↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/29

第五章 地上の重力

 水が重かった。


 川を見つけた。橋を降りてすぐのところに。山から流れてくる細い川。透明な水が岩の上を走っている。


 飲もうとした。手で掬って。


 ——こぼした。


 水に重さがあった。高天原(たかまがはら)にも水はある。しかしあちらの水は光に近い。掬えば手の中にとどまる。地上の水は——重くて、速くて、指の間から落ちる。


「ニニギさま、こうやるんですよ」


 アメノウズメが口を川面に近づけて、直接飲んだ。犬みたいに。


「……格好悪くないか」


「誰も見てませんから」


 仕方なく真似した。水が口に入った。


 ——冷たかった。


 高天原(たかまがはら)の水は温度がなかった。冷たくも温かくもない。ただの水。地上の水は冷たかった。歯に染みた。喉を通るとき——体の中に線が引かれるような感覚。


「……うまい」


「うまいですよね。——高天原(たかまがはら)の水と全然違う」


「違う。何がどう違うのか分からないが——違う」


「冷たいからじゃないですか」


「冷たいとうまいのか」


「たぶん」


 たぶん。何も分からないまま、水だけが腹に入った。


 歩いた。


 山の裾を。森の縁を。草が生えた道を。道と呼べるか分からない。獣が踏んだ跡か、水が流れた跡か。


 歩くたびに足が重かった。高天原(たかまがはら)では百歩歩いても疲れない。地上では二十歩で息が上がった。


「ニニギさま、遅いです」


「うるさい。——体が重い」


「私も重いですよ。でも動けます」


「お前は踊れる体力がある。俺にはない」


「踊ると体力がつきますよ」


「踊らない」


 空気も重かった。吸うと——肺が膨らむ。高天原(たかまがはら)では呼吸している感覚がなかった。吸っているのか吐いているのか分からなかった。地上では——吸うと膨らみ、吐くと縮む。体が動いている。生きているという感覚が、呼吸のたびにある。


