人を探してるんですよね」

「探していない」

「嘘ですね」

「…………」

 探していた。

 認めたくなかったが探していた。あの目を。あの花びらを。あの後ろ姿を。

 天孫が。三種の神器を持つ者が。名前も知らない相手を——追っている。

「集落の人に聞いてみましょうか。あの木のそばにいた人のこと」

「聞くな」

「なんでですか」

「…………聞くな」

 理由が分からなかった。なぜ聞きたくないのか。知りたい。名前を知りたい。しかし人づてに聞くのは——違う気がした。

 何が違うのか。分からない。分からないことが多すぎる。地上に来てから分からないことしかない。

 昼まで丘にいた。来なかった。

 降りた。集落の方に歩いた。

 道があった。昨日は獣道だと思った道が——人の道だった。踏み固められている。幅がある。両側に石が並べてある。

「この道——誰が作ったんですか」

 集落の若者に聞いた。

「大国主(おおくにぬし)さまの道です。——昔、出雲の神さまが繋いでくださった」

 また大国主。この土地の全てにあの名前がある。道にも。田にも。水路にも。

「道を繋ぐ——どういう意味だ」

「歩けるようにする、ということです。山を越えて、川を渡って、村と村の間を歩けるようにする。それが——道を繋ぐ」

「…………」

 歩けるようにする。それだけのことか。しかし——それだけのことを、ここの人間は大事そうに言う。

 歩いた。道を。大国主(おおくにぬし)が繋いだ道を。

 足の裏に——あの気配はなかった。来るときと来ないときがある。呼べば来るものではない。

 アメノウズメが道端の花を摘んでいた。

「きれいですね、地上の花は」

「……ああ」

「あ。ニニギさまが花をきれいだと言った」

「言ってない。同意しただけだ」

「同じですよ。——昨日の人のそばにも花がありましたよね。あの薄い桃色の」

「…………」

「あの花、何て名前なんでしょう」

「知らない」

「花の名前も分からない。あの人の名前も分からない。——分からないことだらけですね」

「うるさい」

 午後。

 やることがなかった。高天原(たかまがはら)でもやることはなかったが、覗く場所があった。宮殿の縁から地上を。今は——地上にいる。覗く先がない。

 草薙剣(くさなぎのつるぎ)を抜いた。丘の上で。素振りをした。

 重かった。

 高天原(たかまがはら)で振っていたときより重い。体が重いから剣も重い。しかし——振れた。何度も振った。

 振るたびに——雲模様を見た。動かない。あの夜、橋の上で「頼む」と言ったとき震えた雲は——動かない。

 何が足りないのか。守るものを見つけろとサルタビコは言った。まだ見つけていない。降りたばかりだ。見つかるはずがない。

 日が傾いた。

 また夕焼けが来た。昨日と同じ色。しかし——少し違った。雲の形が違う。だから赤の具合が違う。地上の夕焼けは毎日違うのか。

 丘の頂上に戻った。

 あの木の下に——

 ——いた。

 同じ場所に。同じ後ろ姿で。

 夕焼けを見ていた。長い髪が風に揺れていた。花びらが周りを舞っていた。昨日と同じ光景。

 しかし今日は——走らなかった。叫ばなかった。

 歩いた。静かに。草を踏む音を消そうとした。消せなかった。地上の草は音がする。高天原(たかまがはら)の床は音がしなかった。

 十歩の距離まで来た。

 花びらが俺の肩に触れた。昨日と同じ桃色の花びら。

 その人が——振り返った。

 昨日より——近かった。

 目が合った。黒い目。大きい。深い。夕焼けの赤を映している。

 ——今日は喋る。名前を聞く。口を開く。

 開いた。

「——」

 声が出た。しかし言葉にならなかった。音だけが口から漏れて、意味を持たないまま風に混ざった。

 何だ。なぜだ。サルタビコに向かって「俺は天孫だ」と言えた口が。なぜ。

 その人が——首を少し傾げた。

「……風が、強いですね」

 声だった。

 その人の声だった。低くはない。高くもない。穏やかだった。花びらと同じ温度の声。

「……ああ」

 出た。一言だけ。「ああ」だけ。天孫の返事が「ああ」一言。情けない。

「毎日——ここに来られるのですか」

「……今日で——二日目だ」

「私も——よくここに来ます。この木が好きなので」

「…………」

「あなたは——ここの方ではありませんよね」

「……天から——来た」

「天から」

「ああ。——昨日、降りてきた」

「……そうですか。——だから見たことがない方なのですね」

 微笑んだ。昨日と同じ微笑み。口元だけ。しかし今日は——目も笑っていた。少しだけ。

 名前を聞かなければ。今だ。今しかない。花びらの壁が来る前に。風が強くなる前に。

「名前——」

「——あら。」

 声がした。別の声。後ろから。

「お嬢さま。こんなところにおられたのですか」

 老婆だった。集落の方から丘を登ってきた老婆。息を切らしている。

「すみません。——呼ばれてしまいました」

「…………」

「また——お会いできますか」

「……ああ。——ここに来る」

「では——また」

 その人が——丘を降りていった。老婆と一緒に。花びらが後を追うように舞った。

 名前を——聞けなかった。

 また。

「ニニギさまー」

 アメノウズメが丘の下から叫んでいた。

「喋れましたか!」

「……少しだけ」

「名前は!」

「……聞けなかった」

「えー」

 えー、じゃない。

 丘の上に立っていた。夕焼けが沈んでいく。花びらが風に乗って飛んでいく。あの人が降りていった方角に。

 喋れた。少しだけ。「ああ」と「二日目だ」と「天から来た」と「ここに来る」。

 四つ。言えた言葉が四つ。

 サルタビコには十も二十も言葉を投げつけたのに。この人の前では四つしか出ない。

 しかし——「また会えますか」と聞かれた。

 向こうから。

 向こうが——聞いてくれた。

 「また」と言った。「また」があるのだ。

 足の裏に——何かが触れた。

 四度目。

 今度は——温かかった。今までは痺れだった。振動だった。今度は——温かさだった。大地の奥から、足の裏を通じて、かすかに。

 気のせいだろう。

ご拝読いただきありがとうございました!

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