第五章 地上の重力
水が重かった。
川を見つけた。橋を降りてすぐのところに。山から流れてくる細い川。透明な水が岩の上を走っている。
飲もうとした。手で掬って。
——こぼした。
水に重さがあった。高天原にも水はある。しかしあちらの水は光に近い。掬えば手の中にとどまる。地上の水は——重くて、速くて、指の間から落ちる。
「ニニギさま、こうやるんですよ」
アメノウズメが口を川面に近づけて、直接飲んだ。犬みたいに。
「……格好悪くないか」
「誰も見てませんから」
仕方なく真似した。水が口に入った。
——冷たかった。
高天原の水は温度がなかった。冷たくも温かくもない。ただの水。地上の水は冷たかった。歯に染みた。喉を通るとき——体の中に線が引かれるような感覚。
「……うまい」
「うまいですよね。——高天原の水と全然違う」
「違う。何がどう違うのか分からないが——違う」
「冷たいからじゃないですか」
「冷たいとうまいのか」
「たぶん」
たぶん。何も分からないまま、水だけが腹に入った。
歩いた。
山の裾を。森の縁を。草が生えた道を。道と呼べるか分からない。獣が踏んだ跡か、水が流れた跡か。
歩くたびに足が重かった。高天原では百歩歩いても疲れない。地上では二十歩で息が上がった。
「ニニギさま、遅いです」
「うるさい。——体が重い」
「私も重いですよ。でも動けます」
「お前は踊れる体力がある。俺にはない」
「踊ると体力がつきますよ」
「踊らない」
空気も重かった。吸うと——肺が膨らむ。高天原では呼吸している感覚がなかった。吸っているのか吐いているのか分からなかった。地上では——吸うと膨らみ、吐くと縮む。体が動いている。生きているという感覚が、呼吸のたびにある。
妙な感覚だった。不快ではない。しかし慣れない。
日が傾いてきた。
高天原には日の傾きがない。いつでも光がある。地上には——時間があった。光が変わる。白から黄に。黄から橙に。橙から——
「……何だ、あの色」
空が燃えていた。
西の空が。山の稜線の上が。赤と橙と紫が混ざった色。名前を知らない色。高天原にはない色。
「夕焼けですね」
「夕焼け」
「日が沈むときの色です」
「……知っている。上から見たことがある。しかし——」
「中にいると違いますよね」
「違う。——全然違う」
上から見た夕焼けは小さかった。地上の一部分が赤くなっているだけだった。中にいると——空の半分が燃えている。頭の上から足元まで、全部が赤い。
見ていた。しばらく。
風が吹いていた。温かい風。草の匂いがする風。高天原の風には方向がなかった。地上の風には方向がある。西から。山の方から。夕焼けの方から。
丘があった。草に覆われた小さな丘。登った。頂上に立った。
見渡した。
日向。
ここが——日向か。アマテラスが「降りる場所」として示した土地。太陽が最初に当たる場所。
山があった。幾重にも。近い山は緑で、遠い山は青で、一番遠い山は紫だった。同じ山なのに——距離で色が変わる。上から見ると全部同じ緑だった。中にいると違う。
田があった。水を張った四角い土地。人間が作ったものだ。上から見たことがある。小さな生き物が土を這っていると思っていた。
川があった。さっき水を飲んだ川より太い。光を反射して——夕焼けの赤を映していた。川が赤い。水は透明なのに、空の色を映して赤い。
「……濃い」
また言っていた。同じ感想。しかし——他に言葉がなかった。地上は濃い。それしか言えない。色が。匂いが。音が。重さが。全部。
「ニニギさま。あそこに集落がありますよ」
アメノウズメが指差した。丘の下に。煙が上がっていた。家がある。人がいる。
「行きますか」
「……行く。——腹が減った」
「あ、お腹すくんですね、地上では」
「すく。——初めてだ。腹が減るという感覚は」
「私もです。何か食べたい。何を食べるんでしょう、地上の人は」
飯を食った。
集落の人間は——俺たちを見て驚いた。当然だ。空から降りてきた者がいきなり現れたら驚く。しかし——敵意はなかった。
「天から——来たのか」
老人が聞いた。白い髪の老人。
「ああ。——腹が減った」
「……飯でよければ、あるが」
握り飯をもらった。米を握ったもの。白い。温かい。手のひらに乗る大きさ。