 妙な感覚だった。不快ではない。しかし慣れない。


 日が傾いてきた。


 高天原(たかまがはら)には日の傾きがない。いつでも光がある。地上には——時間があった。光が変わる。白から黄に。黄から橙に。橙から——


「……何だ、あの色」


 空が燃えていた。


 西の空が。山の稜線の上が。赤と橙と紫が混ざった色。名前を知らない色。高天原(たかまがはら)にはない色。


「夕焼けですね」


「夕焼け」


「日が沈むときの色です」


「……知っている。上から見たことがある。しかし——」


「中にいると違いますよね」


「違う。——全然違う」


 上から見た夕焼けは小さかった。地上の一部分が赤くなっているだけだった。中にいると——空の半分が燃えている。頭の上から足元まで、全部が赤い。


 見ていた。しばらく。


 風が吹いていた。温かい風。草の匂いがする風。高天原(たかまがはら)の風には方向がなかった。地上の風には方向がある。西から。山の方から。夕焼けの方から。


 丘があった。草に覆われた小さな丘。登った。頂上に立った。


 見渡した。


 日向(ひゅうが)。


 ここが——日向か。アマテラスが「降りる場所」として示した土地。太陽が最初に当たる場所。


 山があった。幾重にも。近い山は緑で、遠い山は青で、一番遠い山は紫だった。同じ山なのに——距離で色が変わる。上から見ると全部同じ緑だった。中にいると違う。


 田があった。水を張った四角い土地。人間が作ったものだ。上から見たことがある。小さな生き物が土を這っていると思っていた。


 川があった。さっき水を飲んだ川より太い。光を反射して——夕焼けの赤を映していた。川が赤い。水は透明なのに、空の色を映して赤い。


「……濃い」


 また言っていた。同じ感想。しかし——他に言葉がなかった。地上は濃い。それしか言えない。色が。匂いが。音が。重さが。全部。


「ニニギさま。あそこに集落がありますよ」


 アメノウズメが指差した。丘の下に。煙が上がっていた。家がある。人がいる。


「行きますか」


「……行く。——腹が減った」


「あ、お腹すくんですね、地上では」


「すく。——初めてだ。腹が減るという感覚は」


「私もです。何か食べたい。何を食べるんでしょう、地上の人は」


 飯を食った。


 集落の人間は——俺たちを見て驚いた。当然だ。空から降りてきた者がいきなり現れたら驚く。しかし——敵意はなかった。


「天から——来たのか」


 老人が聞いた。白い髪の老人。


「ああ。——腹が減った」


「……飯でよければ、あるが」


 握り飯をもらった。米を握ったもの。白い。温かい。手のひらに乗る大きさ。


 噛んだ。


 ——何だこれは。


 うまい。


 水がうまかったのとは次元が違った。口の中で米が潰れる。甘い。噛むと甘くなる。飲み込むと——腹の中が温かくなる。体の奥から力が湧いてくる。


「……うまい」


「うまいですよね!」


 アメノウズメが三つ目を食べていた。早い。


「これは——何だ。何でできている」


「米です。田で育てて、水で炊いたものです」


 老人が言った。


「田。——あの四角い場所か」


「四角い——ああ、上から見れば四角でしょうな。あれは大国主(おおくにぬし)さまが——」


 老人が口をつぐんだ。


「……大国主(おおくにぬし)?」


「いえ。——昔の話です。昔の神さまが、田の作り方を教えてくださったと。——もうおられませんが」


「もういない」


「目に見える世界からは——おられなくなった。しかし祈れば聞こえると」


「…………」


 大国主。建御雷神(たけみかづち)が言っていた名前。地上の国を渡した男。目に見えない世界を治めると言った男。


 足の裏が——また痺れた。


 三度目。橋の上で。地上に降りたとき。そして今。


 土の下から。何かが——触れている。


 気のせいではない。三度目は気のせいではない。


「……老人。大国主(おおくにぬし)に祈れば聞こえると言ったな。——どう祈る」


「足を地につけて、目を閉じて、心の中で呼びかけます。——それだけです」


 目を閉じた。


 足の裏に意識を向けた。


 ——


 ——何も聞こえなかった。


 声はなかった。言葉はなかった。しかし——何かがいる感覚は消えなかった。土の下に。大地の奥に。遠くて、深くて、ぼんやりとした気配が。


 目を開けた。


「聞こえたか」と老人が聞いた。


「……聞こえなかった。しかし——いる気がした」


「それでいいのです。——いる気がするだけで」


 夕焼けが深くなっていた。赤が暗くなっていく。空の色が移っていく。


 丘に戻った。集落の外の、さっきの丘に。握り飯をもう一つもらって、食いながら登った。


 頂上に立った。


 風が変わっていた。夕方の風。さっきより冷たい。時間が経つと風も変わるのか。全部変わる。地上は——全部が変わり続けている。


「ニニギさま。——あれ」


 アメノウズメが言った。声が変わっていた。いつもの明るさではなかった。何かを見つけた声。


「何だ」


「あれ。——花びら」


 風の中に——花びらが舞っていた。


 薄い桃色の花びら。一枚ではない。幾枚も。風に乗って。丘の上を横切って。


 どこから来ている。


 丘の反対側を見た。


 ——木が立っていた。


 一本の木。花が咲いていた。薄い桃色の花。枝いっぱいに。夕焼けの赤を受けて——花びらが光っていた。


 その木の下に——


 人がいた。


 後ろ姿だった。


 長い髪。夕焼けの赤を映している。細い肩。薄い衣。風に揺れている。花びらが——その人の周りだけ、多く舞っている。花が好んでそこに集まっているように。


 立っていた。木の下に。一人で。夕焼けを見ていた。


 俺が見ていることに——気づいた。


 振り返った。


 ——目が合った。


 黒い目だった。大きい。深い。夕焼けの光を映して——赤く光っていた。


 花びらが頬を過ぎた。その人の頬を。白い頬に桃色の花びらが触れて、離れた。


 何か言おうとした。名前を聞こうとした。口を開いた。


 ——言葉が出なかった。


 何だ。何だこれは。声が出ない。俺は天孫だ。サルタビコに向かって啖呵を切った。三度弾かれても立ち上がった。なぜ——一人の後ろ姿に、声が出ない。


 その人が——微笑んだ。かすかに。口元だけ。


 風が吹いた。花びらが舞い上がった。花びらの壁が——その人を隠した。


 風が止んだ。花びらが落ちた。


 ——いなかった。


 木の下に——もう、いなかった。


「…………」


「ニニギさま。——どうしました」


「…………」


「ニニギさま?」


「……名前が——分からなかった」


「え?」


「名前を——聞けなかった」


 アメノウズメが——俺の顔を覗き込んだ。


「……ニニギさま。顔、赤いですよ」


「夕焼けのせいだ」


「夕焼けはもう沈みかけてますけど」


「…………」


 黙った。


 丘の上に立っていた。花びらが一枚、肩に残っていた。薄い桃色。


 握り飯の温かさは忘れた。水の冷たさも忘れた。夕焼けの赤も忘れた。


 あの目だけが——残っていた。


ご拝読いただきありがとうございました!

作者のモチベアップのために少しのお手間ですが、ご協力いただけると大変ありがたいです!


「続きをチェックしたい!」

→ 【ブックマークに追加】をポチッと!


「面白かった!」「続きに期待!」

→ 下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。