第四章 道が開く
橋を戻らなかった。
アメノウズメは先に帰した。俺は橋の途中に座ったまま、剣を膝に置いて——考えていた。
繋がっていない。サルタビコにそう言われた。握っているだけだ、と。
握る以外に何をすればいい。話しかけるのか。剣に。馬鹿らしい。しかし——
「……お前は誰だ」
言ってみた。剣に。
当然、返事はなかった。
しかし最初に握ったとき——あの嵐の記憶が走った。あれは剣の方から来たものだ。俺が呼んだのではない。剣が見せた。
剣が見せたいものがあった。嵐の男。八つ首の蛇。叫び声。
——あの男は何を叫んでいた。
目を閉じた。握った。柄を。強く。
来い。もう一度見せろ。あの嵐を。
——来なかった。
何も来ない。冷たい柄があるだけだ。雲模様は動かない。
「……頼む」
口に出た。
「見せてくれ。——お前が何なのか。俺は知らない。知りたい」
冷たかった。何も起きなかった。
——しかし。
雲が動いた。
気のせいかと思った。しかし——動いた。刃の中の雲模様が、ほんの一瞬、震えた。嵐のようにではない。風に揺れる草のように。かすかに。
すぐに止まった。
それだけだった。光ってはいない。力は出ていない。しかし——動いた。初めて。
「……動いた」
独り言だった。しかし——聞こえていた。
「——天孫。」
霧の向こうからサルタビコの声がした。
立ち上がった。歩いた。霧の中に。
サルタビコが立っていた。しかし——立ち方が違った。道を塞ぐように橋いっぱいに立っていた男が——少しだけ体を横にしていた。隙間ができている。人が一人通れるくらいの。
「……何だ」
「条件を出す。」
「条件」
「俺がこの境界を守っているのは——地上を踏む覚悟のない者を通さないためだ。力のある者を通すためではない」
「…………」
「お前の剣は光っていない。力は足りない。——しかし」
サルタビコの鼻の光が——揺れた。小さく。
「お前は剣に『頼む』と言った。天孫が。三種の神器を持つ者が。——剣に頭を下げた」
「聞いていたのか」
「境界の神だ。この橋の上の全ての声が聞こえる」
「…………」
「天の者は命じる。道具に命じる。武器に命じる。——頼む、とは言わない。お前は天の者らしくない」
「……褒めているのか」
「分からない。——しかし、天の者らしくない奴の方が地上には向いている」
サルタビコが——体をさらに横にした。隙間が広がった。人が二人通れる幅。
「通す。」
「…………通すのか」
「通す。——しかし条件がある」
「何だ」
「地上で——お前が何を守るか、見つけろ。見つけたら、剣は応える。見つけられなかったら——剣は永遠に沈黙する」
「守るもの」
「アマテラスにも言われただろう。自分で見つけろ、と」
「……言われた」
「同じことだ。——俺から言えるのはここまでだ」
サルタビコが——道を開けた。
完全に。霧が割れた。橋の先が見えた。光が変わった。白い光ではない。青い光。空の色。地上の色。
風が吹いてきた。下から。温かくて、重くて、匂いがする風。高天原の風には匂いがなかった。この風には——土の匂いがあった。草の匂いがあった。水の匂いがあった。
「……これが——地上の風か」
「ああ。——重いだろう」
「重い。——しかし」
「しかし」
「匂いがする。——悪くない」
「…………」
サルタビコの口元が——動いた。笑ったのかもしれない。赤い顔の、小さな口が。
「行け。——天孫」
「ニニギだ」
「…………」
「天孫ではなく。——ニニギだ。名前がある」
「……ニニギ。」
「ああ」
「行け、ニニギ。——地上で根を張れ。根を張れなかったら、戻ってくるな」
「戻るつもりはない」
「いい答えだ。」
歩き出した。橋の先に向かって。地上に向かって。
——足音がした。後ろから。
「待ってくださーい!」
アメノウズメだった。帰したはずの。
「帰ったんじゃなかったのか」
「途中まで帰って戻ってきました。——だってニニギさまが帰ってこないから」
「…………」
「あ。道、開いてる」
アメノウズメがサルタビコの横を通り過ぎようとした。
止まった。
サルタビコを見上げた。サルタビコが見下ろしていた。
「サルタビコさん。——ありがとうございます。通してくれて」
「…………」
「また会えますか」
「…………」
サルタビコが——黙った。長い沈黙だった。
「この境界を守る限り——ここにいる。」
「じゃあ会えますね。——ここに来ればいいんだから」
「…………」
アメノウズメが笑って、走っていった。俺の後を追って。橋の先に。地上に向かって。
振り返った。最後に。
サルタビコが立っていた。道を開けたまま。霧が戻り始めていた。巨大な体の輪郭が霧に溶けていく。
鼻の光だけが——最後まで見えていた。
いつもより——明るかった。
地上が近づいていた。
橋の傾斜が急になった。光が変わった。白から青に。空気が変わった。軽さが消えた。足の裏に——何かが押し返してくる感覚。引っ張られている。下に。
重い。
体が重い。高天原では感じなかった重さ。一歩ごとに足が沈む。服が重い。剣が重い。鏡が重い。玉が重い。自分の体が重い。
これが——重さか。
地上の重さ。大地が引く力。
「ニニギさま、重くないですか」
「重い」
「私も重いです。——足が地面に吸いつくみたい」
橋が——終わった。
足の下に——土があった。
踏んだ。
——沈んだ。
足が。土に。ほんの少し。草薙剣の雲模様が動いたのと同じくらい——ほんの少し、足が土に沈んだ。
土だ。
土の感触がある。足の裏に。冷たくない。温かくない。ただ——ある。硬くて、湿っていて、ざらざらしていて。
高天原にはなかったもの。
「……これが——地上か」
見渡した。
山があった。近い。上から見ると小さかった山が——目の前にあると巨大だった。
木があった。緑が濃い。葉が揺れている。風が動かしている。
空があった。青い。広い。上にある。高天原では空は横にあった。ここでは——上にある。見上げないと見えない。
匂いがした。草と土と水の匂い。混ざった匂い。名前のない匂い。
「……濃い」
上から見て思っていた通りだった。地上は——濃い。色が。匂いが。重さが。全部が濃い。
足の裏の土が——動いた気がした。
橋の上で感じた、あの振動。気のせいだと思った振動。また——来た。足の裏から。土を通じて。
何かが——下にいる。
地上の下に。土の下に。この大地の奥に。
何かが——いる。
気のせいだろう。——たぶん。
たぶん、ではなくなりつつあった。
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