噛んだ。
——何だこれは。
うまい。
水がうまかったのとは次元が違った。口の中で米が潰れる。甘い。噛むと甘くなる。飲み込むと——腹の中が温かくなる。体の奥から力が湧いてくる。
「……うまい」
「うまいですよね!」
アメノウズメが三つ目を食べていた。早い。
「これは——何だ。何でできている」
「米です。田で育てて、水で炊いたものです」
老人が言った。
「田。——あの四角い場所か」
「四角い——ああ、上から見れば四角でしょうな。あれは大国主さまが——」
老人が口をつぐんだ。
「……大国主?」
「いえ。——昔の話です。昔の神さまが、田の作り方を教えてくださったと。——もうおられませんが」
「もういない」
「目に見える世界からは——おられなくなった。しかし祈れば聞こえると」
「…………」
大国主。建御雷神が言っていた名前。地上の国を渡した男。目に見えない世界を治めると言った男。
足の裏が——また痺れた。
三度目。橋の上で。地上に降りたとき。そして今。
土の下から。何かが——触れている。
気のせいではない。三度目は気のせいではない。
「……老人。大国主に祈れば聞こえると言ったな。——どう祈る」
「足を地につけて、目を閉じて、心の中で呼びかけます。——それだけです」
目を閉じた。
足の裏に意識を向けた。
——
——何も聞こえなかった。
声はなかった。言葉はなかった。しかし——何かがいる感覚は消えなかった。土の下に。大地の奥に。遠くて、深くて、ぼんやりとした気配が。
目を開けた。
「聞こえたか」と老人が聞いた。
「……聞こえなかった。しかし——いる気がした」
「それでいいのです。——いる気がするだけで」
夕焼けが深くなっていた。赤が暗くなっていく。空の色が移っていく。
丘に戻った。集落の外の、さっきの丘に。握り飯をもう一つもらって、食いながら登った。
頂上に立った。
風が変わっていた。夕方の風。さっきより冷たい。時間が経つと風も変わるのか。全部変わる。地上は——全部が変わり続けている。
「ニニギさま。——あれ」
アメノウズメが言った。声が変わっていた。いつもの明るさではなかった。何かを見つけた声。
「何だ」
「あれ。——花びら」
風の中に——花びらが舞っていた。
薄い桃色の花びら。一枚ではない。幾枚も。風に乗って。丘の上を横切って。
どこから来ている。
丘の反対側を見た。
——木が立っていた。
一本の木。花が咲いていた。薄い桃色の花。枝いっぱいに。夕焼けの赤を受けて——花びらが光っていた。
その木の下に——
人がいた。
後ろ姿だった。
長い髪。夕焼けの赤を映している。細い肩。薄い衣。風に揺れている。花びらが——その人の周りだけ、多く舞っている。花が好んでそこに集まっているように。
立っていた。木の下に。一人で。夕焼けを見ていた。
俺が見ていることに——気づいた。
振り返った。
——目が合った。
黒い目だった。大きい。深い。夕焼けの光を映して——赤く光っていた。
花びらが頬を過ぎた。その人の頬を。白い頬に桃色の花びらが触れて、離れた。
何か言おうとした。名前を聞こうとした。口を開いた。
——言葉が出なかった。
何だ。何だこれは。声が出ない。俺は天孫だ。サルタビコに向かって啖呵を切った。三度弾かれても立ち上がった。なぜ——一人の後ろ姿に、声が出ない。
その人が——微笑んだ。かすかに。口元だけ。
風が吹いた。花びらが舞い上がった。花びらの壁が——その人を隠した。
風が止んだ。花びらが落ちた。
——いなかった。
木の下に——もう、いなかった。
「…………」
「ニニギさま。——どうしました」
「…………」
「ニニギさま?」
「……名前が——分からなかった」
「え?」
「名前を——聞けなかった」
アメノウズメが——俺の顔を覗き込んだ。
「……ニニギさま。顔、赤いですよ」
「夕焼けのせいだ」
「夕焼けはもう沈みかけてますけど」
「…………」
黙った。
丘の上に立っていた。花びらが一枚、肩に残っていた。薄い桃色。
握り飯の温かさは忘れた。水の冷たさも忘れた。夕焼けの赤も忘れた。
あの目だけが——残っていた。
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